祭りのあと その7



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 無人のバスルームは、想像通りヒヤリとしていた。

 ドレスも下着も脱ぎ捨てたロレッタが、温浴用の湯船に手を突っ込んだ。

 思った通り地下水脈から汲み上げられたらままの、痺れるような冷水だ。

 桶に水を汲み、頭からかぶると心臓にドシンと衝撃が走った。

「ひぃ~~~っ」

 頭を振った。

 更に数杯冷水を浴びて水温に身体を成らすと、髪を洗い、身体を洗い、石鹸のあぶくで覆われた身体に再び水を浴びせた。

「ヒャッ!!」

 と、小さな悲鳴を上げて飛び上がった。

「冷たい」

「やっ」

「もうっ!!」

 と、ボヤきながらも、なんだかこれが楽しくなって来た。

 水遊びの感覚だ。

 冷水浴用のプールに目をやった。

 冷水浴用だけに、湯船に比べ水深が深く、泳げるほど広い。

 初花を迎える前、山野で泥んこになって遊んだあとは、兄たちと一緒に、この大浴場で風呂に入り、このプールで大はしゃぎしたものだ。

 湯船同様に、すでに水が張ってある。

 スミレ色の瞳が、いたずらっ子のように輝いた。

 深呼吸をすると、頭から飛び込んだ。

 澄んだ冷水のなかを、少し陽に焼けたロレッタの裸体が、魚のように自在に泳ぎ回る。

 背中まである鳶色の髪が、水の中で幻想的に揺らめいた。

 水底みずぞこに横たわり眼を開いた。

 明かり取り用の窓から差し込んだ陽の光が、水によって屈折し不思議な別世界の光景をロレッタに見せた。

 それにしても、なんと気持ちよさそうに泳ぐものだろうか。

 もし海で泳ぐロレッタの姿をを目にしたならば、伝説の人魚と勘違いしたに違いない。

 それほど見事な泳ぎぷりである。

 身体の芯がカッと熱くなるまで泳ぎ続けると、プールの端に手を掛け飛び出した。

 そこで呆然と立ち尽くす侍女と目が合った。

 余りの驚きに、声を詰まらせた侍女が、つっかえつっかえ声を掛けた。

「姫さま!?」

「お父さまには、内緒にしてね」

 含み笑いを漏らしながら、ロレッタはバスルームをあとにした。


 蟄居中、ヴェルス城内でロレッタが移動の自由を許されているのは、書庫とトイレとバスルーム、それに癒やし手の老爺の居室の四カ所のみである。

 中庭に出ることも許されなければ、城壁の上から外を眺め見ることも許されない。

 息が詰まるような、不自由極まる生活を余儀なくされていた。

 薬草の香りが、ほのかに漂う室内で、老爺の枯れ枝のような手が、ロレッタの頬に触れるか触れないかのぎりぎりの位置で留まっていた。

 老爺の手から、ジワリと波動のようなものが放出されているのを、ロレッタは感じていた。

 それは磁石が放つ磁気のようなものであり、焼けた石が放つ熱波のようなものであり、春の柔らかな日差しのようなものでもあった。


 ラモーナとの乱闘で負った顔の傷は、ロレッタの想像よりも重かった。

 ロレッタの首が並の娘よりも遙かに太く強靭な筋肉で覆われていたからこそ、命があったようなものだと老爺は呆れながら話した。

 一日に二度、ロレッタは老爺のもとを訪ねて治療を受ける。

 昼食前に一度、就寝前にもう一度だ。

 顔の湿布を貼り替え、処方された薬を受け取ると部屋を出た。

 蟄居の間は、庭を眺めることすら儘ならない。

 真っ直ぐに書庫に戻ると、テーブルの上に用意されていた昼餉ひるげを口にする。

 ゆっくりと食事を摂り、ひと休みを入れて、再び机に向かう。

 この頃になると、ロレッタの服装が変わっていた。

 当初は、父王の言いつけ通りドレスを着て過ごしていたのだが、それだと余りに効率が悪いと、いまでは胸当てと下帯だけのほとんど全裸と変わらない姿で生活している。

 この場に、もし六人の姉がいたなら、アレクシスとフェリシアは腹を抱えて笑い転げたであろうし、その側で四人の姉たちは眉をひそめていただろう。

 殊更ことさら身嗜みだしなみにうるさいアナベルが『はしたない』『だらしない』『みっともない』と、柳眉を逆立て散々に叱責した筈だ。


 もっともロレッタにしてみれば、この格好は極めて合理的な思考の結果である。

 ドレスを着たままでは効率が悪いとなれば、こうなるほかにない。

 それにこの書庫には、滅多に人が来ない。

 守衛が中を覗くことは無いし、用がある者は必ずノックをする。

 よぼど火急の用向きでもない限り、勝手に入って来ることはない。

 ロレッタが入室を許可しなければ、一日中でも扉の前で待っているだろう。

 ロレッタはその間にドレスを着れば良いのだから、下着姿で過ごそうと何の支障もなかった。

 ドレスを脱ぎ捨てた開放感のなか、窮屈ながらも意外に快適な蟄居生活を送っていた。



 ♠



 ロレッタがそれを見つけたのは、君主についての考察の資料を探していた時のことだ。

 山のように積まれた本を掻き分け、高い場所に置かれた資料に手を掛けた瞬間、雪崩なだれのように無数の本がロレッタに押し寄せてきた。

