57 渋谷 天狗坂
東京の坂を歩き巡るようになって108つ目に訪れた坂が、渋谷区猿楽町にある『天狗坂』だった。特に意識していたわけではないが、私の百八つの煩悩を天狗さまが大団扇を煽いで振り払ってくれるために、ここに引き寄せられたのだろうか。
『渋谷』といっても繁華街にあるわけではなく、渋谷駅から直線距離にして南に600mほど下った、3~4階建ての低層のビル・マンションが立ち並ぶ路地にある小さな坂である。全長わずか36m、標高差2m、幅員4mほどしかないコンクリート舗装の坂で、滑り止めに円形の凹型が坂一面に付けられている。
センターラインの付いた道を進むと、坂はビルとビルの間に突然現れる。道の中央部の左右に車止めのための高さ50~60cm、縦横20cm程度の二本の石柱が埋められている。
坂下から上を望むと、坂の上にも石柱が中央に一本置かれている。坂下にある日本の石柱に比べると、やや大きく見える。坂を上っていくと石柱には、『てんぐ坂車止』と印されているのが見えてくる。下の二本の石柱には何も記い。
坂の上まで登って来て石柱の裏側に回ると、寄進した方の名前が記されているが、残念ながら、下のほうはコンクリート舗装に覆われている。見える部分に記された文字は、『世話人小池金作』と読みとれる。
この坂が『天狗坂』と呼ばれるようになったのは、近代に入ってからのことのようだ。
明治の実業家岩谷松平(号を『天狗』と称した 1849年(嘉永2年)~1920年(大正9年)は、鹿児島県に生まれた。1877年(明治10年)に上京し、銀座に紙巻煙草の磐田に天狗商会を設立した。その製品に金天狗、銀天狗などの名称をつけ、「国益の親玉」、「驚く勿れ煙草税金三百万円」などの奇抜な宣伝文句で、明治の世を風靡した。また、煙草の製造に家庭労働を導入するなど当時としては画期的、独創的な工夫をしている。
1905年(明治38年)に煙草専売法が実施されて煙草の販売が出来なくなると、渋谷区猿楽町で、広さ約4万3千平方メートル(1万3千坪)の土地に、日本人の肉食による体質の向上を考えて、養豚業を始めた。
何の変哲もない小さな坂に名前が付いた所以が、『明治のたばこ王』とあだ名された岩谷松平にちなんだ名前だったのである。
坂の上には、平屋建ての個人の家が建っていて、その庭には庚申塔、廿三夜塔、地蔵塔が道に向かって置かれている。
江戸時代の民間信仰の一つに庚申講(こうしんこう)があるが、60日ごとに講中が集まって念仏を唱え長寿を祈っていた。3年に渡り18回継続されると、その記念に庚申塔を建立する。表面には、青面金剛(しょうめんこんごう)、日月、三猿などが組み合わせて彫られているのが一般的だ。また単に『庚申塔』と文字で彫られることも有る。ここ天狗坂上には、三猿の上に青面金剛と日月を配したもの、三猿の上に天邪鬼(あまのじゃく)と日月を配したもの、三猿を中央に配したのの三種類がある。
また、二十三日の夜集まって、月の出を待つ講を廿三夜講といい、廿三夜塔を建立して信仰した。講は後にレクリエーションの場となっていった。
地蔵立像の供養塔には「左目黒道」と彫っていることから、道しるべにも使われたのだろう。これらの石像たちは、渋谷のあちこちに散らばっていたものが、都市化の波から逃れて、この個人宅の庭に安住の地を見出したのだろうか。これからの供養塔から、江戸時代の渋谷村の生活の一端がうかがえる。
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