2年 夏 ②

 しばらくブランコで揺れながら、ジャングルジムの頂に腰掛ける古谷先輩を眺めていた。引くに引けなかった部分もあるのだきっと。ブランコを囲むポールに腰掛けたタケヒコが「ねっむ。おれ明日朝から教習所なんだけど」と言うが、みんなほかの誰かが反応してくれるだろうと思っていて、静かな夏の夜が小さく響き続けるだけだった。

「古谷先輩って童貞らしいよ」

 なぜか宮崎がそう漏らした。腕を組む高橋がおれの反応を待っているのが分かる。

「そんなの、いまさらだろ」

 おれたちは高揚した戦意のやりどころを見失って呆然とする古谷先輩を連れておれのアパートに移り、襲撃空振り慰労会を開くことにする。もう深夜で、酒を買いに行こうと提案するも古谷先輩が「おれはいい。飲みたくない」とわがままを言うので仕方なくみんなで麦茶とか白湯を飲んだ。テレビも通販番組ばっかりだったし、みんななにを話していいのかわからない感じで、「あいつ逃げやがった」「きめえよな」という心のないぼやきが漂うなか一時間ほどがゆっくりと過ぎていく。さすがに暇なので、タオルで目隠しをした状態でミニテーブルに並べられたボールペンのパーツを素早く組み立てるその速さをみんなで競っていると、古谷先輩が「ごめん今夜泊めて」と言いだした。

「いいっすけど」

 で結局男子寮三人衆を除いた二人がうちに泊まることになって、ベッドは古谷先輩に提供、おれと宮崎はフローリングの上で、洗濯済の衣類を枕にして雑魚寝する。

「もう四時か」

 宮崎が呟いて、それから「明日なにか予定ある?」とおれに訊く。

「なにも」

「じゃあ昼まで寝られるな」

「うん」

「ごめんな」と古谷先輩が唐突に潰れた声でつぶやくので、おれと宮崎は必要かどうかもわからないまま、呼吸の音にさえ気を遣ってしまう。

「オダジョー潰したかったんだけどな」

 泣いているのだろうか? とおれは思うが、床の上で寝ている限りじゃ古谷先輩の顔は見えない。うっすらと青みがかる部屋のなか、古谷先輩の輪郭だけがぼーっと浮かび上がっている。

「古谷先輩。逢沢さんはそんなこと望んでいないと思います」と宮崎が冗談ともつかない口調で言うと「そういうことじゃないんだよね」と古谷先輩。「そういうことじゃね。勝手かもしれないけど、個人的に許せないんだよねおれ。おれはおれ個人の感情であいつを潰してぇんだよ」とうわごとのように言う。「逢沢のこともそうだけど、織田なんか、ずっとそんなんばっかりなんだよ。有名だからおまえらも知ってると思うけど、法律に引っかかるようなことだってしまくってんだよ。マジで。昔の話だけど、おれと同じ学年に森田ってクソがいたんだよね、そいつ、ほら去年の新歓あっただろ? 女子だけ大量に倒れた事件。あれやったの森田って言われてて、それが原因かわかんないんだけど、そいつ大学辞めちゃっていまなにしてるかわかんないんだけど、織田からはそいつに似たものを感じるんだよね」

「そうなんですね」

「森田ってやつはどちらかというと大学デビューした雑魚って感じなんだよ。たぶん高校まではいけてなくて女と遊んだことも全然ない感じ。で、大学に入ったとたん環境が変わって浮かれてはしゃぎやがった雑魚。大学ってまあ一部なんだけどとにかくセックスしとけって空気あるじゃん。で、その森田ってやつも、またその浮かれ方が元オタク特有の節操のないめちゃくちゃがっつくようなキモイ感じでクソダサいって話だったんだけど、おれずっとそいつのこと嫌いでさ。いや好きってやつもほとんどいなかったと思うんだけど、ていうのもおれちょっと好きだった女子がいたんだけど。なんかこう本気でっていう感じではなかったんだけど、すごく気になる子がいたんだよね。でまあその子に森田が手え出してさ」

 なるほどそういう話かとおれは思う。

「はあ」とため息を漏らして寝返りを打つ古谷先輩に宮崎が「終わりっすか」と訊く。

「終わり」

 おれと宮崎はひどく不安な状態でしばらく天井を眺める羽目になる。古谷先輩は森田をぶっ殺せなかったみたいだし嫌な話だ。古谷先輩は二代目森田ことオダジョーを潰すことで気持ちに区切りをつけたいのかもしれない。




 織田城太郎が逢沢を誘って二人きりで飲んで適当な慰めを言って送る送らないでうだうだしてホテルに連れ込みヤッてしまう数日前、おれのもとに彼女から連絡があった。

 それはおれが自宅で栄養ドリンクを飲みながらレポートをまとめていた七月の真夜中のことで、逢沢晴子からのラインでおれは一旦パソコンを閉じる。酔って一人で帰るのは不安で、できるならでいいけど迎えに来てくれたらうれしい的内容だったので、財布とスマホを持っておれは外に出た。あと、念のため傘も。真夏の夜気はそれなりに涼しく心地が良くて、雨の気配は少しもなかったが、手持ち無沙汰じゃなんだか心細かったのだ。

