61 暗殺された大久保利通と紀尾井坂
坂の東側に紀州徳川家(清水谷公園からグランドプリンスホテル)、北側に尾張徳川家(現在の上智大学)、南側には彦根藩井伊家(ホテルニューオータニ)があったことから、一字づつ名前を取って『紀尾井坂』と名づけられた。周辺の地名の『紀尾井町』は、この坂の名前に由来する。
西から紀尾井坂から清水谷に下ると清水谷公園が広がり、東の清水谷坂、銀杏坂を上って新宿通りに至る。この他周辺には『紀伊国坂』をはじめ、『諏訪坂』、『貝坂』などがある。
坂下の清水谷は、清水が湧き出していたことから付いた名前で、現在も清水谷公園の中に湧き出すところは残っているものの、残念ながら私が訪れたときには、水は枯れていた。
清水谷公園北側の交差点は変則的な四差路になっていて、十文字ではなく、東西に走る紀尾井坂・清水谷坂に対して南から上ってきた道は、東西の道に突き当たり、左にクランクして北上する。
清水谷から紀尾井坂を進むと緩やかな上りが、突き当りの頂上まで200mほど続く。坂の左手は、ホテルニューオータニの植栽が青々しく爽やかだ。坂の中ほどにスチール製の四角柱の坂の標識が立っているが、坂の傾斜に対して直角に立っているため、かなり傾いているように見える。坂の右手は上智大学の校舎ビル、ハウス食品本社、紀尾井ホールと続く。
坂の頂上左手前は、ホテルニューオータニの駐車場入り口になっているが、その入り口わきに古色蒼然としたガス灯が設置されている。青銅製の円柱の上部に花を咲かすように周囲に球状のガラスが8個、頂上に1個配されていて、明治の香が漂ってくる。近づいてみてみると、なんとこれは平成元年にホテルニューオータニ開業25周年を記念して建てられたものだった。
坂上の突き当りを飛騨に曲がると『食違い見附』、右に曲がると四谷見附(現在の四ツ谷駅)に至る。
『食違い見附』は、外堀の渡り道が防衛上の理由でジグザグに造られたことから名付けられたものである。1872年(明治5年)に木戸は取り壊されたが土塁が現在に至るまで残っている。食違い見附の先は、外堀を渡って紀伊国坂 に通じている。
1874年(明治7年)にはここで岩倉具視が襲われる事件が起きた(喰違の変)。
征韓論を支持する不平士族の旧土佐藩藩士武市熊吉に襲われたが、命に別状はなかった。
紀尾井坂では、1878年(明治11年)5月14日に内務卿の大久保利通が、不平士族の島田一郎等6名に襲撃されて死去している(紀尾井坂の変)。天皇陛下に謁見するため、朝8時過ぎに清水谷公園にあった大久保邸を馬車で出発すると、紀尾井坂の中ほどで暗殺犯6名による襲撃を受けたという。
不平士族とは、明治初期に反政府運動を行った旧武士階級のもの達のことをさす。西南戦争以後に、不平士族の反対運動は国会開設や憲法制定を要求する自由民権運動へと移行する。
清水谷公園(旧大久保邸跡)には、1888年(明治21年)大久保利通の哀悼碑が建立された。大久保利通が暗殺された時に乗っていた馬車は、後に遺族から岡山県倉敷市にある五流尊瀧院に奉納され、現存している。
現在は昔の「紀尾井坂の変」や「食違い見附の変」があったとは思えないような静かなたたずまいを見せている。食違い見附から四ッ谷駅までの外濠沿いは春は桜の咲き誇る素敵な散歩コースとなっている。
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