2年 夏 ⑤


 藤木梨花がズビズビいってるのは、泣いているからだろうか?

「わたしさっきまで晴子と飲んでたんだ」

「うん」

「で、聞いたの。最近の様子とか。大丈夫かどうかだけでも確かめたくて」

「うんうん」

「いつもの晴子なんだよ。お酒も久しぶりだってずっと笑ってんの。ただやっぱりどこかで無理してる感じでさ。あ、違うな。もう無理してるとかじゃないんだよ晴子の場合。それがもう当たり前の、無意識でも出せる反応っていうの? 人といたら相手が誰であろうとこう接する、みたいな。そのお約束感がわたしすごい嫌だったの。で、勝手だし最低なんだけど、ちょっとイライラしちゃってさ、もうまどろっこしいの抜きに聞いたんだよね『最近どう? 大変みたいだけど』って」

「うん」

「そしたら、『もう慣れた』って言うの」

 ぶぷふーっと藤木が息を吐いた。で、吸った。声がちょっとだけ大きくなる。

「わたしそのとき一番許せなかったのは晴子にそう言わせるまでなにもできなかった自分と……自分とあとなによりも、晴子の側に慣れるように強いといてなにもなかったかのような顔しているやつらね、もうふざけんなよって気持ちが一気に出てきちゃって、また言っちゃったの。佐藤ふみ花と飲んだこと。ずっと黙ってたんだけど」

「うん」

「そしたらさ、晴子『あ、そうなんだ』って言うんだよね。なんかその言い方が、ほんとうに『ああそうなんだ』って感じで、わかる? それであれ? ってようやく思い始めたんだけど。だからね、そう、確かめたんだよね。ゼミいくのつらくない? って。佐藤ふみ花いるじゃんって」

「うん」

「そしたら『なんで?』って言うの。で、それでいろいろ聞いたら『サークルにはもうしばらく顔出していないけどね』って。今度はこっちがサークル? なんで? って。ああなんかわたし質問ばっかりしちゃったんだけど」

「大丈夫、仕方ないよ。そしたら?」

「アカペラサークル内で、まあ一部なんだろうけど晴子のことうざいみたいな空気があるらしくてっていう……これまであった噂の、サークル版みたいなことが実際には起こっていたみたいなんだよね。いじめはゼミじゃなくてサークルの話だったっぽいの。でも、ねえ、なんでこうなったんだろう? わたし、晴子から聞いたんだよね、ゼミがどうこうって話。もしかしてわたしがなんでもない話を勘違いしてさらに尾ひれまでつけちゃったのかな? あーあ、もう最悪だ。最悪!」

「うん。あ、いやいやごめんごめんごめん嘘嘘嘘いまのはなんでもないよ」



 藤木梨花はオート自傷マシーンと化していてなにを話しても自分の不甲斐なさという点にばかり足を取られて落ち込んでしまうので、こっちも否定を連呼しなければならず話を頭で整理するのもままならない。もう直接会って聞くしかない。で、おれ一人の脳みそじゃ不安なので、宮崎と男子寮メンバーも誘っておれの部屋に集合する。

 おれは六月分のカレンダー裏に改めて状況を書いていく。


 ・逢沢、サークルではぶられる

 ・激ヤセ

 ・情緒不安定

 ・オダジョーに


 スタート地点が間違っていたとなると話がかなり変わってくる……のだろうか? おれにはまだよくわからない。驚いているのかもわからない。そして重要参考人として新たに浮上した前園さんの下の名前すらそういや知らない。


 アカペラサークル所属の前園さんには同サークルに所属する中山という彼氏がいる。そしてカップル共通の友人であるAもまたアカペラサークルであり、Aは逢沢と同じゼミにも所属していて、逢沢のことが好きで、付き合いたいと思っていて、ついには告白する。

 それが今年の一月のこと。

 でも逢沢はAこと神崎圭吾をふってしまい、ショックを受けたり、居づらさを感じた神崎はアカペラサークルを辞める。時を同じくしてそんな状況を招いた責任を逢沢に見た前園カップルが逢沢への攻撃を開始し……現況。

