カンナサマ

第27話「咲って言うのよ」

 千房清美ちよふさきよみは、今日も将来を誓い合った男性の実家に転がり込んでいた。千房の家系は内向的で親戚の中で結婚するものが多く、結婚した後も相手方の両親とは滅多なことでは同居しない上、千房の家の両親と同居するかその近くに住まわされた。それもこれも、清美の家に伝わる迷信のためである。時代遅れも甚だしいと清美は苛立っていた。中でもカンナサマはその際たるものだった。千房には希に体に赤い花の形の痣を持った子供が生まれる。その子供は千房を蝶から解放したと同時に一族に蝶の呪いをもたらしたとされる「千房かんな」の生まれ変わりとされ、カンナと名付けられた上で千房の本家で丁重に育てられる。カンナサマは血華であると言われているが、清美にとっては生まれ変わりだの呪いだのと同じように不死身の体を持つ人間がいるなど考えられなかった。そもそもこの蝶の呪いというくだらない迷信のおかげで清美はこうして肩身の狭い思いをしているのだ。


 友人の紹介で清美が大森豊おおもりゆたかと交際していたことを、千房の家族や親戚は冷ややかな目で見ていた。その蝶の呪いというのが、千房の血を絶やさないために蝶は千房の女は淫乱になるように呪いをかけた、という女性にとっては屈辱的なものだったからだ。実際、千房の女は結婚してからもする前と同様に複数の男性と性的関係を結び、しかも子宝に恵まれることが多かった。だがこの迷信に反発して育った清美は異性を敬遠してきたし、豊と交際してからも婚約するまで一夜を共にした事はなかった。


 清美には一人の兄がいた。その健司はすでに結婚しており、清美は健司なら自分の気持ちを理解してくれるに違いないと思い、健司のほうから両親を説得してくれるように頼んだことがあった。しかしその健司に開口一番「お前の男はそれで何人目だ?」と豊を前にして言われたときは、目の前が真っ白になった。さすがにこのときばかりは豊との関係が終わると思ったが、豊は清美をかばい「もしも清美が他の男と関係があったとしても、それは自分と出会う前のことで、今の清美とは関係がない」と根気強く両親や健司を説得してくれた他、迷信は捨てるべきだと力説してくれた。しかしこの豊の千房の迷信をただの空想的な伝説として切り捨てる考えは、千房の反感をますます強めることとなったのであった。


 やがて清美と豊の間には良広が生まれたが、千房の間ではやはり血は争えないものだ、と陰口を叩かれるようになった。健司の妻が病弱な人だったため子供がいないこともあって、良広は清美の両親にとっては初孫になる。頭の固い両親も孫の顔でも見れば考え方が変わるかもしれないという清美の考えは甘かったのだ。


 豊の両親には千房が血華の家系であるとは伝えてはいなかった。幼い頃から桃太郎や浦島太郎同様に血華のことを聞かされて育った清美ですら信じていない話を伝えたところで、到底理解してもらえないだろうという諦観がそうさせていた。必要に迫られて豊にだけは話したことがあったが、そのときの豊の狐につままれたような表情は今でも忘れられなかった。豊は清美の話でなぜ自分たちが結婚をここまで反対されるのか、そしてそれが千房の変わった言い伝えによるものだということは理解したようだったが、これが単なる迷信ではなく、本当の話だということまでは納得していないようであった。


 清美は溜息をつくと畳の上で気持ち良さそうに寝息を立てる良広に目をやった。良広が生まれる前までは自分を実の娘のように扱ってくれる豊の両親と、自分の両親とを比べて、いい歳をしながら親に反感を覚えたものだったが、自分が母親になってみると親が子を思う気持ちが良く分かった。両親は決して自分が憎くて結婚に反対しているのではない。あくまで清美を心配しているのだ。だから豊のような千房の迷信を信じない男に嫁いで不幸になってほしくないがために、これほどまでに反対するのだ。そう考えられるようになった清美は、両親にも実の娘である自分の結婚を喜んでもらいたい、そして初孫を抱いてもらいたい、という気になったのである。


「意地の張り合いなのよ、結局」


急に寝返りを打った良広に、昼寝用掛け布団をかけなおした清美は呟いた。我が子の顔を見る親の心境とは不思議なもので、どんなに疲れていても嫌なことがあっても、平和そうな子供の寝顔を見るだけで、ふと笑みがこぼれて心の平穏が戻ってくる。子供は親に与えられてばかりの存在とばかり思っていた清美だったが、こうしてみると良広が清美に与えているものの方が断然大きいように思えた。良広はもう立ち上がって大人には理解できない言葉でしきりに話すようになっていた。子供の成長は思ったより早い。もう少しすれば、清美だけがこの大森の家で違う苗字であることに疑問を投げかけてくるかもしれない。清美はそれが怖かった。そうなる前に早くこの問題から抜け出そうと思うのだが、あせればあせるほど前には進めず、豊のほうが一時期婚約解消を考えていたこともあったのだった。


 良広は自分を取り巻く大人達の様子を訝しく思いながらもそれを口にすることはなく、大森家の子供として生活していた。


 良広がもうすぐ五歳になろうという時、清美の体には二人目の子供の命が宿っていた。


「お母さん、赤ちゃんは男の子? それとも女の子?」


突然清美に、頬を紅潮させた良広が言った。良広は近所の友達にも妹か弟ができるということをしきりに話していたので、清美はすぐに何があったのか悟った。


「生まれたのね」

「うん、弟だって。僕も弟ができたら、一緒にサッカーして遊ぶんだ」

「良広には、もうすぐ妹ができるのよ。女の子は嫌なの? お兄ちゃん」


良広は大いに慌てた様子で首を振り、「妹かぁ」と呟く。弟と一緒に遊ぶといっていた時より嬉しそうな顔をしていた。


「それにね、良広の妹が生まれたら、お母さんもお父さん達と一緒の苗字になるんだよ」

「本当?」

「本当。良広が小学校に行く前にはと話していたんだけど」

「良かった。僕ずっとお母さんがみんなと同じ名前になって欲しかったんだ」


良広にはもちろん苗字の差異が何を意味するのかは全く分かっていなかったが、今まで近所の友達と遊んでいても母親の話になると何故か後ろめたさがあった。そして、自分の口が災いにならないように自然に口数も減った。しかし、何か悪い隠し事がばれるのではないかという心配がなくなるのである。良広は生まれてくる妹に感謝していた。そしていっそう、生まれてくるのが待ち遠しく思えた。


「妹かぁ」


良広はもう一度呟いて清美のお腹に頬刷りした。


「咲って言うのよ」

「さき? 赤ちゃんにもうお名前あるの?」


良広は目を丸くして清美を見上げた。見ているほうが目を回しそうなくらい、くるくると表情を変える幼子に目を細めながら、清美は頷いた。お腹の中にいる咲を良広と共に撫でながら、清美はふと健司の子供のことを思った。


 健司の妻は生まれながら病弱な体のため、これまでなかなか子供ができなかったし、第一子を身籠った時も流産していた。そんな健司の妻のお腹の中にも今新しい命が宿っている。ただし妊娠したと分かった時から彼女はずっと入院したままである。順調にいけば咲よりも早く生まれるはずだったが、今だ産声はあがっていなかった。健司はそんな我が母子を心配してか次第に苛立った様子を見せるようになっていた。子供の頃から神経質なところがあった健司を清美はどちらかといえば苦手に感じていたが、最近では妙に短気で常にカリカリとしているようで、触らぬ神に崇りなしと極力近づかないように心がけていた。

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