『魔球』

矢口晃

第1話 

 魔球売リマス。

 そんな看板を出しておいたからと言って、現実にどれだけの人間が足を止めることか、――と思っていたのだが、実際にはその看板の前に立ち止まって、二、三声をかけて行く人の多さに驚いた。

 私は先週、無職になった。今どきよくある、会社の経営が傾いてきたための人員削減とかいうその波に、とうとうさらわれてしまったという感じだ。齢五十三。名もない中小企業に二十年近くも務めてきての、最後の仕打ちがこれだ。社会全体の趨勢から見て仕方がないと言えば仕方がないが、非常と言えばあまりに非情だ。いつでも最後の頼みのように勤めてきた小さな会社だ。そこで五十半ばまでの人生を削って、それと言って重役を任されたわけでもない。今この会社を去って他に職を探せと言われて、いったい主だった経歴もない元中年サラリーマンを拾ってくれる企業がどこにある。せいぜい自給千円の深夜アルバイトにありつくのが関の山だ。そこで先輩の高校生アルバイトに、臭いだののろいだの言われながら、それでも頭を下げて仕事を覚えろというのか。

 私には大学三年生の息子がいる。私に似て、決して出来のいい方ではないから、もちろん国立大学の学生などではない。高い学費のかかる、名もない三流大学だ。今の時代、息子を持った親の責任としてせめて大学だけは出させてやりたいと思い進学させたが、私ら下流階級に属する人種にとって、その学費は予想以上の重荷となった。職があってさえそれである。まして無職となった今の私にとっては……想像すると、辛いを通り越して、なんだかもう無邪気に笑いたくなるようだ。

 とまあ、そんなやけっぱちな心境で、「魔球売リマス」なんていう看板を、日中から深夜まで多くのサラリーマンが行き交う新橋駅の少し路地を入ったところにひっそりと立てたのは、私なりの、ねじ曲がった腹いせのつもりだったかも知れない。帽子をかぶって眼鏡をかけて、つけ髭をつけて。まるでホームレス同然の冴えない格好になって、電車の音ががタンがタンと響く高架下を少し離れた路地裏に、べニア一枚渡しただけのみすぼらしい台を作って、ビールケースをひっくり返して日がな一日座っていた。前を通るのはスーツ姿の、それも多くは中年かそれ以上のサラリーマンばかり。その多くは、私をじろりと、蔑むような目つきで見やりながら立ち止まりもせず歩み去って行った。憐れと思うだろう。惨めと思うだろう。思え思え。私は通り過ぎる人々の顔を自分からわざと見つめ、気色悪い笑みを浮かべながら彼らの通り過ぎて行くのを見送った。

「魔球なんて、本当にあるんですか?」

 冷やかしのつもりか何のつもりか、一人の男性が台の前に腰をかがめて私に尋ねた。歳は三十をいくらか過ぎたあたりだろうか、髪も服装もきちんとした、恐らく社内では有望視されていそうな、一目好感の持てる紳士的なサラリーマンだった。

「ありますよ。……いい魔球がね」

 私はしわがれた声を作って怪しげに答えた。

「へええ。それで、いったいどんな魔球なんです?」

 男性はさわやかに聞き返してきた。

「えっへっへっ……。旦那、そりゃあ、いい魔球ですぜ」

 私ははぐらかすように言った。言っておくが、もちろん、魔球なんていうものはない。消える魔球だとか、火の玉ボールだとか、サイエンスフィクションじゃあるまいし、まさかそんなものが本当にあるはずがない。私がポケットに入れているのは、一個の汚らしい硬質の野球ボールだ。冷やかしてくる客に対しては、それを出すことによってその人を愚弄し、自分の慰みにしようという、ただそれだけのことだ。

