暗雲

第57話 暗雲 1


この年の飛騨で、最も長い距離を駆け回ったのは新三郎だっただろう。

高山で軍令を出す信長、平湯で新兵や再訓練しなければ使い物にならない雑兵などをしごくお虎や滝川彦右衛門。鉄砲隊の訓練をさせる源十郎。

そして、配置換えによって良之の側仕えに戻った望月三郎。

そうした彼らの間を、伝達書などを懐に日没まで駆け回っている。

別の日には、鹿閒で作業中の藤吉郎やフリーデ、平湯で医学を教えるアイリ、千などの間を駆け巡っている。


新三郎は正式に代々の苗字である小林を名乗っている。

元服も、そう遠くない未来に出来るだろう。

母と妹が療養所から退所できたらやろうと考えているため、まだ新三郎のままだった。


この時期、司令を賜った信長があえて高山にいるのには理由がある。

信長は、この秋、姉小路と戦になると踏んでいる。


姉小路は、妙に強気である。

当初良之のところに伺候してきた古川二郎から音信が途絶えた。

年貢も検地も一切報告がないところをみると、おそらく姉小路のスパイだったのであろう。

元来、小島、向、小鷹利、古川あたりは姉小路の分家から興った同族である。

良之が飛騨に入るまでは狭いエリアで陰湿な権力闘争をしていたようだが、どうやら共通の敵を見つけて結束したようだった。


信長の元には、伊賀や甲賀の草から、戦略的・戦術的に必要な情報が集まってくる。

それを取捨選択し、信長にあげるのは池田勝三郎の仕事である。


「若。やはり、姉小路の背後には内ヶ島が居りました」

「であるか」

「内ヶ島の背後には、どうやら神保が居りましょう。白川の草からの報告では、荻町城の山下大和守が越中とのつなぎになって居るようで」

「向牧戸の川尻備中守は?」

「それがどうにも。どうやら越前からの調略になびいている気配があるとか」

信長は苦い顔をした。


信長の倫理観は、奇跡的なくらいこの時代とかけ離れている。

どちらかというと、良之にもっとも近いとさえいえる。

この年、未だ元服を済ませていない内ヶ島の主君・夜叉熊を支え、導くべき老臣たちが、ほうぼうの大名たちから調略を受けて二股をかけるような状況がどうにも気に入らない。

一の老臣である尾上備前は、加賀の一向宗を頼りにしている。

要するに、二条家とこれほどの戦力差があるにもかかわらず内ヶ島が強気であり、その上姉小路にすり寄って彼らを取り込もうとしている背景には、越前朝倉や越中の神保あたりの戦力を当てにしていると言うことになる。


信長という男は、こうしたこの時代特有の国人・豪族の節操のない外交を生涯嫌った。

また、この時代では呼吸をするように当然である、

「自分が生き残るためには、強者に自分の主君の首を持ってでも寝返る」

という思考を生涯許さなかった。


信長は勝三郎に指示して、これらの報告を箇条書きに簡便にまとめさせ、良之へと届けさせる。今日も小林新三郎に走らせる。

「新三郎、そちはまこと、健脚よな」

信長が頬を緩め、珍しく褒める。

この頃では、こうした家中の信頼によって新三郎の人格も薫陶され、一種のかわいげが出てきている。

少年ながらひときわたくましい身体を縮こまらせて、照れて笑いながら信長に恐縮を見せ、新三郎は鉄砲玉のように高山から鹿閒の良之の許へ急ぐ。みるみるその背中が小さくなっていくのを、信長は微笑して見送っている。


