体育祭-3

 階段を一段抜かしで駆け下り、二年生の教室がある五階へと舞い戻る。

 角を曲がり、ばっと廊下を見渡し、そして――。

「う……っ!」

 そこで思わず声が出た。

 四組の前、教室の扉から溢れ出すように人垣ができており、そいつらが揃って一様に中を覗きこんでいるのが見て取れる。

「遅かったか……!」

 女の嫌がらせやいじめというものはもっと目立たず、ともすればそれが生じていることすら周りに気づかれないほど隠密に、陰湿に、男のそれより陰惨に行われるものだと思っていた。

 なのに、あの人だかり。

 堂々と、大々的に、不穏なことが行われている。

 神崎はそんなに憎まれていたのか。

 過去に僕が振った女子に、露骨に敵意を向けられるほど。

(くそっ! くそっ! 全て僕のせいだ!)

 瞳をぎゅっと瞑り、頭をぶんぶんと振ってから廊下を一直線に駆け、四組の前にやってきて。

 そこに溜まる無数の人間を無理やりどかし、教室内に強引に入ろうと試みる。

「どけ! ……どけえっ!」

「うわ、やめろ!」

「なんだよ! 押すなっておい!」

 押しのけられた方が喚くが、そんなこと気にしてなどいられない。

 どうしてこいつらは、騒ぎがあると遠巻きに見ているだけなのだ。助けようとする輩は一人もおらず、かといって関与をせずにその場から離れることもなく、ただ中途半端な距離で遠巻きに眺めている。それがとても腹立たしい。見たいけれど火の粉が飛ぶのは嫌だから少し離れていよう、というような。

(このクズどもがっ! 道を開けろ!)

 どうにかこうにか生徒を押しのけ、開けた視界で輪の中央を見据える。

「…………っ!」

 そこに神崎がいた。床に転ばされたような体勢でへたり込み、彼女の周りを三人の女子が取り囲んでいる。彼女のすぐそばに転がった椅子と、整然と並ぶ中でひとつだけ斜めを向いた机、床に散乱した教科書と筆記具。それらはただ、暴力的な印象しかもたらさない。

「い、いや……もうやめてください……」

 蚊の泣くようなか細い声で、神崎は相手に視線を合わせずに零した。

 そんな神崎のもとにかがんで、女子の一人が彼女の顎を無理やり上げて、至近距離で詰め寄る。

「やめてってんなら、上杉のそばにくっつくのをやめてくんない?」

 あの女子には見覚えがあった。確かに一度、自分に交際を求めてきた女子生徒。

 だが、そのころにはすでに僕の家庭は崩壊していて、僕がすべてのことに意味を見出せなくなった後だった。そうなる前ならともかく、そんな僕は交際など何の意味もないと思っていたし、今だってそう思っている。おまけに相手はどう見ても僕とそりが合わなそうな軽い感じの女子だ。ゆえに一言も言わずその場を去ったのだ。

 それがまさか、一年近く間を置いてからこんな形で再発するなんて。

(くっ……これも僕のせいか……僕のせいで、神崎は……!)

 かわいそうに、神崎は目の前に迫った女子の剣幕にすっかりやられ、今にも泣き出しそうな様子で震えている。逃げようにも顎を捕らえられているし、取り巻きもいるせいで逃げられない。

「どんな汚い手で上杉を籠絡したのか、その臭い口から吐いてみろよ!」

「あんたみたいな根暗ブス、上杉に似合うわけないじゃない! 鏡見てこいよ!」

「ちがう……誤解です……も、もう……やめてくだ、さい……」

 取り巻きの女子も口々に神崎を罵りだす。すると彼女の顎を掴んでいた女子が、今度は神崎の綺麗な短い黒髪を無理やり引っ張って立ち上がらせた。

「い、いたい!」

 髪を無理やり引っ張られる光景。

 教室内に響く悲鳴。

 彼女の大きな眼の端から、ぽろぽろと涙がこぼれる。

「…………!」

 僕の視界が、真っ赤に染まった。

 気づいたときにはその女子の手首を力の限り掴み、神崎を手放させていた。自由になった彼女は、その場にずるずるぺたんと崩れ落ちながら、僕のことをじっと見上げていた。

「……う……上杉さ……ん?」

「貴様、神崎さんに何をしている!」

 手首をぎりぎり締め上げながら、その女子に食って掛かる。女子は痛みよりも僕が突然乱入してきたことに驚いた顔をしていたが、やがて嫌な顔をして笑った。

「……や、やっぱり上杉はこの根暗と付き合ってたんだ? 彼女のピンチに颯爽と現れる騎士ナイトみたいに……」

「黙れ! 神崎さんをどうしようとしたんだ!」

 揶揄しようとした女子に、あらん限りの力で手首を締め上げながら彼女の皮肉を跳ね返す。

「答え次第では、女でも許さない……! 病院送りにしてやる!」

「ひ……」

 その女子だけでなく、取り巻きの二人も完全に硬直しているようだったが、真っ赤に染まった視界には映らない。ただひたすら、憎しみの炎に焦がされるように、僕の視界でその女子が赤く染まる。

