天文23年冬
第89話 天文23年冬 1
越中富山の冬は冷え込みも霜も降雪も厳しいが、良之にとってはある意味、幸福な季節といえる。
軍事や政治での突発的な出来事で彼の研究開発が阻害されないからだ。
天文23年12月。
いよいよ降雪がはじまった富山御所で、良之は絹の自動紡糸の研究を行っている。
絹糸の紡ぎ方は、完全手工業の時代から完全自動紡績まで、まったく原理は変わっていない。
蚕が繭を作った時点で加熱乾燥によって生育を止め、熱湯でゆでることで絹糸の構造物の繭をほぐす。
ほぐされた繭の糸口を取り出し、複数本の糸をこよって錦糸を巻き上げるのである。
自動紡糸機の場合、各種センシング技術によって新しい繭が供給され続ける。
だがこのコンピュータ技術の部分については、良之の知識では再現不可能である。
絹糸には、用途に応じて様々な撚り数が設定されている。基本になるのが3撚り。
次いで4撚り。
撚り上げられた糸同士を再度組み合わせて番手を上げることもあるが、原料としての絹糸は一般に、撚り数が少なく細い方が、より良質であると言われている。
撚り技術などはのちのち、長い時間をかけて技術者たちが個々に発展させればよいと良之は考えた。
まずは、三つの撚り糸滑車の付いた撚糸機を作り、新たな糸口を供給するアームの操作を工員に任せる形の半自動撚糸機を開発し、生糸生産地である飛騨で小規模に実験運営を開始した。
冬場の農閑期に、若手の未婚女性を中心に雇用を促進したが、希望者は飛騨のみならず二条領各地から殺到した。
この時代の暖房の熱源は、全国的に薪の燃焼熱である。
いろりには郷愁があって、屋内で赤く燃える炎を眺めながら家族が過ごすのはなかなかよいのであるが、他方で、この燃焼時に発生する煤が、じん肺や肺結核、肺気腫などの健康被害につながっていることは見逃せない。
また、寝室においては手鉢や行火などの燃焼型の暖房具が用いられるが、こちらも火災の危険があったり火傷の問題などもあって、何より不便である。
良之はまず、個室用に石油ストーブの生産を開始した。
石油ストーブのボディや燃焼器、灯油タンクは8割方が鉄板プレス製品だ。
灯油を芯と呼ばれるグラスファイバー繊維で蒸発させ、その芯の先端に着火して燃焼。
さらに灯油の燃焼熱を使って燃焼網と呼ばれる金属網を加熱させ、この熱で不完全燃焼した灯油から発生する一酸化炭素を燃焼させ、余熱を得る。
屋内に高濃度の一酸化炭素ガスが発生することも防ぐ一石二鳥の仕組みである。
不完全燃焼した灯油の燃焼網による再燃焼のためには、燃焼筒外部に耐熱ガラスによる筒が必要になる。
燃焼筒内部に燃焼ガスを押し込め外気と遮断させ、その上で燃焼網赤熱による赤外線を効率よく屋内に伝えるため、透明性が必要なのである。
また、ストーブの筐体、つまりハウジングにおいても、この赤外線を屋内によりよく伝えるため、鏡面加工が必要になる。
通常のハウジング部分は、一般に耐熱塗装された鉄板が、また、鏡面部分には劣化腐食が少ないステンレス板が用いられる。
石油ストーブは日産50台規模で製造ラインを構築させ、製造を開始させた。
また、鋳物と亜鉛メッキ鋼板による薪ストーブの製造も指示した。
ガソリンスタンドが全く整備されていない現状、甲信越から北陸、東海に及ぶ広大な二条領において灯油の流通は輸送力に限界があり、現状においても薪が燃料の主力である。
石炭やコークスは、一般家庭で使用できるほどの生産量が得られていない。
鉄鋼生産で全量を消費してしまって欠乏している資源の一つだった。
薪ストーブは、ハウジングを鋳物、燃焼ガスの排気用煙突に亜鉛メッキ鋼板を用い、覗き窓に耐熱ガラスが用いられる。
この時代としては比較的大型の鋳物になる。
鋳型には砂が用いられ、そこに若干量の糊として石油由来のポリマー液を含ませて鋳造する。
1日の生産量は10台が良い所だが、こちらは職人数の増加と熟練によって、今後大きく生産量が増えていくだろう。
炭火の手鉢などは美濃の瀬戸に増産させる。
火鉢や五徳、鉄瓶などは鍛冶師や鋳物師に量産させる。
全国の商人に分銅や升、それに通貨の新造などでネットワーク力を持った二条家は、全国に強大な販売力を持った。
どのような製品でも作れば作るだけ売れ、それだけでなくさらなる増産を渇望されることになる。
「全滅?」
良之は報告を聞いて唖然とした。
アルメイダら南蛮商人から購入して試験育成させていた能登のブドウ農園の育苗が、全て枯れてしまったという。
能登では、先の大乱で働き盛りが多く戦死してしまったため、働き手が新たに成長するまでの間、官費を大量に投入して様々な支援策を行っている。
西洋から買い上げた種苗の農業試験場もそのひとつだった。
能登、加賀、越中に幅広い政治力を持っている遊佐続光を代官として任命していたが、その遊佐が青い顔で恐る恐る報告に来たのである。
「は。地面を藁で覆ったり添え木に糸でくくったり、雪かきをしたりしたのですが……」