その信長が、急に厳しい表情になる。

「勝三郎」

「はっ」

「滝川と下間を呼べ」

信長は、良之配下の鉄砲組の参軍2人を呼び出し、密議をする。


「実はな、国府あたりがきなくさい」

国府というのは、律令の頃各地に制定された首邑の事である。

国分寺が置かれたり国府の庁が置かれた。飛騨の場合は国府と呼ばれるが、土地によっては府中という地名が残っている。

「国府の姉小路とその一党が、百姓どもを煽っておる。早晩、隣接する広瀬あたりにちょっかいを出すであろう」

広瀬の領地では、現在刀狩りが進んでいる。

よそと違い、姉小路と隣接している広瀬の民は不安視し、あまり状況は芳しくない。

この状況で広瀬に古川や姉小路が略奪なぞ仕掛けようものなら、刀狩りに深刻な悪影響を残すだろう。

「滝川には広瀬城、下間には梨打城に入ってもらう。それぞれ、種子島の上手を500ずつ選び、姉小路領の押し込みに備えよ」

梨打城は、国府近辺に唯一建てられた江馬の砦で、飛騨安国寺の西麓に建てられている。

「へい。……来た場合、討ち取って構いませんので?」

「構わん。こちらにとっては野盗も同じよ。……ところで、雨が降っても籠もった城から種子島を撃ちかけるような工夫はあるか?」

信長の言葉に2人は顔を見合わせ、

「雨に濡れぬよう、屋根などをかければ」

下間源十郎が答えた。

「ではすぐにかかれ。猶予はさほどない」

信長はうなずいて命じた。




この頃。

良之は、この当時灯油として使われている植物油の精製にチャレンジしている。

油圧装置に使える精度の油にするため、劣化する成分や固形化する脂肪酸の除去など、化学的な処理を行わないと、油圧への利用に適さないのである。


食用油の場合、搾油した粗油から脱ガム、脱酸、脱色、脱臭といったプロセスを経て化学的に処理されている。

脱ガムというのは、リン酸、タンパク質、多糖類やグリセライドなどの浮遊、固形化するガム質の夾雑物を取り除く。

この処理は、80度近辺に熱した油に、同様の温度の熱水を加え、遠心分離して取り除く。

ここは、職人たちに手作業で一生懸命回してもらうしかない。

こうしてエマルジョン化したガム質と油分を分離させ、油分のみを取り出す。


ガム質が除かれた粗油にリン酸液を加えて攪拌し、さらに水酸化ナトリウムを投入する。

そしてここでも遠心分離機が登場する。

リン酸液と水酸化ナトリウムによって、粗油中の金属分子や脂肪酸などが分離される。

取り出された分離成分は、石鹸工房に提供される。

また、この後再びお湯を加えて遠心分離し、粗油に残る石鹸成分を丁寧に分離する。

ここに、飛騨や美濃で手に入る白土を塩酸などで活性化させた「活性白土」を投入し、純粋な油脂分以外の成分を吸着させて濾過する。

最後に再び、熱水を加えて遠心分離を行い、加熱処理で水分を除去すると、精製油の完成である。

ちなみに、鹸化分は石鹸製造に、大量に発生する遠心分離後の残渣は焼成後に肥料に、そして、精製後に残る排水には消石灰を投入してリン酸カルシウムを作れば、これも化学肥料に転用が出来る。


投入する化学物質などは全て、良之にとっては飛騨で容易く調達できるが、問題はやはり遠心分離である。

ハンドル型の人力遠心分離機を作成したものの、労力に対して効率が悪い。

一刻も早くモーター化して省人力化したいところだった。


この精製油は、酸やアルカリの残渣をコントロールできれば食用にも灯油にも適する。

だが、油圧作動油としては、本来石油から精製したいところだ。

流動性のパラフィン油から硫黄、リンなどのゴムや金属に腐食性のある成分を完全に除去できれば最良だが、現状、フリーデのプラントは建設中だし、その後、各部の分溜性能を実証せねばならず、工業化の段階に至っていない。




精製した油の安全性を計ったうえで、良之は早速完成した油で天ぷら料理を試作した。

平湯に戻って、昼前から厨房で油料理を作っていると、続々と近場の幹部たちが試食に集まってきた。

良之が作るのは、鶏の唐揚げ、野菜の天ぷら、小魚のマリネなどである。

厨房を指揮している藤吉郎の母、おなかなどは、良之の細かいアドバイスを必死で覚えようと彼の調理に見入っている。

彼女達で一度味見。

そして、次はいよいよ調理実習である。


「これは、うまい」

フリーデは驚いた。

「良之様は、料理までお出来になるのですか?」

「ああ、凝り性でね。一時期はまった」

時代一流の錬金術でもあり、貴族の子女でもあるフリーデにはまったく料理が出来ない。

なにか、ひどく負けた気分になる。

千や阿子も同様である。


藤吉郎や望月三郎は、若いだけにさすがに油料理が合うようで、盛んにいろんな食材の揚げ物を食べ比べては、喜んでいる。


通常の油と区別させるために「天ぷら油」と名付けたこの食用油をなかの管理する蔵に納め、くれぐれも揚げ温度に注意するように、火傷に注意するようにと念押しした。


なかに指示して、天ぷらや唐揚げを高山の衆にも出すようにする。

新しいもの好きの信長や、若手衆には大好評で、レギュラーメニューとして期待されたという。

はじまったばかりの製油業は、直後から全土的な期待の重圧を背負うこととなった。




ひとまず、良之は鋳物師にガラスの製作法を教えている。

炉を使いこなすこと、温度と溶解の関係を理解していること、そして、隣接工芸だからだ。

良之が作成を依頼しているのは、灯油ランプである。

もちろん、下部の灯油タンク、芯を送り出すつまみ、風防ガラスなど、必要な構造を錬金術で実物を作って参照させ、後は実質放りっぱなしである。

ガラス窯炉は、マスプロダクトで無い場合電気坩堝式が多い。温度が定量化できるのと、システムが小型化できるからだろう。


良之が技術移転した飛騨の鋳物師は、藤吉郎が生産する大量のコークスや木炭によって熱量が保障され、ガラス製造に必要な1200度という温度を獲得している。

ケイ砂七割に炭酸ナトリウム、炭酸カルシウムを三割配合。

これによって坩堝で溶融したガラスに拭き竿を差し込み、職人が吹きながら金型のなかで廻しながら成型する。吹き回しである。

金型の剥離剤には、木工職人たちの廃材であるおがくずを石臼で挽いたものを使う。

ガスバーナーが出来れば、剥離剤を使わずガラス鋳型を直接バーナーであぶってなめらかな地肌を作れるが、今は、金型製品が作れればそれで充分だろう。


職人たちに新たな技術を教えるたびに、職人たちは喜々としてチャレンジする。

この精神は、平成も室町も関係ないな、と良之は感動せざるを得ない。


職人たちは、良之の作る精度の高い製品に驚愕せざるを得ない。

燃焼ハンドルで芯をコントロールして光量を調整したり消火をする。

ガラス製の「ほや」が火の安全と風による鎮火を防ぎ、ほやと枠の間の空間から酸素が吸い上げられる。

こんなもの、みたことがない。

良之が作り出してくるものは、常に新しい。そして、技術が断絶している。

脈々と進化した技術をあっさり越えて、見も知らない技術をいきなり、そして平然と要求してくる。

難易度の高さが、職人たちを興奮させる。


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