レーデルの孤狼 その4


 ♠



 辛い毎日であった。

 ハリエットは、ほぼ一日中泣きじゃくり、あの大きく愛らしい眼を真っ赤に腫らしていた。

 ロレッタは気丈な娘である。

 一見しただけでは何の変化も見られない。

 日々、剣術の稽古に励み、朗らかに笑い、旺盛な食欲をみせた。

 周囲の者も、さすがはロレッタさまだ。

 と、感心する程であったが、現実は違う。

 眼を醒ましたばかりのロレッタは、両目が真っ赤に腫れていた。

 枕はしっとりと濡れて、夜具はグチャグチャに寝乱れている。

 夜、深い眠りのなか。

 夢のなかで、身をよじって泣いていたのだ。

 それに最初に気づいたのは、ロレッタ付きの侍女であり。

 寝起きを共にふるバレンテであった。

 バレンテは、ロレッタの剣に深い懊悩おうのうを見ていた。


 二人を救うために具体的な対処したのは、ルシアン皇太子である。

 シオン一世の嫡男であるルシアンは、昨年の春アイアロスでの留学を終え帰国していた。

 ルシアンの帰国のタイミングは、一種、最悪のタイミングであった。

 王都ヴェルスを、ロレッタの悪評が席巻せっけんしていた時期なのである。

 ロレッタの成人の儀式に合わせての帰国は、ただでさえ物見高いヴェルス市民の好奇心を、大いに掻き立てた。

 予定通りの帰国であったが、ヴェルス市民はそんなことは知ったことじゃ無い。

 弟君であるダスティン王子の成人祝いにも、ジェイラス王子の成人祝いにも帰国されなかった皇太子が、なぜロレッタ王女の成人祝いには駆けつけたのか?

 やはりお二人には、道ならぬ深い絆があるに違いない、と。

 全く、くだらない噂である。

 ルシアンがアイアロスへと旅立った時、ロレッタは十歳の少女である。

 身体も大きく年齢より大人びて見えたが、十歳の少女は、あくまで十歳の少女だ。

 性愛の対象にはなり得ないし、なにより実の妹である。

 ルシアンは一顧だにしなかったが、捨て置ける問題でもなかった。

 噂話が人を殺すことを、ルシアンは知っていたからだ。


 ルシアンの生母プリシラ第一夫人は小貴族の出である。

 十二歳で宮廷入りしたシオン一世の教育係の一人として、歴史学の教鞭を執っていた。

 二人の出会いは、まさに運命の出会いであった。

 眼と眼が合った瞬間に、二人は恋に落ちた。

 お互いの立場の違いも、年齢差も、その他の如何なる障碍しょうがいも、燃えさかる愛の炎の前に障碍としての意味を失った。

 奇縁によって結ばれた二人の間に、最初の子であるアレクシス王女が誕生したのは、出逢ってから丁度一年後のことである。

 この時、シオン一世は十三歳、プリシラ第一夫人は十九歳であった。

 純粋な愛によって結ばれた二人だが、周囲の眼は冷ややかであった。

 特にプリシラへの風当たりは、相当に強かったようだ。

 プリシラの名は、成人前の皇太子を誘惑した野心家の悪女として、一躍ブロント全土に鳴り響くことになったのてある。

 この悪評は長らくプリシラと五人の子供たちを苦しめることになるのだが、それはまた別の物語だ。

 いまの問題はロレッタにある。


 父シオン一世は、深く母を愛していた。

 それはルシアンも理解している。

 ただ配慮が足りなかった。

 噂を打ち消す努力を怠った。

 それが結果として母の早世そうせいにつながったのだと、ルシアンは信じている。

 だから早急に対処しなければならなかった。


 過日、ルシアンは家臣との会食中、唐突にヴェルス城下を賑わせる噂話を話題に上らせた。

 笑いを交えながら、噂話のなかで自分とロレッタが、どのような痴態を演じたのか語ってみせたのだ。

 そのあまりの卑猥ひわいさと滑稽ぶりに、失笑を漏らす者もいたが、ほとんどの者は肝を凍らせた。

 ルシアン皇太子が殊のほか兄弟を大切にすることを、家臣一同承知している。

 そのなかでも特に可愛がっているのが、ロレッタ王女であることを知らない者ははない。

 幼少の頃から他の誰よりもルシアンに懐いていたのが、ロレッタである。


 奇妙な妹であると、今更ながらにルシアンは思う。

 姉たちには一切懐かず、自分の後を仔犬のようについて廻り、自分が剣を握れば剣を取り、弓を持てば矢を放ち、馬に乗ればポニーに跨がる、自分がすることはなんでも真似をした。