「へええ。いったいどんな魔球なのか、見せて下さいよ」

 よほど時間があると見えて、男性はさらに私にそう言ってきた。私は声を怪しくひそめながら、

「えぇえ……。そう簡単には、お見せできる代物じゃあ、ござんせん」

 と男性の顔を覗き込んだ、次の瞬間、

「てめえ!」

 さっきまで紳士的だった男の態度が豹変した。顔には怒りを露わにし、その右手は私の襟首を力強く掴み締め上げていた。

 驚きのあまり声も出ない私に、男性は続けざまに怒鳴りちらした。

「適当なこと言ってんじゃねえぞ! みんな忙しく働いてんだよ! てめえみてえなちんけなうすのろを見てるとへどが出るんだ! ああ? ドロップアウトするならとっととしろよ! 図体だけあって仕事もしねえてめえみてえなのが、社会にとっては一番邪魔臭えんだ! てめえらの補償費払うためにこっちは働いてんじゃねえんだぞ! わかってんのか? 苦しいのはてめえらばかりじゃねえや! みんな歯を食いしばって堪えてんだよ! てめえみてなのに足を引っ張られるくれえなら、いなくなってくれた方が、よっぽどためになるってえんだよ!」

 最後の言葉とともに、私の体は後ろの壁に突き飛ばされた。背中を打って体勢を崩した私に振り返りもせず、男性は日の当たる路地の方へと足早に去って行った。

 私は崩れた体勢を元に戻し、ビールケースに座り直した。私は今の男性に対して、全く怒りは感じていなかった。むしろ、心の底から納得していた。

 なるほど、男性の言うとおりである。何年もの間、われわれの生活を覆い続ける長い不況。それをよくしていくためには、働ける人間が働いて、少しでも金を作って、それをまた他の場所に動かさなくてはならないのである。とにかく、お金が動かないことには経済は活性化しない。苦しい時だからこそ、社会全体、みんなの力で苦しみに耐えていかなくてはならないのである。給料に不満のあるのは、誰だって一緒だ。それを嘆いていても仕方がない。そうやってみんなで頑張らなくてはいけない時に、特に身体的な障害を持っているわけでもない私たち下流階級の人間が、不貞腐れて仕事場を放棄して時間を無為に費やしている。できることをしていない。社会的な責任を果たそうとしていない。そんな姿を見かけたら、むしゃくしゃするのは当たり前である。大きく言えば、私たちのような生ぬるい考えをもった人間がいるおかげで、われわれの生活は、長期にわたって上向かないのかもしれないのだ。

 職がないなんて、嘘だ。探せば、いくらだってある。現に無料のアルバイト情報誌は、巷にあふれ返っているではないか。あとは、身分不相応のプライドとか要求だとかを、捨てられるかどうかだ。みんな、プライドを捨てて低賃金でも働けばいい。まずは経済を立て直し、夢を語るのは、それからだ。

 みんな、わかっているのだ。そんなことは――。

「魔球って、何ですか?」

 そんなことをつらつらと考えていると、また別の男性が私の前に足をとめた。

 歳は六十二、三、頭髪はかなり薄く、体は全体的にふくよかに肥えている。眼鏡の下の目は、細く少し垂れていた。

 男性は、肩にかけていた通勤かばんを背中に回し、両膝に両手をついた前かがみの格好で、穏やかな口調で私に話しかけてきた。

 私は例によって怪しげな声色を使った。

「へぇえ……。そりゃあ、珍しい、魔球ですぜ……」

 男性は、気を害するそぶりもなく朗らかな口調でさらに問いかけた。

「今度ね、私の孫が、甲子園地区予選の決勝に出るって言うんだけど――その魔球、通じるかしら?」

「へぇえ……。そりゃあもう、旦那……」

 私は影のある薄ら笑いを浮かべながら男性の顔を下から見上げた。

「そうかい? そりゃ、朗報だな。いくら位するんだろう。魔球っていうくらいだから、二万や三万じゃ利かないんだろうな」

 私は同じ表情を続けたまま、何も言わなかった。

「じゃあ、近いうち、また来るよ。その時は、よろしくな」

 そう言い残し、気のよさそうな男性は、やはり明るい路地の方へ消えて行った。

 同じ一人の人間を見たと言って、人間の反応は、やはり人それぞれだ。気を害する人もいれば、冗談の相手に使う人もいる。苦境を見て苦しいと感じるか、楽しいと感じるか。それによって、人生の成り行きというものは、恐らくずいぶん変わったものになるだろうと思った。

