第58話「彼岸花が咲くあの丘へ」

 カンナは何も考えず、ただ意識を手放していった。それは深い眠りに落ちて行く感覚に酷似していた。徐々に周囲の声や音が小さくなり、瞼の裏に感じていた光さえもなくなっていった。肌には何も感じず、まるで五感全てが失われたようであった。ただただ広がる、いや広がっていると感じるのは間違いで、実は闇に閉ざされた狭い空間にいるのかもしれない。そんなことを考えさせる不確かな闇の空間だった。どんなところに立っているのか、それとも実は宙に浮かんでいるのか、どちらともいえない奇妙な所に、カンナはいた。一面の漆黒の中に、突如として青白い火の玉のような光が浮かんだ。その中心には黒い翅を背負う無表情な女がいた。妖精のような風貌をしているが、一見してその邪悪さ、禍々しさが伝わってくる。現世で復活された血の契約により、蝶は血華を求めてやってきたのだ。ただ、一度現世に出向いて血を吸った地獄蝶は悲しいことにあの世で血華の血を吸うことは出来ない。カンナはその事実を、咲に「ケッカ」と呼ばれたときに思い出していた。


「迎えに来たんだね。さあ、案内して」


カンナは腕組みをしたままそう言った。あちらに着いてからにしようね、とカンナが微笑むと、蝶はカンナを先導し始めた。しばらく歩くと、気味の悪い水の流れる音が響いてきた。生きている頃に聞いた川などの水の流れは、どれも涼しげだった。確かに台風などで増水した川は恐怖を感じさせることもあったが、この地を這うような川の音は怖いのではない。服を着たままぬるま湯に全身浸した様な空気と相まって、ただただ不気味なだけである。カンナはその川が流れる場所に辿り着いた。どうやら広く閑散とした川原のようである。聞きしにも勝る水の流れがそこにはあった。水量は豊富なのに、まるで水がそこに留まっているかのような遅い流れだ。そのためか、淀んだ水は水本来の色を窺わせない。冬の間使われていないプールの水と増水した時の川の水を混ぜたような色をした川は異臭を放ち、時々何か動物の死骸のようなものや大きな虫が流れてくる。川原といっても草は一本も生えず、角の取れた丸く平たい石だけが無数に堆積していた。所々に、その石が積み上げられた塔らしきものがあったが、どれも未完成のまま放置されている。遠くには地蔵の祠が建っていた。


―――血華、血を……。


 蝶はカンナの首筋にとまって、痣の上に口を差し込もうとする。しかし、たった薄皮一枚、蝶の口は破ることが出来ない。それでも蝶は飢えた獣の様に何度でも血を求めたが、ストローのような細い口が折れそうになるだけである。カンナはその様子を見て恍惚と笑んだ。そして「何て様だ」と吐き捨てたカンナは、ゆっくりと歩き出した。その川自体が腐っているような水の流れの辺に立ち、川岸に取り残された大きな蟲の残骸を見下ろした。蜂の様な姿をしているが人間の子どもほどの大きさがあり、口は針のように細い。見るからに醜悪なその死骸の上に覆いかぶさるように身を屈めたカンナは、自らの手首に爪を立て、肉を抉った。血がその傷口から流れた。現世ではこうはいかなかった。どこか安堵したカンナはその傷口を口で覆い、血を吸い出してぺっ、と吐き出した。血は、蟲の残骸の上に落ちた。すると蟲の残骸から一輪の赤い大きな花が咲いた。まるで冬虫花草だが、その花は彼岸花によく似ていた。


「地獄蝶、終わりにしよう。血判は解消だ」


カンナは腹の底から声を張り上げ、今咲いたばかりの血華によっていく地獄蝶に言葉をぶつけた。


「お前も、帰るんだ」


そう呟くように言ったカンナの声音はいつになく優しげで、穏やかだった。帰るべき場所がある。地獄蝶が地獄に帰るように、ケッカにもチハナにも、帰るべき場所がある。そして今は、そこで待っている人がいる。


 蝶はようやく血華の花弁に口を差し込み、「赤い蜜」を吸った。たった一輪咲いていたその血華は、蝶に吸い尽くされてたちまち枯れて地面に伏すと、そのまま消えていく。それは、地獄蝶が地獄に帰った瞬間だった。その後、蝶もまた川上のほうへふらふらと漂い行き、徐々に姿を透かしていった。カンナは耳の奥に聞こえる歌を聴きながら、静かにその光景を見つめていた。その歌は光介と歌った歌だ。だが、それだけではないということを、今のカンナは知っている。自分がかつてケッカと呼ばれていた時、そう、今のようにこの歌を聴きながら地獄蝶を見送ったことがあった。そして暗い潮騒の音と共に自分の脳裏に浮かんだこともあった。


 闇の中に飲み込まれた蝶の姿を見届けた後、カンナは広大な川原を迷うことなく歩き続けた。耳に届く歌を辿り、一人うずくまって歌を口ずさむ少女の背に、カンナは声を掛けた。


「一緒に帰ろう、彼岸花が咲くあの丘に」


そう呼びかけられた咲は振り返り、差し伸べられたカンナの手に自分の手を重ねた。

 



 咲はただだまって、石を積まなければ、という強迫観念に耐えていた。もしここで一つでも石を積んでしまったら、迎えに来てくれたときにもう二度とあちらに帰れないような気がしていたのだ。もう少しで石に手を伸ばすところだったが、咲は自分の待ち人が必ず来ると信じていた。この歌は、かつて愛した人を自分の所に導いてくれるのだ、と。




 二人は幸せそうに微笑んで、互いの手をしっかりと握り締めた。そして川を背にしていつの間にか現れた暗くて長いトンネルのような所を歩いていく。その先には幽かではあるが確かな光が見えていた。

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