「神崎さんにぶつけていた見当違いの怒りや憎しみ、それは僕に向けられるべきものだ。一番悪いのは僕だ。一番クズなのも僕だ。なぜその矛先を、僕でなく、何もしていない神崎さんにぶつけたんだ!」

「そ、それは……」

「あろうことか、ブスだとか根暗だとか、本質と関係ないことまで言って、神崎さんを貶め、侮辱したな……!」

 もはや、その女子は金魚のように口をぱくぱくさせ、答えようにも答えられなくなったらしい。僕は彼女の腕を握り締めていた手を強引に払うと、女子は崩れるように床に投げ出された。取り巻き二人が、慌てて彼女のもとへ駆け寄って助け起こそうとする。

「お前たちの知りたいことを明らかにしてやる。僕と神崎さんは何の関係もない。たまたま忘れ物を取りに教室に戻ったら神崎さんがポスターを作ろうとして難航していたから手伝ってそのまま一緒に帰った、それだけのことだ。だから神崎さんは何も悪くない。悪いのはすべて僕だ。全部僕が悪いのだから、文句があるなら僕に言え。そして、ないのならもう二度と、僕と神崎さんの前に現れるな」

 女子三人は何も言うことはないとばかりに、そろって首を横に振った。

 僕は深く息を吸い込んで、

「……ならとっとと失せろおっ!」

 腹の底から大声で怒鳴った。女子三人は一目散に教室の出口へ遁走していき、そこにいた人垣をどかして視界から消える。それから遠巻きに見ていた人間も徐々に消滅していき、教室内には四組の人間と僕だけが残る。

「ふん、クズどもめ……いや、一番クズなのは僕自身か……」

 最後に自嘲し、そこでいまだ腰を抜かしている神崎のほうを見る。

 まだ恐怖が抜けていないのだろう、神崎はぺたんと座りこんだまま震える身体と声で「あっ……あああ……」と、それだけを絞り出すのみ。

 なんて不憫なのだろう。僕がよく知らずにこの女の子と一緒にいたせいで、彼女は無駄に恐怖と痛みと苦しみを味わってしまったのだ。あまりにも申し訳なくて、胸が痛い。

「神崎さん、すまなかった。怪我は……」

「おいおいおい、また派手にやってくれたなてめえは」

 神崎の返事ではなく、男の声が飛んできた。見ると、呆れ顔をした高城が頭をかきながらこちらへ向かってくる。

「なんだ、もう全部片付いたぞ」

「何ひとつ片付いてねーよ、アホかてめえは。ちょっとこっち来い」

「ま、待て! 神崎さんが……」

 高城は僕の腕を掴んで、強引に教室の外へ運んでいく。神崎をあの場に残しておいてしまうのだが、あいつはどんどん廊下へ、人気のない場所へと僕を連れて行き、やがて解放すると僕を見て言った。

「何考えてんだてめえは」

「なにって、神崎さんが傷ついて」

 すると高城は急に怒り出し、語気を荒げて僕に一歩詰め寄った。

「だから、その話をさっきしたじゃねえか! なのにお前は俺の制止も聞かず勝手に突っ走ってよ、もう大混乱じゃねえか。お前は何がしてえんだよ」

「神崎さんを助けたかったんだ!」

「あいつ助けるんだったらこの場は何もしないのが一番って言ったばっかだろうが! お前のせいであいつはこの先大変な思いをするってことを考えろよ!」

「うるさい黙れ! 傷つくのを放っておくなんてことができるかっ!」

 男二人、廊下で睨み合う。やがて高城は一歩下がると、手で額を押さえてため息をついてから声を落として言った。

「……お前、変じゃねえか? いつものお前なら、神崎が……いや、他人が攻撃されるって知ったとしても、『どうせ無意味なことだ』とか言って相手にしねえじゃねえか。なにがあったんだ? あいつはお前に何かしたのか?」

「なにも」

「……もしかして、お前まさか、神崎のこと……」

 高城が何か言おうとしていたのだが、それを遮る形で僕たちの間に女の子が一人割って入ってきた。

「いやー、爽やかとは程遠い朝だねえ。おっはよ、上杉くんと秀明」

 山口だった。高城の彼女で、自称僕の友人であり、クラスメイト。

 少女は僕の肩をぽんぽんと叩いてから高城のほうを向くと、二人はしばらく妙なアイコンタクトを始めた。なにか意思の疎通を図っているようだが、僕には分からない。それから再度僕に向き直り、山口はいつもの陽気さで喋り始めた。