 その愛らしい姿に、妹とはこれほど可愛いものだったのかと、改めて知る思いだった。

 元気が良すぎるだけに、どこか危なっかしく、常に自分が見守ってやらねばならないという、一種の使命感がルシアンのなかに芽生えた。

 二十一人いるシオン一世の子供の中で、これほど仲の良い兄妹は他にいない。

 今は亡きルシアンの妃が、軽い嫉妬を覚えたほどである。

 その鍾愛しょうあいするロレッタを侮辱されたのだ。

 ルシアンが怒り心頭に発しているのは、疑いようがない。 

 激怒している男が殊更ことさら陽気に振る舞うのは、陽気に振る舞ってでもいなければ、いまにも爆発するほど、その怒りが強い証拠ではないのか。


 顔色を喪失った家臣たちの前で、ルシアンが世にも恐ろしいひと言を口にした。

『噂の出所はいずれ知れるだろう。ブロントの雷は、誣告者どもの肉を裂き、骨を砕き、魂を焼き払う。そうでなければ正義とはいえまい?』

 これほど明確な恫喝どうかつもあるまい。

 剛毅英邁ごうきえいまいの誉れ高いルシアン皇太子は、決して乱暴な男ではない。

 闊達かったつな人物だが、普段は穏やかそのものである。

 その穏やかな人物が、穏やかな口調そのままに、先ほどの言葉を口にしたのだ。

 怒った人間は大声を張り上げるものと思われているが、本気で怒った人間は、大声を張り上げることすらしなくなる。

 大声を張り上げることで、怒りの大部分が発散されてしまうからだ。

 地の底を這うようして届いたルシアンの声に、容易に発散することの出来ない根の深い憤りを感じて、家臣たちは文字通り震え上がった。

 この言葉は、誣告者たちへの死刑宣告であると同時に、自分たちへの最後通告に他ならない。

 火消しに奔走しなければ、お前たちの命も無いぞ。

 暗に、そう告げられたようなものだ。


 ルシアンの言葉は、瞬く間にヴェルス城内を駆け巡った。

 効果は、すぐに表れた。

 以後、新たな噂話がヴェルス城下を賑わすことは無くなった。

 ルシアンの脅しが利いた証拠であろう。

 そこで更に、もう一歩踏み込んだ手を打った。

 見聞を広めるためにと、ロレッタとハリエットの二人を旅に出したのだ。

 見方によっては、惨い仕打ちである。

 外聞の悪い二人を、王都から追放した形を取ったからだ。

 だが事実は違う。

 ロレッタもハリエットも心痛で憔悴しょうすいしきっていた。

 二人の心を癒すためには、ヴェルスとは異なる別の土地の新鮮な空気を吸わせる必要があったからだ。

 特に目的地を決めない物見遊山の旅。

 思い切った処置だが、これ正鵠せいこくを射ていたことは、ロレッタとハリエットの表情を見れば分かる。

 王都ヴェルスを出た時には、暗く沈んでいた二人の顔に、かつての輝きが戻っていた。

 王都を旅立って二年。

 姉妹は、以前にも増して自由闊達に青春を謳歌していた。



 ♠



 巨大な板に乗った巨大な焼きガニが、バレンテを記憶の旅から呼び戻した。

「おっほっ!! こいつはまた凄えのがやって来たな」

 人の胴体程もある巨大な甲羅に、子供の頭を挟めそうな巨大なハサミ。

 何もかも規格外のドデカさに、ド肝を抜かれた。

 到底一人で食べきれる量ではない。

 どうしたものかと顎を撫でながら思案していたバレンテの目に、エプロン姿のポッチャリ女と黒髪の青年の姿が写った。


 奥で水浴びをしたのだろう、服装が改まり、顔や手足の泥汚れが落ちていた。

「よお色女、こっちで一緒に一杯やらないか」

 ジョッキを掲げながら、バレンテが大声を張り上げた。

 ポッチャリ女が振り向き、黒髪の青年がジロリとバレンテを見た。

 バレンテがニヤリと笑った。

