第85夜 6・13 十円銅貨一枚の人生

6・13 十円銅貨一枚の人生


 今日は、今年一番の雨だった。そして、空は晴れて、無風だ。洗い流された空気に、久しぶりの新宿の灯が見える。

 無風は、何日かに一度訪れる。それはこの私小説も同じだ。そして、今日がその無風の日だ。何も書けない夜。停滞する夜に、何を想う。

 静止して、空気は夜に沈んでいく。文字を書く人間の底には、昼間舞い上げられた土埃が、おりのように溜まっていく。そのおりを、少しだけ掬い取る。そうして三枚の織り物が出来上がる。救い上げるべきおりの無い夜に、書かれるものとは、いったい何か。書かれるべきおりの沈まない夜には、書かれない筈だった些事が掬われる。――ひとつ、小さな話でも書こうか。

 自動販売機でジュースを買う。丁度ぴったり小銭を入れる。商品を取り出して、ふと釣り銭箱に気がついた。十円銅貨が、一枚。返ってくるはずのない一枚。それは、だれかに忘れられた銅貨だ。

 柾木は、そこに人生を感じる。十円銅貨のごとき人生。降りしきる大雨の真昼に、置き忘れられた一枚の銅貨。人は銅貨を拾う時間より、濡れることを厭うて足早に去った。銅貨は肌に湿度をまとって、忘れ去られたままそこにある。赤茶色の肌は冷え切っていく。後からまた誰かに拾われても、なんだ、十円か。その程度の感興。自販機の釣り銭箱に人生が、取り忘れられ、転がっている。青年はそこに自らを見出す。彼はそれを拾わずにいられない。人生は、寂しいポケットの中で、揺られて少しだけ温まる。(了)

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