第92話 天文24年春 2
線路敷設に必要な材料としては、レールの他には枕木、バラストと呼ばれる敷石、それに枕木とレールを止めるためのプレートとボルトがある。
鉄道発祥直後には、この枕木とレールを止めるのに犬釘や亀釘と呼ばれる杭状の四角い大釘が使われていた。
現在では、レールにかみ合わせるJ字型の鋼鉄プレートと、枕木に開けられた穴を通すボルトとナットによってカシメられている。
このボルトやナット、プレート、そしてそれらを締め付けるレンチなどは、現在の富山の諸工場で製造が可能である。
枕木については、飛騨や越中の杉やヒノキを選んでいる。
これは、長期間屋外で重量物を支える枕木という用途の場合、直射日光、風雨、気温差などで腐食する材質の木材では安全性が確保できないためである。
あらかじめ枕木に寸法通りのドリル穴を開けることでレールの隙間を適正に保って敷設が出来るため、木工所において全ての枕木に穿孔加工を行わせた。
そのために、専用のドリル工具も開発し、量産化させて大量の枕木を準備させることにした。
また、レールや枕木を支えるバラストについても準備を進めた。
バラストには鉱山で掘り出した岩石などのうち、材料鉱にならないいわゆるズリや、自溶炉などで排出されるノロが流用できる。
理想は花崗岩などを砕石場で加工して運搬することが望ましいのだが、専用の砕石場などは現状、労力面で用意が出来ない。
良之はそうした鉄道建設のための材料を生産、運搬させる道筋を各担当者たちと協議して、雪解けを待つことにした。
猿倉衆の努力によって、豚のなめし皮の品質が徐々に向上している。
以前から良之は、軍用のブーツをこの皮で生産して欲しいと考えていたが、いよいよ革靴の生産に乗り出すことにした。
理想を言えば、1人1人に採寸して靴底を作るのが理想だが、それが実現できるほどの職人は到底確保が出来ない。
そこで、良之の時代と同じく0.5センチ刻みで型を作り、さらに、靴の横幅も数種類用意することで試作品を作らせた。
また、二条軍に命じ、全員の足裏の採寸をさせて統計を取る。
結果、だいたい23センチから26センチあたりにサイズが集中しているため、このあたりを中心に量産化を開始させた。
靴底は、タイヤゴムを流用してゴム底を用意し、皮によるブーツに貼り合わせて成型する。
靴紐は尾張の木綿糸をヒモに編み上げさせて、越中で靴紐に加工させた。
ブーツに合わせて、軍足の提供も開始した。
この時代の軍は素足にわらじが多かったので、足回りの負傷が多発していた。
今後ブーツが行き渡れば、感染症や破傷風といった病気の軽減も期待できるだろう。
足下の他、良之は軍服や警察の制服などについても考えている。
だが、なかなか素材となる繊維が安定供給に至らない。
尾張での木綿製造はまだ端緒に就いたばかりで、飛騨における絹糸生産も、実証の域を出ていない。
麻や青苧なども既存のマーケットに提供するので精一杯といった所だ。
そこで、麻や青苧、木綿などの繊維くずを大量に集め、セルロースから化学反応でビスコースを生成し、射出法で再度セルロース繊維化させる化学プラントを計画した。
レーヨンである。
セルロースは植物の細胞が創り出す炭水化物で、一説には地球上に存在する炭水化物の三割以上がこの物質だと言われている。
綿など人間が作る布の原材料物質であり、特に木綿繊維は綿花が作る天然のセルロース繊維をこよって糸にして使用されている。
材木も、ある意味においてはセルロースの集合体である。
植物繊維がある所には必ずセルロースがある、といってよい。
このセルロースを水酸化ナトリウム溶液に漬け込むとセルロースがアルカリセルロースに変質する。
このアルカリセルロースに、さらに二硫化炭素を加えるとビスコースが生成される。
このビスコースを加圧して細いノズルから射出し、その繊維を希硫酸に晒すと再びセルロースに戻る。
つまり細い糸状のセルロース繊維が完成する。これがレーヨン生産の原理である。
レーヨン生産にかかる数種類の化学物質はいずれも危険で有害なもので、このことが量産に対するネックになる。
また、原料セルロースから中間物質のビスコースを得るまでには様々な工夫が必要となる。
レーヨンは化学繊維としては美観があり、かつては人絹などと呼ばれるほど絹に近い光沢がある。
一方で、吸湿性が高い上、水分を含むと縮むという欠点がある。
風雨に晒される軍用服には適さないが、屋内で着用される高級服などにおいて、他の素材の代用には充分に提供しうる素材といえる。
では、軍用に向く繊維素材とはどういう材質なのか。
良之は資料を探った。
答えは自衛隊の迷彩服にあった。
屋外の劣悪な作業環境のために開発された素材。それはポリエステル50%に、ビニロン30%、木綿20%の混紡であった。
ビニロンは日本で開発された合成繊維だ。
京都帝国大学で発見され、倉敷レーヨンと大日本紡績によって実用化された合成一号繊維に端を発している。