 駆け寄ろうとしたポッチャリを、黒髪の青年が右手で制した。

 血管の浮いた黒い肌の下に、鍛え抜いた筋肉が見える。

 腕力と握力は、相当の物だなとバレンテは想った。

「なんだよ。失礼なじーちゃんだな。色女ってのは、リタのことかい?」

 眉をひそめながら青年が聞いた。

「いいや、お前さんのこった」

 バレンテが笑った。

 黒髪の青年が目を見開き、ポッチャリが青年を見上げながら顔を顰めた。

「その腰つきを見て、お前さんを男と想うようなら、レーデルの男衆は見る目が無さ過ぎだな。そんな役立たずの目ん玉はくり抜いて、あとにウミガメの卵でも突っ込んどくさ。そのほうが役に立つってもんだ」

 バレンテの言葉に同意するように、数人の客が大きく頷いた。

 一瞬呆気に取られた黒髪の青年が、大口を開けて笑った。

 ポッチャリは憮然としている。

「だから言ったでしょ、そんな変装じゃ意味ないって!!」

 ポッチャリが啖呵たんかを切って、黒髪の青年の胸を平出で叩いた。

「でもリタ」

「でもリタじゃないわよ。こんなよそ者のお爺さんに、簡単にバレるような変装して。今頃街中が言ってるわよ。バカのグラディスが、またバカな真似してるって」

「バカバカいわないでよ、リタ。本当に自分がバカに思えて来るじゃない」


 もう!!


 と、地団駄を踏んだリタが、バレンテに振り向いた。

「ごめんなさいお爺さん。この人、先を急いでるもんだから、折角のお誘いですが、お相伴に預かれません」

 そう言うと、ペコリと頭を下げてグラディスの手を取った。

 急いで出口に向かう二人に、バレンテが謎めいた言葉を掛けた。

「急いでるなら、尚更ここでゆっくりした方が良いな。ご両人」

 枝切り鋏の様に刃先の短い甲羅切りで、焼きガニのハサミを割る、


 パチン、パチン、


 と、いう堅い音が妙な耳に残った。

「どういうこと?」

 カニの身を頬張り、ビールをひと口飲んだバレンテが感に堪えぬ様に膝を叩いた。

「ねえ、お爺さん」

 煙管に火を点け紫煙をくゆらせたバレンテが、ぽつんと言った。

「見張られとるよ」

「見張られ?」

 リタがオウム返しに口ずさみ、グラディスが顔色を曇らせた。

「心当たりが大ありってつらだな、そりゃ」

 ニヤリと笑った。

「三人一組で十二組。この店を中心に、遠巻きに取り囲まれてるよ」

「えっ!?」

「ボク一人を相手に三十六人も・・・、ヤードリーめ何考えてる」

「あの喧嘩ァ見事だった。この爺の血が久し振りにカッと熱くなったよ。まんまと連中を出し抜いたな」

 王女の橋での一件だと、グラディスはすぐに気づいた。

「だが、その後が良くねえ。三日経っても死体が揚がらないとなりゃ、連中だって馬鹿じゃない。一杯食わされたと気がつかァな」

 リタが再び振り向いてグラディスを睨んだ。

「あんたがさっさと逃げないから、こんな面倒なことになったのよ」

「だってリタ。あんたとの約束があったし」

「約束ですって!?」

 振り上げた拳をカニの甲羅に叩きつけて大声で怒鳴った。

「こんなもんのために命を捨てるなんて、あんたバカじゃないの!!」

 衝撃でジョッキがひっくり返り、カニの脚が周囲に飛び散った。

「おいおい、よしとくれよ。カニにゃ罪は無いだろう」

 暢気な声で抗議すると、リタが物凄い眼でバレンテを睨んだ。

「とにかく速く逃げなきゃ、お店に火を掛けられた大変なことになる」

 そう呟いて裏手に廻ろうとしたリタに、床に散らばった脚を拾い上げたバレンテが告げた。

「その心配なら要らねえよ」

 グラディスの手を引いたまま立ち止まったリタが、怪訝な表情でバレンテを見た。

 この老人は、さっきから何を言いたいのか?