「にしても、珍しいもの見せてもらったよ。クールに見えて実は熱い男、上杉双葉」

「茶化すな。……ん?」

 山口のほうを向きながら、ひとつのことに気づいて彼女に訊いてみる。

「『見せてもらった』って、見ていたのか? 一連の流れをすべて?」

「見てたよー。上杉くん乱入前から。いやー穏やかじゃなかったねえ」

「っ、じゃあどうして助けてあげなかったんだ!」

 しれっと答える山口に、僕の中で残り火のような怒りの感情がおこり、僕は語気を強めて彼女に詰め寄った。

「あわわわ、怒んないでよ。わ、わかった、じゃあ漫才やるから落ち着いて、ね!」

 詰め寄られた山口は慌てた様子で僕から離れ高城のほうへ寄ると、彼と向かい合う形になった。

「俺の財布、いつもスッカスカなんだよな」

「あたしがいつも奢らせてるからねー。今度はあたしが奢るよ」

「いや、俺はこのままでいいんだよ。金が減る分、財布に幸せが詰まっていくからな」

「秀明……あんたって最高にロックな男だよ……!」

「…………」

 アホ二人はそこまで言い合うと肩を組み、二人して僕のほうを向いて得意げな顔をした。

「「どうよ?」」

「帰れ」

 僕の怒りは増すばかりだ。この大事なときに何を考えているんだこの二人は。

「どうしよう秀明、逆効果なんだけど」

「ちいっ、俺らの漫才で笑わなかった奴は今までいなかったってのによ……まあこれが初めてなんだがな……」

「……いい加減にしないと二人とも窓から捨てるぞ」

 捨てると言うより、もはや殴ってもいいだろうか。山口はともかく、高城はとりあえず殴ってしまおうか。

 そんなふうに考えていると、山口は多少真面目な雰囲気になって言った。

「いや、だってあたしは神崎さんと面識ないも同じだし、あたしが助けてどうなるって空気でもないじゃん。余計事態がこじれていくだけだよ」

「だからと言ってだな……」

「神崎さんには気の毒だけど、あたしも秀明と同意見で、ゆるゆる事態が収まるのを待ってたほうがいいと思ったんだよ」

 山口の言葉に、高城が続く。

「てか、土曜日に奈緒を通じて俺のところにも画像が送られてきてから、俺と奈緒は月曜に上杉になんて言うか、上杉をどうさせるか週末ずっとメールで話し合ってたんだぞ」

「で、最終的にさっきの結論に至って、秀明にその旨を上杉くんに伝えるよう頼んだんだよ。勘違いしないでほしいのは、あたしたちは神崎さんを見捨てたいわけじゃなくて、下手に第三者が関わらないほうがあの子にとっても一番いいって結論に至っただけなんだよ」

「…………」

「それなのにお前、俺の……いや、俺と奈緒の忠告も無視して飛び出してあんな大立ち回りしやがって、もう意味分かんねえよ」

「ホントだよ、上杉くんもう意味分かんないよ。あたしらの週末まるまるパーじゃん」

「か、肩を組むな!」

 がっちり肩を組み合って、揃って僕に不平を言う二人。そう出られると僕のほうの立場が弱くなる。

「……僕の行動が軽挙だと言うのか」

「歩兵一個で済んだはずが、飛車、角、金、銀が落ちた感じだな」

「ポーン一個で済んだはずなのに、クイーン、ビショップ、ルーク、ナイトが落ちた感じだよねー」

 だから肩を組んで言うのをやめろ。それとどうしてそういった系統で譬えてくるんだ。すると肩組みをやめた山口が僕に向かって「でも、ほんとどうすんの?」と訊いてくる。

「状況悪くなったのは事実だぞ。これから神崎に対する誤解を解くために大変になるな。もちろん、そのリスクも分かった上で飛び込んだんだよな?」

「くっ……」

 高城までも畳み掛けるように迫ってくる。ステレオで口々に言わないでほしい。

 僕が答える術を持たず固まっていると、山口と高城は少し離れた場所へ移動して二人で何事か話し始めた。

「はっきり『神崎さんとは関係ない』って言い切ってたのはまだいいと思わない?」

「いや、ムキになりすぎて逆に怪しいって思われるかも分からんぞ」

「いっそ秀明が張り付いて守れば? 同じクラスじゃん」

「そしたらなんで今度は高城おれが出てくるんだってことになって方向がおかしくなってこねえか?」

 僕をそっちのけで、話を続けている。そんな二人を眺めながら、ふと僕は神崎に謝っていないことを思い出した。

 あの時は誤解を解くのに必死で、神崎のほうまでほとんど気が回らなくて。

 神崎は、先ほどの僕を見てどう思ったのだろう。

(やはり、引いただろうか)

 そう思って一人で勝手に落ち込んでいると、廊下の先から三組の担任教師がやってきて、僕たちに向かって早く教室へ入るようにと声を張り上げた。

「やばっ、秀明、作戦会議はまた後でね! 上杉くん、教室いこっ」

「あ、ああ」

 山口の後に続いて、僕も教室へ入る。高城も四組の教室へ駆けていった。

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