「まあでもゼミも無関係ではないじゃん。その神崎ってやつもサークルはアカペラだったわけだろ? ゼミとサークル両方に接点のある人間がいたからこんがらがっただけで」とおれは腕を組んで神崎圭吾について考える。「あ、でもサークルは辞められてもゼミには顔出さなきゃならないわけなんだよね。つらそう」おれが言うと「それなんだけど」と藤木。

「こ~れがゼミにも来ていないっぽいんだよね。大学自体、あんまり来てないんだって」

「え。そうなのね」

 気持ちはわかる。おれは鼻が真っ赤になった藤木と目を合わせたまま、鏡月のコーラ割を一口。初めのうちはすぐ戻れるとか思ってしまいがちで、その油断が恒常化を招くのだ。精神的蟻地獄に落ちたら、自分以外の人間に糸を垂らしてもらうしかそこから這い上がる術はないのかもしれない。

「でもじゃあなんで重要参考人が佐藤ふみ花ってことになったんだろうね。わたし、誰かにそう聞いたのか、勝手に連想したのかもうわかんなくなってきたんだ。どうしよう」とちょっと笑って「勝手な連想だったら超失礼だよね」と藤木梨花。

「まあでも佐藤ふみ花はそういうことやりそうだから」

「こらこら」

「そもそも藤木さんはゼミどうこうって話はいつ聞いたの?」と高橋が鏡月のコーラ割を差し出しながら言う。

「ありがとう。それなんだけど……今年の新歓の前だったから、三月の中旬とか? そのへん」

「へえ。それは逢沢さん本人から?」

「だったと思う。ていうかわたしはだいたい晴子から直接聞いてるし」

 頭から水をかぶった逢沢の話をしようかなと思ったおれはアルコールごとその話題を飲みこんだ。いやでもちょっとだけ言いたいかもと迷っているとインターホンが鳴って遅れて登場したタケヒコが課題終了の開放感から夏休みに東京にライブを見に行こうとの話をするが誰も乗らない。宮崎が『今日からヒットマン』の二十二巻を読んでいるとき、テレビに出ている新人アナウンサーの顔を見た高橋が「顔がむくんでるけど塩分の取りすぎでしょ、スポーツ選手と外食ばっかりしてるんだぜこのビッチ」と言い、武井が「いや、広告代理店の男だろ」と応え、おれは横になる。

「眠いの?」と藤木梨花がスマホを文庫本のように構えながら言う。

「ああ、ごめん。この姿勢が好きなんだ」

「太るよ」

「痩せた分、取り返さないとな」

「分けてやりたいわ」

 藤木はフェイスブックで前園さんに友達申請を送り、その承認待ちでずっとスマホを眺めている。過去の記事まで遡れば、逢沢に関する不穏な投稿が確認できるかもしれない、との理由から、おれたちもいつか作ったツイッターのネカマアカウントを動員することにする。ひとまず武井とタケヒコが西園さんの鍵つきアカウントにフォロー申請を送っておき、これがだめならおれと高橋と宮崎。誰かひとりでも承認されれば万々歳だ。


 夜の十二時ごろ、フェイスブックにおいて藤木梨花の友達申請が通る。

 みんなが藤木梨花の背後に立ってスマホの画面を覗き込むので、彼女が怒鳴る。

「呼吸音がうるさい! 散れ!」

 おれが横になったまま半分夢の中へと傾いていたそのとき、暇を持て余したのか、不意にタケヒコがしみったれた声で語り始めた。

「おれ、実はあんまり話したことはないんだけど、体育が一緒で、逢沢さんと。おれバドミントンもまともにできないんだけどさ。逢沢さんはいつも応援とかしてくれて」

「なんだよ応援って」と高橋が笑うとみんなも笑った。

「いやだから、声かけてくれるんだよ。いいから聞けよ。ラリー練習の相手にもなってくれたことまであってさ。でもおれのせいでそれまで組んでいた人がほかに行っちゃうみたいなこともあって、逢沢さんのああいう優しさが虐めの原因になってるのかもしれないとこのまえふと思ったんだよねおれ。だからさ。結局のところ、おれの責任でもあるんだよね、今回の件は」