「坂本くん」

 辿り着いたコンビニの前で逢沢晴子は膝を抱えて地べたに座って待っていた。

「大丈夫?」

「ありがとう。本当に来てくれたんだ」

「そりゃくるよ」

 彼女は力なく笑い、脇に置いてあった鞄からペットボトルを取り出し水を飲む。彼女はまだ痩せたままだ。ペットボトルはすぐ空になって、おれはコンビニに入り水を二本買って彼女に渡す。ありがとう、でもこんなに飲めないよと逢沢は笑った。

 彼女が手を差し出してくるので掴んで立ち上がらせる。湿った手のひらにはアスファルトの砂利が残ったままで、おれの手のひらにもそれがくっつく。

「なんで傘持ってるの?」

 逢沢がふらつきながら言う。おれは傘を手渡して言う。

「杖がわりだよ」

「なるほど~。介抱のプロだね。もう片方でさかもっちゃんの腕掴んでていい?」

「しょうがねえな」と言うと、彼女は笑いながら、でもほんとうにおれの腕を掴んで歩きだすので呼吸が浅くなる。ちょっとだけ身体も寄せてくるので、肩同士がぶつかったりする。うわ~お。

 彼女は歩きながらも定期的に足を止め、その場にうずくまったりするが「なかなか出ない」とみぞおちに手を当てながらすぐに立ち上がる。ランニング中のおじさんが横を通り過ぎるだけですぐに身体を強張らせて、それから楽しそうに笑ったりする。

「はー。なんかごめんね」

「別にいいよゆっくりで」

「この傘いいね。武器にもなるかな?」

「なるね。最近危ないやつ多いみたいだからこういうの持っといたほうがいいよ」

「あ、そうそう聞いて。このまえわたしバイトの帰り歩いてたら声かけられたんだけど」

「だれに?」

「知らない人。ミニバンに乗った若いお兄ちゃんに乗ってっていわれたのね。こわかったー。すぐ友達の家に逃げました」

「マジで? それ乗ったら死んでたよ」

「え! 最低!」

「うそごめん、言いすぎた」

「違う違う。そういう現実が」

「ああ」

「現実は最低」

 そう言ったかと思うと彼女は急に立ち止まって真上を仰ぎ、「綺麗」と言う。驚いたおれが「なにが?」と言いながら上を見れば、澄んだ空に飛沫のような星。

「すごくない?」

「すげー。明日も晴れだね」

「なんか気象予報士みたい。お天気お兄さん」と笑いながらそのまま真後ろに吸い込まれるように倒れる逢沢は、支えも間に合わないまま尻餅をつくのでちょっと面白い。

「あーあ」と笑いながら前髪を垂らす彼女は、そのままおれの腕を振り払ったかと思うとアスファルトに両手をついて側溝に嘔吐。おれは見つめるのも悪いので、また星空を仰ぐ。

 ぬるい風が吹いていた。

「なんか去年のこと思いだした。四月のこと」

 と水で口をゆすぐ彼女が言っておれもふと懐かしく思う。

「覚えてるよおれ。あのときはめちゃくちゃだったよね」

「ははは。あれ? あのとき坂本くんは……いた?」

「え、いたよ」

「そうかじゃあわたしはさかもっちゃんに吐いてるとこ二回も見られてるんだね」と網目状の溝蓋に水をかけていた逢沢は、「腹立たしいわ~!」と手のひらを伝う水を飛ばしてくる。「ちょっとちょっと、ははは」

「あはははは」と笑う彼女は残り僅かなペットボトル内の水までかけてくるので「おい、やめろ!」おれは叫ぶ。

 彼女のアパートに着く。逢沢は階段に座り込み、ペットボトルの蓋を開けようとてこずるので代わりに開けてあげる。「ありがとう」彼女はそれを飲まずに自分の頭上まで持って行き、そのまま逆さにして水を浴び始める。おれが声をなくしていると、顔を手のひらで拭った彼女が楽しそうに笑いだす。顎を伝った水滴が胸のふくらみに落ちて、おれはそこから目を離せずにいる。

「ありがとう。こんな遅くから来てくれて、ホント嬉しかったれす」

 れす? 彼女は自分で自分を笑う。前かがみになり、おれにつむじを向けてしばらくそうしている。

 それから顔を上げた逢沢は、笑みをほんの少しだけ引っ込めた。彼女の顎の下で、光る滴が小さく揺れていた。

「坂本くんちょっと待って」

「どうしたの」

「上がってかない?」

 おれは鼻をすする。視線は彼女の履いているパンプスに向けられていて、あたかもずっとそこだけを見ていたかのように、極力瞬きもしない。

「まだレポートがあるし今日は帰るよ」

「あそう」

 逢沢晴子は口元を手の甲で拭う。「いい。気にしなさんな」と唸り、しばらく黙ったあとで「あと坂本くん」と言う。

「見られてる側は気づいてるもんだよ」

 そう言って胸の前で腕を交差させて左右の肩を抱いた逢沢に、おれは全身の血が高騰するのを感じて慌てる。

「ちょっと待って、マジでいま見てなかったからねおれ」

「ははははは。そんなのわかってるよう。おやすみ。感謝してるよ。またね」と逢沢。なにそれ。おれはちょっとの沈黙に身をゆだねたあと、じゃあ、と小さく答えて踵を返し、来た道を戻る。一度だけ振り返ると、逢沢晴子が階段の一段目に座ったまま片手を挙げた。

 挙げ返しはすれど。





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