「あのう……。魔球を、買いたいのですが……」

 日もすっかり沈み、街がネオンに彩られ、一日の仕事からようやく解放された人々がねぐらに戻る前に一杯のお慰みにありつこうと徘徊を始める時分になったころ、ある冴えない中年男性が、私の前に現れた。

 歳はおそらく私と同じくらい、体にはほとんど脂肪がなく、頭髪は薄い上に手入れが行き届いていなかった。スーツは見るからに量販店で仕入れた安もの、全体に皺が寄っていた。ワイシャツの一番上のボタンは外され、汚れた細いネクタイが、だらしなく首からぶら下がっていた。

 身分も境遇も、どうやら私と同等か、それ以下らしいのは一目で判断できた。

「魔球を、私に……」

 人物の観察することに気をとられ何も答えずにいた私に、男性は再び繰り返した。私はこの男性に対しては、怪しい声色を使ってからかう気には、なぜかならなかった。

 私は普段の口調で、男性に尋ねた。

「どうして、魔球なんか?」

 男性は中腰だった姿勢をさらにしゃがみこませ、斜め下に視線を遊ばせながら、何か感情の全く籠っていないというような口調で、ゆっくりと話し出した。

「あのね、私、この歳になるまで、何も取り柄がないんですよ。人に、これができますって言えるものがね。ご覧の通り、こんな顔ですし、性格も引きこもりがちの方ですから、どうも友達もできなくてね。暗いでしょう、見るからに? 人から好感をもたれるどころか、逆に嫌われちゃうんですよね、自然と。ずうっと一人ぼっちで生きて来て、会社に入ってもミスばっかりで、上司に怒鳴られて、同僚からは冷笑されて、居場所がなくって、でも、がんばって仕事はしようと思うんですけど、なんせミスばっかりでねえ、クビになっちゃう。何社クビになったか、わかりゃしませんよ。本当に。履歴書を書くたびにねえ、自己アピールの部分、あそこがねえ、いつも空白なんですよ。資格もないしね、取り柄もない。人にアピールできることなんて、これっぽっちもない。っていうことは、価値がない。人間としての。何のために生れて来たのかあ、自分はって、いつも思うんですよ。せめて一つでも特技とか、長所とかがあれば、まだ前向きにもなれるんですけど、……なくて。今日も、簡単なミスで、上司にこっぴどく叱られまして。上司って言っても、息子ぐらいの歳の子なんですよ。でもまあ、そこまで言うかっていうくらい、怒られましてねえ。……ドロップアウトするならとっととしろよ、図体だけあって仕事もしねえてめえみてえなのが、一番邪魔臭えんだって、ねえ……。みんなの見ている前で、怒鳴られました。まあ、ドロップって、最初飴玉のことかと思いましたけど……ああでも違うんだって、後でわかりました。辞めろっていう意味なんだって……。もう、今の会社にも長くはいられなさそうで、また、履歴書を書かなくてはいけないんですけど……。それで、今通りかかったら、あなたが魔球を売っているっていうじゃ、ありませんか。私、ぴんと来ましてね。これだ、って。だって、魔球を持っている人なんて、そうめったにいなじゃあありませんか。それなら、特技の欄に書けるなあ、って思いましてね。特技、魔球が使えます、って、やっと書けることが、私にもできるなあ、って思いましてね。もしまだ余っていれば、買わせて頂きたいのですが……」

