ひかり

 消えていく。

 田中正義の身体が、黒い粒子となって、中空に溶けていく。

 ……決着は着いた。着いたのだが――

 思えば、疑問だらけの戦いだった。

 この人は、初めから、僕らを殺す気なんて、なかったんじゃないか――そう思えるほどに。

 僕に、数体ずつ魔物を差し向けてきたことも。

 こちらが絶対絶命の中、柳子ちゃんに声をかけたことも。

 まるで――僕らの奮闘に、期待してたかのような。

 その過程があって、今、僕らはここに生きているのだから。

「田中さん……結局あんた、何がしたかったんだ?」

 問わないではいられない。

 思えば、最初からそうだった。

「最初の時点で、僕らをやれただろ? 赤絵が強くても、あのダークエルフと魔物たちがいれば、僕らなんて」

 あの赤絵に、逃げてと言わせしめたほどの強敵だ。事実、それほどの実力が、ダークエルフにはあった。

 既に身体が透け始めている、田中さんが僕を見る。

 そして、

「私の役目は、君たちを殺すことではないからね」

 でも、と田中さんは繋げる。

「私がどうにかしていたのは事実だよ。ここで倒されなければ、大勢の人間を殺すことになった」

 それは――そうだけど、でも、

「気付いたらこんなところまで来てしまった。……まぁ色々あって、辛うじて正気は取り戻したけどね」

 そこで、田中さんは――僕の後ろで、柳子ちゃんに目を向けた。

 柳子ちゃんは、平然を装ってるつもりだろうが、その瞳は、今にも涙が零れそうなくらい、潤んでいた。

 ……魔物化の浸食が進行した者が死んだとき、その死体は残らない。世界から存在を拒否され、この世から消滅する。今、田中さんに起こっているのが、それだ。

 だから、これで、田中さんとはお別れ。父親が、この世から消滅し、二度と会うことはできなくなる。

「できれば、柳子が結婚するまでは死にたくなかったけど――そうも言ってられないか」

 そんな軽口を叩く、田中さん。

 瞬間――

 感極まったのか、僕の後ろから、柳子ちゃんが飛び出し、田中さんに抱きついた。

 彼の腹部に顔を押し付けているのは、涙を見せないためか。

「……大丈夫です。わたし、いつのさんと付き合ってますから。結婚を前提に」

 えっ。

「ね、いつのさん?」

「え? えぇと?」

「ね、いつのさん?」

「はい」

 無機質な声から漂う威圧感の前に、つい反射的に肯定してしまう僕。

 そうなのかい? と田中さんも僕を見た。僕は頷く他ない。

「だから……もう大丈夫です」

 柳子ちゃんの声は、震えていた。

「お父さんがいなくても、大丈夫だから……」

 柳子ちゃんが顔を放し、田中さんを見上げる。

 涙と嗚咽を漏らしながら、懸命に。

「だから……だから……」

 言葉に詰まる、柳子ちゃんの両頬を、田中さん両手が、そっと、優しく包み込む。

「そうか――それなら安心だ」

 彼の姿形は、紛れもない、女だ。けれど、そこに居たのは、正真正銘、父の顔をした、田中さんだった。

 きっと柳子ちゃんは――田中さんを心配させたくなかったんだと思う。だからあんな嘘を吐いた。親とか家族とか、僕には分からないけど――そんな健気な柳子ちゃんの姿を見せられたら、その想いを無視することなんて、できないじゃないか。君もそうだろう?