 猫のように、パッと跳び退いたおかげで怪我はなかったが、崩れた書籍の山を整理しなければならない。

 癇癪かんしゃくを起こしつつ、散らばった本を抱えて書架に眼をやった時、偶然、その本が眼に入った。

 牛革の豪華な装丁そうていが施された、大判の書籍である。

 なぜか気になって手に取った。

 ずしりと重い。

 表紙を開いた。

「うわ~、きれい」

 思わず声に出た。

 見事な挿し絵が画かれている。

 署名を見ると、高名な画家が描いたものである。

「なんなのこれ?」

 題号だいごうに眼をやった。

『北方の神々』と題してある。

 著者はオリビア・バルボア。

 ロレッタはその場で胡座を組み、心惹かれるままにページをめくった。


 ――竜神りゅうじんを中心とし、東の象王しょうおう、西に獅子王ししおう、南の鷲王しゅうおう、北の一角獣と四方に力の象徴を配置した北方の神々を総じて『五大力信仰』と称したのは、北方の歴史仰研究の第一人者であられるアーノルド・トルーマン博士である。

 我々アイアロスの神々同様に、無数の神を戴く北方の信仰にいて、最も重きを置かれるのが、この五柱の神々である――


 と、いう序文を読み飛ばしたロレッタは、次々にページを飛ばして挿し絵を眺めた。

 五柱の神々を中心とした北方の数多あまたの神が、美しく具象と抽象を織り交ぜて画かれている。

 挿し絵を描いた画家は複数人いた。

 どれも高名な画家である。

 この本は、祖父カイル二世の蔵書なのではなだろうか?

 とにかく芸術と名の付くものには、目のない人だっただけに有り得るとロレッタは思った。

 その場で腹這いになったロレッタは、本のページをめくった。

 本文の内容は、正直どうでも良かった。

 挿し絵を眺めて入るだけで楽しいし、いい気晴らしになる。

 北方の自然崇拝の中心とされる黄金のドラゴン。

 東の四本牙の蒼いマンモスに、西の白いライオン、南の赤い牙鷲きばわし、そして北の黒き一角獣。

 ロレッタは北の守護神として画かれた一角獣に、少しの違和感を覚えた。

 なぜ一角獣なのか?

 神話によると、一角獣は世界を破滅に導く魔獸である。

 聖典に記された内容を鵜呑みにするなら、万を超す巨人の軍勢を率いて星々の王に戦いを挑み、敗れて地の底に堕とされたという。

 また外典には、戦った相手は神々ではなく人類であったとも。

 そのどちらも世界を黒い炎で覆い尽くし、人肉を啖らう、恐ろしげな怪物として描かれてある。

 ロレッタは北方の文化に詳しくない。

 北方の人々が、何故このような恐ろしい怪物を神として崇めるに至ったのか、不思議に思った。


 まだある。

 一角獣の姿だ。

 物の本によると、その姿は、ライオンの頭を持つ巨人であるという、しかも額には白く輝く角が生えているといえ。

 角を生やしたライオンなど、この世には存在しないし、ライオンの頭を持った巨人もいない。

 広大な領域を支配するドラゴン。

 地上最大の生物である毛長マンモス。

 北方の広大なツンドラを猟場とするライオン。

 大空の覇者にして最大の猛禽類たる牙鷲。

 どれも実在する動物である。

 北方の神々が悉く野生動物をモチーフとしているのに対して、なぜ一角獣だけ全くの想像の産物なのか?

 人類に取って脅威となる危険な生き物を神聖なものとし崇めるのならば、何故巨人ではないのか?

 遙かなる古代。

 巨人が地上を闊歩したのは、大地に残る様々な痕跡を見ても明らかである。

 無数に見つかる巨大な人骨も、その証明になる。

 人の胴体ほどもある巨大な頭骨を、ロレッタも見たことがある。

 身長は三メートルに達し、体重は六百キロを超すといわれる桁違いの巨躯。

 これほどの巨体を持つ人間が、かつて人類と共存していたという事実に震えたのを覚えている。

 今尚いまなお使われる幾つかの慣用句にも、巨人の痕跡が色濃く残っている。

『怒れる巨人の所行』や『巨人が大剣を奮うが如く』がそれにあたる。

 どちらも恐怖を感じた時に使われる文句だ。

 人類の意識には、それほど根深く巨人に対する恐れが刻み込まれていた。


 う~ん、と唸りながら、ロレッタがその場で胡座をかいた。

 頭をガシガシと掻きながらページをめくった。

 一角獣の章に目を通したが、ロレッタが求める回答は得られなかった。

 どうやら著者であるオリビア・バルボアも、ロレッタと同じ疑問にぶち当たったらしい。

 竜神や象王の章に比べて、酷く曖昧な推論が展開されるにとどまっている。

 本当は書きたい、でも書けない。

 そんな懊悩おうのうが、文面ににじみ出ているようにも感じられた。

「オリビア。貴女は一体なにを見つけたの?」

 本を眺めながら、問い掛けるような小声で囁いた。



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 第三章 祭りのあと その8へつづく。


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