 私は何も言わずに黙って聞いていた。そして聞いていて、なぜだか無性に腹が立ってきた。この男性は、一般的に言えば、同情されるべき人間なのかもしれない。努力する意思があるのに、努力が実を結ばない。しかしくじけてもまだ努力を続けようとしている。巡り合わせの悪い星の下に生まれた、手を差し伸べるべき人間なのかもしれない。

 ただ、今の私には、見ていてとても苛立たしかった。それは、今目の前にいる男性が、私の目にはあたかも自分自身と重なって見えていたかもしれなかった。自分の能力の至らないために招いた不幸を、自分以外の何かの責任に転嫁しようとするその姿に、自分自身の情けなさ、みっともなさ、惨めさを発見したためかもしれない。

 私はポケットに入れてあった汚らしい野球のボールを、男性の前に突きつけた。

「持って行け。金はいらない」

 冷たく、突き放すような口調で言った。

 男性は甘いものを見つけた時の子供のように目を輝かせた。

「いいんですか……」

「いいよ」

 私は、一刻も早くこの男性にこの場からいなくなってほしかった。

「本当に、いいんですか……」

 しかし男性はもったいぶったように、私の手からなかなかボールを受け取ろうとしなかった。

 我慢を切らした私は男性の手の中へボールを落とすと、後ろの壁に背中をつけて、

「早く行けよ」

 と言い捨てた。男性は手に落とされた汚らしい野球ボールを嬉しそうにまじまじと見つめながら、

「やったあ……。魔球だぁ……。これが魔球かぁ……」

 とつぶやいていた。その口元を見ると、上下の歯が何本か抜け、残った黄色い歯と歯の間から、呟くのと同時に舌が動くのが見えてとても気色が悪かった。

「ありがとうございます」

 男性は大事そうにボールを両手に包みながら、私に深々と頭を下げた。私は無言だった。

「ありがとうございます」

 男性は、またしてもそう言った後、ゆっくりと立ち上がり、その場を立ち去る前に、もう一度私に頭を下げながら、

「ありがとうございます」

 と言った。

 男性が、私に背中を向けて歩き始めた。その時、私の気持ちは、じりじりと痛み始めた。

 男性は、頭を上下させながら、醜い歩き方で、ゆっくりと遠ざかって行った。その後ろ姿を見ながら、私はとうとう堪え切れなくなって、男性を追いかけ駆け出した。

 男性に追いつくとすばやく正面に回り、その手からさっき遣ったボールを取り返した。男性は驚き目を見開いた。

「ボ、ボールを……」

 熱い感情がこみ上げて来て、私は男性に夢中で言った。

「おい。目を覚ませ。こんなただのボールが、魔球のはずがないだろう」

 しかし男性の耳には、私の言葉が届かないようだった。

「ボール……」

 とつぶやきながら、私の手から再びボールを取り返そうとしていた。

「目を覚ますんだ。こんなボールをもらったところで、お前の長所にはならないだろう? これはただのボールだ。魔球なんかじゃない」

 しかし男性は一向に聞き入れようとしない。

「ボ、ボールを……」

「おい! 頼むから目を覚ませよ! これはただのボールだろう」

 言葉に気持ちが入り、私は男性の両肩を強く掴んで前後に揺さぶった。男性の頭が、力なく前後に揺れた。

「おい! おい!」

 周りには、野次馬が足を止め初めていた。好奇の視線が、私たち二人に浴びせられていた。

 私は男性の肩から手を離した。男性の頭の動きが止まった。

 男性は、しばらく私の顔を見つめていた。

 そして、おびえるような小声で、呟くように懇願した。

「……お願いです。……お願いですから、私から、長所を取り上げないで下さい……」

 私は、眼頭が熱くなった。男性を、力いっぱい、力いっぱい、抱きしめてやりたかった。

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『魔球』 矢口晃 @yaguti

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