54 桜坂と桜橋 ~信号機のゼブラ板~
第53話で中原街道の多摩川に架かる丸子橋を取り上げたので、その中原街道繋がりで、桜坂と桜橋を取り上げてみた。
東京都内だけでも『桜坂』は数か所ある。赤坂サカスの中にある『さくら坂』は比較的新しく、桜の木は細々としている。アークヒルズ脇の桜坂は見事な桜のトンネルを見せてくれていて、桜の名所の一つに挙げられている。
しかし、何れも福山雅治の名曲『桜坂』の舞台ではない。福山雅治の『桜坂』は、旧中原街道の大田区田園調布本町にある坂であると言われている。中原街道を下っていくと、環状八号線との交差点の『田園調布』の手前からやや右にカーブして、丸子橋へと向かう。地図を見ると、その交差点の右側を真っ直ぐに進む道が記されているが、これが旧道だ。環八から入って300mほど進むと、『さくら坂上』交差点へと至る。
『桜坂』と呼ばれるようになったのは、比較的新しく、昭和に入り坂の両側に桜の木を植えてからのようである。それまでは、『沼部大坂』と言った。
交差点から坂の下を見下ろすと、坂の傾斜を緩やかにするために、掘割のように削りこんでいて、両側の法面はつつじなどの低木で植栽されている。その植栽の中に数メートル間隔で桜が植えられていて、路の上にアーチをかけるように枝がせり出している。
桜の花の季節に行くと、わずか190m足らずの坂道ではあるが、坂道の上にかかった桜のアーチは、見事というほかない。車で通過しながら下から桜を見上げるのも一興であろうが、ここはぜひ徒歩で訪れたいものである。
桜坂は、福山雅治さんの歌で有名になったわけではない。江戸時代には、『中原街道』と呼ばれ、相州平塚から、江戸は虎ノ門へと通じる主要街道の一つであった。平塚に、徳川家の鷹狩りや、江戸を下るときの宿となった『中原御殿』があったことから『中原街道』と名が付いた。
中原街道は、中世以前から続く古道で、1590年(天正18年)に徳川家康が江戸城に入場する際もこの中原街道を通ったという。
江戸時代に東海道が整備されるまでは、主要な街道となっていた。
平安時代の『延喜式』で定められた『東海道』は、一部この中原街道が含まれていたと言う説もあるが、定かではない。
桜坂下の交差点まで歩くと、交差点脇には高さ1m弱の四角形の石柱がたっていて、見事な草書で『さくら坂』と記されている。
桜坂の中ほどに掘割の上を坂を跨ぐように架かっている橋があり、朱に塗られている。橋の袂まで行くと、橋の欄干はピンク色の強い御影石製で、『桜橋』と記されている。『桜橋』は東京都内をはじめ日本各地にもあるが、『桜坂』に架かる『桜橋』はここだけだろう。幅は1mほどの人専用の橋となっている。
坂の下から桜橋を眺めてると、桜色のアーチの中に朱に塗られた橋がまるで空中に浮かんでいるように見える。思わず周辺に神社か何かあるのかと、探してしまったが、神社の参道ではないようだ。
再び桜坂上交差点に戻ると、数年前に訪れたときにはあったゼブラ板のついた信号機は、最新の信号機に取って代わり、ゼブラ版はなくなってしまっていた。
ゼブラ板の付いた信号機は、桜坂から見て交差点手前左側の縦型についているところにあったのだが・・・
昔は信号というと、必ず付いていたゼブラ板がとても気になりだした。いつしか知らないうちに、ほとんど見かけることの無くなってしまったゼブラ板。私の所蔵している都電の写真集を引っ張り出してきて、昔の都内の様子を眺めてると、このゼブラ板の形は、桜坂にあったような長方形をはじめ、楕円形や六角形のものと、3種類のものを見つけた。
信号機の規格は道路交通法施行規則に詳しく定められている。同法施行規則の第4条 「信号機の構造」によると、
1.信号機の構造及び燈器の高さの基準は、別表第一のとおりとする。
2.信号機の燈器の性能は、次の各号に定めるとおりとする。
一 燈火は、高速自動車国道及び自動車専用道路に置いては200m、その他の道路においては150m前方から識別できる光度を有すること。
二 燈火の光の発散角度は、左方、右方及び下方に、それぞれ45度以上のものであること。
三 太陽の光線その他周囲の光線によって紛らわしい表示を生じやすいものでないこと。
・・・とある。
ここで注目いただきたいのは、第三号の定めである。
昔の信号の光は今のように視認性の良いものではなかったため、背景の空や、その他の光と明確に区別するために、信号機の周りに板をつけたのだ。
そして、同法施行規則別表一によると、次のように書かれている。
灯器の構造 備考三
背面板を設ける場合にあっては、その図柄は幅10cmの縞模様とし、その色彩は、緑と白または黄と黒とする。
・・・とある。
つまり、ゼブラ板のデザインと色は、法律で決められていたのだ。
黄色と黒のゼブラ板など想像もつかなかったので、実際に描いてみると、どこかで見かけたような気がするが、具体的な記憶は無い。
信号の電球やレンズが改良されて視認性のよい信号が普及するとともに、ゼブラ板は姿を消していったのだろう。
ちなみに、一般的なゼブラ板の裏側はどうなっているかというと、白一色である。
さらに興味は尽きない。日本初の交通信号はいつ出来たのだろうか。
手動式のものは、1919年(大正8年)に上野広小路交差点に設置された。さらに、灯火式信号は、1930年(昭和5年)に日比谷交差点にアメリカ製のものが設置されたのが最初である。(Wikipedia 日本初の一覧より)
ここ数年は信号の光源が電球からLEDに変わりつつある。
信号機のお値段は、種類や構造などによって違うが、もっともスタンダードなものが、おおよそ信号灯器本体が48万円+柱が17万円+工事費15万円=80万円也となる。
これに制御器がついたりすると、140万円から220万円、さらに発電機のバックアップがついたりすると、数百万円となるようだ。(MSNの知恵袋より)
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