 よくわかんないけどそうでもなくない? という空気が静かに満ちる中、高橋が続く。

「晴子ちゃんは、本当にいい子だもんね。ちょっと無理してる感もあるけど」

「ね」と武井。

「正直痩せてからの方が好みだけど、早く元気になってほしい」

 今度はみんなが小さく肯くのがわかった。

 その流れで武井。「おれも別にあんまりタイプってわけでもないんだけど、でも、いい人だとは思うよ。ほんとうに。なにかしてもらったとか特にないけど。でもまた一緒にさ。楽しく飲めたらと思う。おれからは以上だよ」

 拍手でもした方がいいのかな、と思っていると、うつむいていた宮崎が唇を舐めて背筋を伸ばす。

「おれも逢沢さんのあっけらかんとしてるところとか、人懐っこい感じとか好きなんだよな。ほら、飲み会とかに逢沢さんいるとさ、テンションあがるんだよ。おれだけかもしれないけど」

「わかるよ」と笑うタケヒコを、武井がその腫れぼったい目でじっと見つめる。

「だって逢沢さんておれたちがどうでもいいこと言うたび笑ってくれるじゃん。だからおれたちもどんどん気分良くなってカスみたいな下ネタとか、こう、つい言っちゃうじゃん。まるで逢沢さんを試すみたいにさ。おれたちのよくない衝動みたいなもの、ついついぶつけちゃったりもしてるわけじゃん。でも逢沢さん、ぜんぶちゃんと拾ってくれるし、そこでようやくおれは、ものすごくありがとうって気分と、あとなんだろう、申し訳ない気分の両方を味わうんだよね。それぞれなんかすごく強烈なやつ。かなわないなって感じかな。要はそれって逢沢さんの器がいかにでかいかってことなんだと思うんだ。おれ逢沢さんのそういうとこ尊敬してるんだよ。いや、反省もしてるけど」

 まだなにを言おうか固まってはいないおれは、まあ適当に思いを述べようと心の準備をしながらうつむいて、小さく肯き続けた。みんなもそうしていた。壁に背をつけて膝を抱える藤木梨花でさえそうだった。ここに集うは逢沢晴子の義士団。例えばおれになにかがあったとして、みんなこんな風に動いてくれただろうか? ああ、それを言うならおれが引きこもっていたときも、こんなふうにおれのこと話してくれたのかな。ちょっとの沈黙を挟んで、うつむきながらまた唇を舐めていた宮崎は、やや言いづらそうに「まあでもオダジョーの件はさすがにやっちゃったなとは思ったけど」と言う。

「あー! それはな」と間髪入れずに武井。「よりにもよってって感じはあるよな」と高橋まで言うとタケヒコが「まあまあ、あれは噂だし」と言うので「いややってるだろ!」と武井が一蹴、寝そべっていたおれもちょっとだけ悲しくなる。

「このままじゃ古谷先輩マジで爆弾作ってオダジョーのヤリサーが合宿やってるペンションとか爆破しそうだよね」と宮崎が冗談ともつかない口調で言うのでみんなが手を叩いて笑いつつ、ふと不安げな表情になったところでタケヒコのネカマアカウント「未熟女ユキコ」が前園さんにフォロー返しされる。

「しゃッ! ネタあげるぞ!」

 みんながタケヒコのスマホを覗く中、おれは組んだ腕の上に乗る我が胸を見下ろしながら、おれ自身の心を見つめる。おれは逢沢を助けたいと思っているし、それは本当にそうしなきゃならないと感じているからで、さらにその根拠となると、もうさっぱりわからなくなるほどおれは衝動的に動いてきた。たぶんこのままじゃまたすべるだけなので、考えよう考えようと努めて行き着くのは決まって逢沢自身の気持ちだ。

 でも大前提として、そんなの全然わからない。

 おれなんかにわかってたまるかって話なのだ。

 そこがおれのスタート地点なのだ。

 いまおれがしなきゃならないのは、答えじゃなく答えを得ようと突き進むことなのであって、善処すべく善処することであって……ともうわけがわからなくなったおれの頭に、ふとしたひらめきが浮かんでくる。

