第31話「僕には分からなかったよ」

「ねえ、お父さん。怪我したら痛いの?」


真新しいランドセルを置くなり、カンナは唐突に言った。健司が「そうだよ」と答えると、泣きそうな顔をして痛いとは何かとさらに問い詰めた。これにはさすがの健司も答えに詰まり、考え込んだ。瞬きをも惜しむようにして答えをじっと待つ大きな瞳が、健司にとっては痛くて堪らないのだがそれを小学生に分かりやすく説明するのはひどく難儀なことである。


「どうしてそんなこと聞くんだ?」

「今日ね、階段から落ちて大怪我した人がいたんだよ。痛いって言って泣いてた」


 でも、とカンナの冗舌が勢いを急に失った。


「僕には分からなかったよ」


そう言って俯くカンナを健司は抱き寄せ、その胸の辺りを優しく叩いた。


「その時、お前のここはどうだった?」

「中から冷たくて重たくて、苦しくて、それから多分、痛かった」


遠慮がちに答えたカンナの頭を健司は撫でた。しかしカンナには自分の感じたそれが本当に他人が感じる痛みと同じものなのかどうか分からなかった。この時カンナの胸に残ったのは名状し難い寂しさと自己嫌悪の思いであった。 


 カンナはそれ以来何を言うでもなく、無邪気な子供を演じた。子供なりに父親が懸命に自分と接していることは分かっていたし、母親がいない以上に父親という砦を失えば、自分という個人はこの世から消え去り、カンナサマでしかなくなってしまうような恐怖とも似た不安があったのだ。だからカンナはその怪我をしたクラスメイトが自分の友達であったこと、それきりその友達とは疎遠になってしまったことなどは一切話さず、先生に誉められただとか、給食に好きな物が出ただとか、他愛もない明るい話題ばかりを見つけては話すようになった。しかし、そんなカンナの演技も長く持続させることは出来ようはずもなく、カンナとカンナサマの間にいることや、自分と他人との距離感に耐えられなくなり、次第に心を閉ざすようになった。カンナは一人、自分の首筋に覗く赤い花を見て思う。痛みを感じず、傷つくことを知らず、病むこともない自分はやはりカンナサマで、母親の死はカンナサマを生んだことが原因ではないのかと。そして、自分は人間として生きることに何の価値があるのかと。小学校の頃は欠かせなかった父親との会話も、次第に面倒なことでしかなくなり、カンナは自分の部屋からめったに出ることはなくなった。健司はそんなカンナの心を何とか解きほぐそうと躍起になっていたが、それがカンナにとってはいらぬおせっかいで、ついにカンナは健司に言い捨てた。


「僕はカンナサマだよ、健司さん」と。


カンナが中学二年の頃のことであった。それ以来、カンナは健司のことをお父さんとは呼ばなくなった。


 その状態のままカンナは進路を決める時期に差し掛かっていた。進路相談が入って三者面談も行われるようになったが、カンナはその当日になると早々と学校から姿をくらまし、結局は担任教師と健司の二者面談となることがほとんどだった。体力がないため精神的に疲れるという理由からカンナは学校を休みがちだったが、成績は常にトップクラスを維持しており、担任もそれほど気にかけている様子はない。健司と二者面談している際も、「カンナ君の成績ならどこにでもいけますから」と当人不在を黙認していた。三者面談の必要性がないと担任は感じているのだろう。ただ、あまりに欠席日数が多いのは良くないとは再三忠告されていた。カンナは血華だから怪我も病気もないが、様々な理由をつけては学校を休み、行っても保健室にいるか早退してくるかしていた。そのため学校ではカンナは「病弱」で通っていた。血華が病弱とはお笑い種だが、それがカンナを普通の生徒たちと変わらないように上手くカモフラージュしていた。皮肉なものだと健司は思う。そして、成績さえ良ければ将来は安泰だと言わんばかりのカンナの担任にはつくづく失望させられた。教師とは人の将来を成績という物差しだけでこうも簡単に計ってしまうものだっただろうか。その成績安泰の病弱な生徒は高校進学に全く興味を示していないというのに。


 中学さえ終われば義務教育も終わりなのだから、後は自分の好きなようにさせてくれというのがカンナの主張だった。その好きなようにとは何かと聞くと、通信教育で資格を得てなるべく人と接しない職に就きたいという、極めて子供らしからぬ後ろ向きな夢を語る。そんなカンナに、健司は大幅に譲歩する形で高校に入学すればそうしても良いという条件を出した。この高校卒業の必要性のない条件を飲んだカンナは地元の高校に進学した。カンナが健司の要求を受け入れた頃にはもうすでに私立の受験は終わっており、欠席日数の関係上公立の推薦入試も受けることが出来なかったカンナは、たった一回のチャンスをこともなげに成功に結び付けて見せたのだった。合格発表を見に行くこともせず、家に届いた合格通知の書類も、入学手続きに必要なもの以外には目を通すこともなかった。


「僕の叔母さん、何ていったっけ?」

「清美のことか」

「そうそう、清美。その人の娘は僕と同い年なんだってね。その子も高校受けたろうけど、親に似て頭弱そうだから、落ちてそうだな」


カンナはそう言って皮肉っぽい笑みを浮かべた。いつの間にかカンナの瞳には他人を見下すような冷たく暗い光が宿るようになっていた。健司との会話もカンナのストレス発散のために人をけなすことを専らの目的とするようになり、健司は話し相手というよりもただの相槌役であった。


 ただ、他人に対して興味を失っているようなカンナが、皮肉とはいえ、清美の娘のことを気に掛けることは、健司にとって違和感を覚えるものだった。

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