ポリエステルは、現代人にとってもっとも馴染みの深い化学物質だろう。
ポリエチレンテレフタレート製のボトルは、その頭文字からPET、つまりペットボトルと呼ばれ、日常で見ない日がないほどの流通を見せている。
このPETを繊維化したものがポリエステル繊維である。
余談だが現代においてポリエステル繊維が使われている代表的な着衣は、体育用のジャージである。
このジャージは、たとえば資源リサイクルで回収されたペットボトルから生産されている工場も存在する。
ペットボトル飲料の2リットル製品で言えば、約200本で一着のジャージが生産できる。
これら化学繊維に関しては、フリーデや山科阿子たちと打ち合わせを重ね、彼女達に越後の石油精製プラント付近で、新工場の設置を任せることにした。
混紡紡績から織布、更には裁断や縫製といった服飾加工が完成するまでには、おそらく数年のちを待たねばならないだろう。
また、型紙のための製紙、裁断のためのハサミ、縫製のためのミシンなど、周辺産業の整備ももちろん必要になる。
何か新技術を実現させようとするとき、必要になってくる周辺技術が無限に広がっていくことに、時折良之は絶望的な気分に襲われることがある。
だが、それでもよりよく生きていきたいと思うなら、取り組んで行かざるを得ないのである。
良之は、まずは裁ち鋏、待ち針、チャコと呼ばれるチョーク、型紙などのすぐに実現が可能な製品の工業化、さらに糸や布、ボタンなど規格の制定、ミシン用木製糸巻き、ボビンなどの設計、そしてミシンの試作品のための準備を行い、工業化に向けてのプロジェクトを開始した。
公文書に使用するには、鉛筆には問題点が多すぎる。
そこで、良之は万年筆の生産に踏み切った。
万年筆の原型である付けペンは、歴史的に見るとその起源は羽根ペンにさかのぼる。
西洋では古来ガチョウや白鳥、カラスなどの羽根の付け根を細く加工し、インクに浸して筆記具と為した。
やがて18世紀頃から、金属に細い切り割り加工を施し、毛細管現象を応用してインクを蓄えて、可能な限りインクにペン先を浸す回数を減らす工夫が取り入れられる。
その最終的な進化が、万年筆である。
万年筆は、金合金、つまり半量以上の金に対して銀や銅を混ぜて合金としたペン先に、高寿命製を与えるために硬度の高いイリジウムにオスミウムを混ぜたいわゆるイリドスミン合金をペンポイントとして溶着させた設計になっているものが多い。
このペン先から毛細管現象でインクを吸い上げさせると、ペン軸内部にインクが溜まり、そのインクが空になるまで筆記が可能になる。
世が下るにつれ、このインクのタンクがカートリッジ式に変わったりしたが、現在においても最高級品は、このインクタンク式が用いられている。
日本では1970年代以降、公文書へのボールペンの使用が容認されたことで万年筆の需要が一気に低下した。
それまでは、社会人になった若者への贈り物として、年長の親族から記念品と送られる文具として人気の高い商品だった。
良之自身も万年筆よりボールペンの方が手に馴染む筆記用具なのだが、ボールペンは、この時点の二条領の生産能力では手に余る。
ペン先のボール製造やペン軸にこのボールをかしめる加工技術、それらを不良品を極限まで抑えて量産する技術などが不足しているためである。
万年筆の場合、エボナイトやプラスティックのペン軸以外の全ての製品が、この室町期において製造が可能な部品となる。
もっとも、ペン軸にプラスティックを用いるのであれば、M-16においてすでに量産工場が稼働していることもあり、金型を起こせば製造ラインの構築は容易だろう。
エボナイトというのは、天然ゴムに硫黄を加硫させて硬化させた物質である。
天然ゴムは硫黄の配合でその硬度が決まるが、万年筆の軸に利用するためには、長い年月の利用に耐えうるだけの堅さが必要となる。
その素材として万年筆の誕生当時から好まれたのがエボナイトだった。
良之はペン先の加工を金細工師に、ペン軸の加工を銃工場の職人に任せ、インクの製造については石油精錬工場からスピンオフさせて製造させた。
万年筆のインクの主要な原料が、カーボンブラックだからである。
次いで、万年筆とは相性の悪い和紙の代わりに、良之は美濃で洋紙の生産を始めることを計画した。
和紙は一般にコウゾの木とトロロアオイの粘液を用いて手漉きをされるが、洋紙の場合は針葉樹などの木片を砕き、水酸化ナトリウムで熔解させ繊維パルプとして抽出。
そのパルプを次亜塩素酸ナトリウムなどの漂白剤で晒し、その繊維を機械漉きで紙に成型して作られる。
ちなみに、製紙業のパルプ生産は、実はレーヨン生産のセルロース抽出と原理を同一にする工程といえる。
セルロースナノファイバー技術を製紙会社が牽引しているのは、決して偶然ではない。
天文24年の雪解けまでの長い冬を、こうして良之は様々な分野の専門家育成に充て、過ごしていった。
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