 あらららら。

「主語ないけど逢沢さんのことっぽくない、これ」と話しているみんなの背に声をかける。

「ちょっといいですか」

「おまえも見ろよ」という高橋に、まあこいつでいいかと踏んだおれは次第に乱暴になっていく胸の鼓動を堪えて言う。

「ちょっとごめん」

「ん?」

「おれの胸揉んでほしいんだけど」

 沈黙。

 わかってたけどね。

「肩みたいに言うなよ」と高橋は言った。「嫌だよおれはもう」

「なにそれ、どうしたの?」口を歪めて笑う藤木だが、おれは引かないし高橋からも目を逸らさない。

「どうか最後にもう一度だけでいいから」

「どうしてそうしてほしいの?」と宮崎が体をこちらに向けてあぐらをかく。

「どうしてって確かめたいことがあるから。ちょっとね」

「また暴れて引きこもったら困るよ」と高橋が低い声でつぶやくと「ん?」と藤木。おれはゆっくり大きく首を横に振る。

「暴れないし、引きこもらない。おれはちゃんと、四年で大学を卒業するんだ」


 そうしておれは高橋に再度胸を揉んでもらうのだが、そこでようやくあの日の自分の気持ちに立ち返ることができる。


 おれはあのとき強烈な怒りを感じていた。

 でもそれはおれのものではなかった。

 みんなでバストの計測をしながらもずっと逢沢晴子のことを考え、逢沢晴子の気持ちに近づこうとし、逢沢晴子として胸を揉まれ、逢沢晴子として傷ついて、坂本としての大学一年後期をめちゃくちゃにしてしまった。

 おれはその場でちょっとだけ涙ぐんでしまったが、悲しかったり恐ろしかったり悔しかったりしたわけではなかった。こんなもの区切りに過ぎない。でも区切りくらいつけなければおれはぼんやりしたわだかまりに足を取られ続けるだけなんだ。とにもかくにも涙を流し続けるおれの肩に宮崎が手を置き、武井が寄り添い、タケヒコが見守り、高橋が抱きしめてくれる。藤木は離れた位置に立ったまま頭頂部に手のひらを当て、事を理解しようと必死に努めてくれているみたいだけど、別にいい、気とか遣わないでとおれは泣きながら手を振る。彼女は不安げな顔をさらにしかめさせ、振り返してくれる。ありがとう、ありがとう、ありがとう。インターホンが鳴って佐々木さんが現れ、「卒論休憩~」と上がり込んでくるが、泣いているおれを見てドン引き、「ちょっと待ってろ」と言って部屋まで戻って250ミリリットルの缶コーラをくれる。コーラはうちにもあったんだけど、佐々木さんからもらったコーラはちょうどいい量で、おれの心を少しずつ鎮めてくれるのだった。


 藤木梨花をみんなで家まで送ったあと、宮崎と男子寮メンバーは結局おれの部屋に泊まることになった。静まり返った部屋の中で、寝返りを打つ際の布の擦れる音とか、自分の呼吸音とかそのリズムに意識が向きだすような夜と朝の境目でおれは眠る。夢さえ見ない完全な熟睡を経て目覚めたおれは、雑魚寝するみんなを起こさないよう、窓際に置いたオフィスチェアに腰掛けて夏の土曜日午前十時の風を浴びる。前園さんのフェイスブックページは友達申請をしていないおれからは覗くことができなかったけれど、そのページを見た藤木梨花から前園さんの彼氏である「中山拓人」の存在を教えてもらっていた。

 上げられている中山拓人の顔写真を見て、あれ? と思う。いつだったか、大学で逢沢と一緒に歩いていた男だ。おれはなにかがつながったような気だけする。昨夜、高橋に胸を揉んでもらう前におれはこいつに友達申請を送っていた。承認されている。まだ少し眠かったが、過去の記事をざっと読み返していた。

 三日前の午前二時に、中山拓人はこのような記事を上げている。



  中山拓人さん 8月1日

  最後のレポートとりあえず終了。早く遊びたい! 人と語りたい欲が高まってるw


  東出 和輝さんと他28人が「いいね!」と言っています。




 上等だよ、待ってろバカ。

 おれは「いいね」を押す。




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