「まあ、座んなよ」

 バレンテの顔をしげしげと眺めたグラディスが、大股で椅子を跨いでバレンテの正面に座った。

「なにやってんのあんたたち!?」

 リタの言葉には答えず、バレンテに顔を向けてグラディスが言った。

「なんで大丈夫だと思うの?」

 おもむろに甲羅切りを手にしたグラディスが、馴れた手つきで焼きガニを解体し始めた。

 炭火で炙られた甲羅は、未だにかなりの熱をもっているのだが、その辺は全く気にならないらしい。

「お城にゃ、いまブロントのお姫さま一行が来てるからさ」

 巨大な甲羅を引っ剥がすと、たっぷりと詰まったミソと内子を混ぜ合わせ、そこにマリナージをひと垂らし加えた。

「そういや街で話題になってたね。あの噂の淫乱山猫姫が来てるってさ」

「ちょっと」

 慌てた様子のリタが、グラディスの頭を平手で叩いた。

「なんて口を利くの、あんたは!!」

 リタの剣幕を全く意に介さず、ほぐしたカニの身を摘まんで、たっぷりのカニミソのデイップと一緒に口に運んだ。

「う~ん、最高」

 満足げに眼を細めて微笑んだ。

「なるほど、こいつは美味い」

 ジョッキを傾けビールを口にしようとしたバレンテを、グラディスが止めた。

「あ~ぁ、ダメだよ、ダ~メッ」

「なにがだい」

「マンモスクラブにビールなんてもったいない。ほかに良いお酒があるよ」

 そう言うと、隣でむくれてるリタに手招きをした。

「なに?」

「リタ、あれを持ってきてよ」

「あれって何さ!?」

「ヴェリートだよ」

「あんたたち、いまがどんな時だか判ってるの? 待ち伏せされてるのよ。グラディス!!」

 差し迫った空気にピリピリしているリタに較べて、グラディスはのほほんとしたものだ。

 命を狙われている緊張感など、微塵感じさせない。

「だって、このおじいちゃんが、ゆっくりしてけって」

「デメトリオだ」

「デメトリオ?」

「オレの名だよ」

 バレンテがビールを飲んだ。

「だからビールじゃないんだって、デメトリオじーちゃん」

 バレンテの手からジョッキをもぎ取ると、自分の喉に全部流し込んだ。

「おいおい、そりゃねーだろ」

「もっと良い物を出してあげるから」

 ジョッキを逆さまに置いて、改めてリタを見た。


 ふんっ


 と、鼻を鳴らしたリタが奥に引っ込んで行った。


「で、淫乱山猫姫が来てるからって、ボクが無事な理由わけってなに? デメトリオじーちゃん」

「そりゃお前。ブロントの姫さまたちが来てるって時に街から火でも出してみろ、ニンフェバルド守備隊の沽券こけんに関わらァな」

 事実、ニンフェバルド守備隊はロレッタたち一行が来着する前から、兵員を倍増して警戒にあたっていた。

「姫さまたち? 他にも来てんの!?」

「ハリエット姫がな」

「あ~、ヴェルスの睡蓮すいれん

「ロレッタ姫は淫乱山猫で、ハリエット姫はヴェルスの睡蓮かい」


 くっくっくっ


 と、含み笑いを漏らした。

 ロレッタが耳にしたら、眉を逆立て抜剣しかねない。

「だってハリエット姫は、子供じゃないか」

「ロレッタ姫は?」

「山猫って呼ばれるような姫さまだよ」

 理由は、それだけで十分って感じに言い切った。

 ロレッタの異名の由来は、目尻のつり上がった大きな眼と、王女らしからぬ行動にあるのだが、グラディスは知らないらしい。

 当然といえば、当然のことだ。

 バレンテが再び大声を上げて笑った。

「いいな~、かわいいんだろうな~、一度でいいから会ってみたいなぁ」

 頭の後ろで手を組んだグラディスが、椅子の上で延びをして天上を見上げた。

「そりゃ可愛いさ」


 ――えっ?