「わかりました。南蛮から仕入れた作物ではよくあることです。遊佐殿も気を落とさず。民をよく労ってあげて下さい」
良之は、京から仕入れた酒粕と南蛮商人から買い付けた砂糖を遣わし、寒い中頑張った皆に甘酒でも振る舞ってあげて下さい、と続光を慰めた。
「御所様、ところで、甲斐からブドウの修行に来ている若い衆のうち、岩崎なる土地のものが、これなら甲斐にもある、と申しておりました」
「えっ?」
「なんでも、鎌倉の頃に渡来の坊様によって甲斐に持ち込まれた株が、今でも大事に保存されているとか」
ぱっと浮かんだ良之の喜色を見て、続光はほっと安心して意気込んだ。
「よろしければ、事の真偽を確かめ、事実であればこちらを取り入れとうございます」
「うん、悪いけど頼みます。ただ、もし甲斐で育ってるようだったら、能登に持ってくる必要はありません。武田殿に言って、登美から勝沼、一宮あたりで大々的に植樹してもらいましょう。あと、ブドウ棚の作り方を彼らに伝授してあげるよう、手配をしてあげて下さい」
「承知いたしました」
ブドウ棚は、蔓を持つブドウを中空で支え、果樹を育成する手法のことである。
二条領においてはすでに鋼鉄ワイヤーの量産がはじまっているので、試験場において藤やひょうたんなどで棚の技術を開発済みである。
「遊佐殿。今後も南蛮から来た作物が失敗することはいくらでもあると思います。陽気が日本や能登とは合わなかったり、土地に根付かないなんてことはどんな作物でもあることです。失敗を恐れないで頑張って下さい。失敗してもちゃんと禄は払います」
「……ありがたき幸せ」
「あなたたちはとても大切な仕事をしてるんです。南蛮から来た作物は、成功したら能登だけじゃなく、日本中の飢えている人の命を救えるんです。その誇りを持って、これからもお願いします」
その言葉に、失敗の叱責を恐れていた遊佐続光は大いに励まされて代官地に引き上げていった。
ブドウという作物は非常に難しい。
良之が失敗したヨーロッパ種は、温暖で、かつ降水量の少ない地中海的な気候を好む作物で、日本のような寒暖差が激しく多雨、多雪な地域には不適である。
日本においては、アメリカ種の一部やコーカサス種が適しているのであるが、この時代、アメリカ種はまだヨーロッパにも伝来していない。
甲州に根付いたブドウは、コーカサス種だ。
その起源は分かっていないが、勝沼の土豪である雨宮家が、大事にその種を後世に伝えたと伝承に記されている。
土地の気候に適応した新種といえる作物で、現代では海外でも「Koshu-Grape」種と呼ばれている。
良之がブドウにこだわる理由は、ワイン生産のためだ。
ワインがこの時代の日本人にどこまで受けるかは分からないが、少なくとも、南蛮人に売りつければ巨利が得られると確信している。
そもそも甲州盆地は稲作に向かない。
富士川水系の各河川による堆積地・扇状地であるため、目の粗い砂礫のせいで極度に水はけがよすぎる上、富士山の火山灰による土壌は貧しい。
その上、水田は日本住血吸虫の主要感染源である。
何代にも渡って、土地を耕し、一つ一つ岩石を取り除き、肥料を与えて必死で水田を作り上げ、這うように、地に根を生やすように苦心をしてその結果が寄生虫による衰弱死では、努力が浮かばれない。
甲斐では、換金作物を振興し、米穀類は他領から購入させた方がよいと良之は考えている。
甲斐、それに信濃のみでものを考えざるを得なかった武田家と違い、良之はすでに、美濃尾張、加賀越中といった米穀の生産地を持っている。
その土地土地に応じた最適な殖産が可能なのである。
この頃から、良之は配下を通称ではなく苗字や名前で呼ぶようになって居る。
今までは相手を気遣い、必ず通称で呼んでいたのだが、実は同じ官職を名乗る配下があまりにも多く増えてしまい、時によっては同席したりするため、この国家規模ではすでにままならなくなっているのである。
たとえば、織田信長の弟信勝は弾正忠を私称しているが、三好の重臣松永弾正久秀はともかく、武田だけでも、保科弾正正俊、真田弾正幸隆がいる。
場合によっては当人同士が相談して官職名を私称するのを替えたりしているのだが、
「ゆくゆくは私称を禁じたい」
という良之の触れによって、すでに何人もの武将が、名乗りを替えてくれている。
名乗りを替えるのは良いのだが、今度は良之やその側近が覚えきれない。
「目上である御所様なれば、姓や名を呼ばれるのは問題ございますまい」
信長や道三、不識庵、晴信らの同意もあり、同席者に同姓が居ない場合は姓を呼び、同姓が居る場合は姓と名を呼ぶことにした。
とはいえこうした工夫は家中のみで、他家の者達に対しては相変わらず、通称を用いねばならなかった。
煩わしい話だが、この時代においてそれらは確固たるマナーであり、明確に敵対でもしていない限りにおいては、良之といえど従わざるを得ないのである。
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