「いつのくん、柳子を頼むよ。君さえ傍に居てくれれば、間違うこともないだろう」

 言いながら、田中さんは、柳子ちゃんの手の平を握る。

「これ……」

 田中さんが手を放すと、柳子ちゃんの手の平には、ひとつの銀のロケットがあった。

 見覚えがある。

 これは、いつも柳子ちゃんが、首にかけてるのと、同じ――

「これを持っていけば、私を倒した証として、認められるだろう。これについては、あの子クエ子も知っているからね」

 柳子ちゃんは、そっとロケットの蓋を開けた。

 そこにあったのは、ひとつの絵。

 描かれていたのは、三人の家族が幸せそうに微笑むもの。

 魔物と化し、正気を失った田中正義が、それでも手放さなかった、たったひとつの、柳子ちゃんとの繋がり。

「私が何をしたかったのか――さっきそう訊いたね、いつのくん」

 と、ここで田中さんは、僕に視線を向ける。

「簡単だよ。君たちに、私を乗り越えてほしかった」

「それは、どうして……」

「老婆心みたいなものさ。こんな世の中だからね。未来を担う若者には、強くなってもらわないと」

 ということにしておいてもらえるかな? と、田中さん。

 その言葉に嘘偽りは、感じられなかった。けれど、何か、含蓄のようなものを感じたのも、また事実だった。この人が己の内を、正直に話すとも思えない。

 ……まったく。最後まで分からない男だよ。

「だから柳子。おまえにはこう言っておこう」

 田中さんは、柳子ちゃんの双肩に手を置き、屈んで、彼女と視線を合わせた。

「誰かを守りたいなら、いっぱい強くなりなさい」

 真っすぐな視線。

「いっぱい無茶をしなさい。いっぱい学んで、いっぱい失敗して、いっぱい後悔して、いっぱい泣いて、いっぱい成功して、いっぱい笑いなさい」

 いよいよ――田中さんが消えていく。

 身体が透けていく。

 もう存在がもたない。

 世界から――拒絶される。

「友達に優しくしなさい。友達に優しくされなさい。友達を怒りなさい。友達に怒られなさい。友達を愛しなさい。友達に愛されなさい。友達を大切にしなさい。友達に大切にされなさい」

 柳子ちゃんの頬を伝う涙。

 それを、田中さんの指が、優しく受け止める。

「愛する人を幸せにしなさい。愛する人に幸せにされなさい。愛する人と幸せになりなさい。いっぱい喧嘩して、いっぱい解り合いなさい」

 親から子に向けての、ありきたりな、だが、切実な願いを、僕らは、確かに聞いた。

「わたし……わたしは」

 目の前で消えていく、父を前に、柳子ちゃんは言葉が定まらない様子だった。

 僕に言えることは、きっと何もない。言ったところで、どうなるというのか。

 だから僕は、彼女の手を握る。

 できるだけ優しく、強く。

「いつのさん……」

 柳子ちゃんが、驚きつつも、こちらを見た。

 そのおかげかどうか分からないけど――柳子ちゃんは、父親に向き直る。

「正直、わたしにお父さんが言うことができるか……分かりません……でも、それでも」

 訥々と、しかし、強い意志が乗せられた声音。

「なりますから! 一人前の請負人に、強く、なりますから! だから……!」

 柳子ちゃんが、ぎゅっと、僕の手を握った。

「さようなら、お父さん」

 田中さんは、深く目を閉じ、

「うん――それでいい」

 心の底から、満足そうに応えた。

「いつのくん」

 そして、最後の最後に、僕を見、

「自分が何者か知りたければ――秋葉原に行きたまえ」

 そんな置き土産を、というか爆弾を残していった。

 そして、ふと、田中さんの目が見開く。

「あぁさくら――そこにいたのか」

 安心したように妻の名前を呟いて――田中正義の存在が、粒子となり、やがて、この世から完全に消滅した。

 ……最後まで、してやられっぱなしだった。

「お父さんらしいです」

「うん」

 僕と柳子ちゃんは、手を繋いだまま、粒子が散っていった方向――月を見上げていた。

 田中正義の顔も、声も、いつかは時間に消し飛ばされる。でも、田中正義と戦ったという事実は、そういう男が居たという事実は――きっと忘れやしないだろう。

 彼の存在が消滅したとて、それだけは記憶には残り続ける。

 僕にとってこれは、そういう戦いだった。

 何はともあれ。

 本当に色々あったけど――ありすぎたけど。

 誰一人欠けることなく。

 田中正義。

 討伐完了。


 余談だが、柳子ちゃんが龍化すると、龍そのものになるため、当然、着ていた服が破れる。

 で、人の姿に戻ったら、当然裸なわけで。

 何が言いたいかというと、このあと柳子ちゃんに裸であることを指摘したら、彼女は真顔になり、龍化した負荷をものともせず、魔術を詠唱し始めたので、僕は全力で逃げた。


 

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