「会ったことあるの?」

「あるとも」

「どこで?」

 身を乗り出して問い掛けたグラディスが言葉を切り、眼をすがめてバレンテを見た。

「橋の上にいたんだよね?」

「おうとも」

 こめかみを指先でトントンと叩くながら、当時のことを思い出した。

 橋の上でヤードリーたちに取り囲まれ、周囲は野次馬で埋め尽くされていた。

 その中に頭ひとつ抜きん出た、水色の瞳の青年がいた。

 あの体格は、間違い無く騎士だ。

 その前には、その騎士の従士と思しき少年と、黒檀の杖をついた派手な外套の老人がいた。

 その老人の顔・・・

「デメトリオじーちゃん、あんた姫さまたちの、じいやか何かかい?」

 その問い掛けに、バレンテは黙って頷いた。

「やっぱり」

 グラディスが、パンッと音を立てて手を叩いた。

「良く判ったな。リタが言うほど馬鹿じゃないらしい」

「当ったり前だよ。ほんとにバカなら、この年まで生きてないよ」

 言いつつ給仕が運んで来た大皿を受け取った。

 皿の上には、二枚貝と巻き貝が山積みになっている。

 二枚貝は蒸してあり、巻き貝は炭火で焼いてあった。

 たまらなく食欲を煽る香りが、湯気に乗ってバレンテの鼻に届いた。

 素手で巻き貝を取ったグラディスが、

「アチチチ」

 と、喚きながら鉄製の楊枝で巻き貝の身を取り出すと、バレンテに手渡した。

「おいおい、こりゃ~」

 バレンテが巻き貝をしげしげと眺めた。

「ここがいッちばん美味しいんだ。熱いうちに、さっ」

 ひと口で頬張り奥歯で噛みしめる。

 潮の香が、フワッと鼻腔を駆け抜けていった。

 歯応えのある身の旨さと、クセのあるワタの苦味が、見事な調和でバレンテの肥えた舌をうならせた。

 この瞬間に飲める酒が無いことが、なんとも惜しかった。

 そう思った矢先、リタが戻って来た。

 ひと抱えもある巨大なかめを、給仕の男が二人係で慎重に床に置く。

 くすんだ外見から、相当に年期の入った瓷だと判った。

「遅いよ、リタ」

「遅いよじゃないわよ。こんな重たいもの、私が持ってこれる訳ないでしょ、あんたが取りに行けば良かったのよ。馬鹿力だけが取り柄なんだから、このバカ!!」

「はいはい、ごめんよリタ」

 唇にキスをして、グラディスが屈み込んだ。

 蜜蝋の封印を解き、蓋を覆った紙を剥がす。

「でも、良いの? これお父さんの形見でしょ」

「良いの、良いの、どうやらボクは今日死ぬ運命らしいから。いま飲まなきゃ、いつ飲むの?」

「バカなこと、言ってんじゃないの!!」

 蓋を開いた途端に、完熟した林檎を想わせる甘やかな香気が店内に充満し、バレンテを陶然とうぜんとさせた。

「おいおい、こいつァ」

「ヴェリートさ」

 柄杓でゆっくりと底から掻き回して、酒に十分に空気を吸わせると、小振りな杯にたっぷりと満たして、バレンテに手渡した。

「さぁ、どうぞ」

 リタにも杯を渡し、己の杯も酒を満たす。

 三人が、ゆったりと杯を干した。

 バレンテの胸が大きく膨らんだ、この極上の香と味を心ゆくまで反芻はんすうしている。

「百年物か?」

 囁くように呟いた。

「よく分かったね!!」

 驚いたようにバレンテを見た。

 水差しに注がれたヴェリートを手酌で杯に注ぎながら、バレンテが訊いた。

父御ててごの形見だと言ってたが?」

「そうだよ。ボクはパパから。パパはママのパパから、ママのパパは、ママのパパのパパから、代々受け継いで来たお酒さ」

 クイッと、杯を干すと、すっくと立ち上がり、

「みんな飲んでる~」

 と、周囲の客に声を掛けた。

 思い掛けない振る舞い酒にありついた酔客たちが、一斉に、

「おう」

 と、返事を返し、杯を高々と掲げた。

「百年物のラデラーナたァ、たまらねえ土産話が出来ちまったぜ」

「ラデラーナ?」

「そうさ、ラデラーナ」

「ヴェリートだよ。デメトリオじーちゃん」

「オレらの国じゃラデラーナで通ってる。レーデルの栄光って意味さ。レーデルを代表する酒って意味もある」

「ちがう、ちがう、ヴェリート。これは譲れない」

「そうか、ヴェリートか。覚えた」

「そうそう、ヴェリートだよ~」

 そう言って、バレンテの杯を酒で満たした。



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 第四章 レーデルの孤狼 その5へつづく


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