第38話「ああ、そうだ……」

 カンナが目覚めた時には、もう日付が変わっていた。もちろん、日付のついでに服も変わっていた。自分が寝ていたのが父親の部屋であることに気付くのにはしばらくかかった。学校で倒れたあの日から、思えばほぼ一年振りである。たった一年で蝶はカンナに手が届く所までやって来た。

 

 そしてこちらは一年もかかって、ようやく一つの疑問に合点がいった。夢の中の幼女の声が切ないと感じる理由だ。あの声は、カンナを必死で蝶から逃がそうとして「ケッカ」と呼んでいたのだ。まるで自分のことをかばってくれるような幼い声のせいで、切なさを感じたのだ。


ケッカ。

彼岸花のような赤い花。

蝶を連れた人々。

暗闇。

潮騒。

約束。


(約束? 一体何の?)


様々な疑問について考えながら体を起こそうとすると、思ったよりしっかりと体に力が入った。安堵したカンナは自分の部屋に戻ろうと立ち上がった。


 ところがその瞬間、強烈な頭痛に襲われ、カンナはその場に崩れた。助けを呼ぼうにも息が苦しくて声が出せない。頭痛は激しい眩暈と耳鳴りに代わり、どっと汗が噴出した。それらは次第に激しさを増し、目には何が見えているのか分からなくなり、耳には鋭いノイズ以外、何も聞こえなくなった。


 もう限界だとカンナが思ったとき、一瞬意識が遠のいたかと思うと、急に楽になった。水を打ったような静寂に包まれたカンナの脳裏には、彼岸花に囲まれて佇む自分がいた。そして何か歌のようなものが、幽かな潮騒と共に耳の奥に流れた。


「ああ、そうだ……」


 カンナは幻聴につられるようにふらふらと立ち上がると、父親の部屋のドアを開けてそのまま外に出た。まるで夢遊病者のように、カンナは歩き続けた。


 そして気付いたときには車道に飛び出ていた。ちょうど道を下りてきた軽自動車の車体が目前に迫っていた。鈍い音と衝撃。宙に浮く感覚の後、肌にごつごつとした岩肌のような感覚。次にはカンナの意識は再び途切れた。

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