第27話 旅の空 8 -甲斐~信濃-
「未だに信じられぬ……いや、まるで夢のようじゃ」
晴信は、改めて良之たちを屋形に招き、そういった。
良之は、アイリたちから細かい所見を聞いていたので、それを武田家の三兄弟に伝えた。
「衰弱が激しいので、これからは徐々に食欲を戻させ、早い時期に床を離れて散歩などをされた方が良いでしょう」
良之もさすがに、彼女達の回復魔法の威力には驚きを隠せない。
21世紀でも脳卒中は重大な病で、幸運にも早期発見、早期治療が図られなければ、運動障害を克服するために、よほどのリハビリが必要になる。
大井夫人は、布団から起きだし正座をすると、自身を治した医師や公卿の良之の前での不調法を、晴信や信繁、信廉兄弟にとがめ、叱りだしたのである。
「それはさておき、改めてご挨拶いたす。武田大膳大夫晴信でござる」
「二条大蔵卿です。このたびはお世話になります」
「お世話などととんでもない。母の病を治療して頂いたご恩、せめてこの地に居られる間はお返しいたしたい」
言葉通り、その後は心のこもった夕餉を馳走になった。
甲斐では、反対に食料を売却した。
ここ数年、災害と異常気象によって甲斐の食糧自給率は低下している。
反対に、塩山における産金は、この頃からまさに黄金期を迎える。
武田家には金がある。
そこで、良之は躑躅ヶ崎城下の八日市の豪商、坂田屋で、棹銅を買い占め、醤油のサンプルを提供し、食料を提供し、最後に純銅化した棹銅を納品した。
良之は武田晴信に、黒川金山ののろやカラミを提供して欲しい旨を伝える。
「構いませぬが、
晴信は首をかしげた。
工夫次第では役に立つのです、と良之は答えた。
実際、黒川金山で廃棄されるカラミは、ビスマスやテルル、亜鉛、タングステンといった元素が多く含まれる。
この時代、黒川金山は流域の砂金、露天鉱床による採掘がメインで、その豊かさ故にあまり熱心な選鉱を必要としていなかった。
それでいて、おそらく金の生産量はこの当時、日本一だったと想像される。
武田がこの時代屈指、あるいは最強と言われる軍を作ることが出来た理由の一つではなかっただろうか。
良之は、岐秀元伯との面会をとても楽しみにしていた。
なんと言っても、武田信玄という人物の教養と人格を醸成した僧である。
面会の許可を得て、早速最少人数で訪問する。供は望月三郎と滝川彦右衛門、それに木下藤吉郎のみである。
岐秀元伯はさすがに大物の人格的迫力に満ちた僧だった。
様々な民政について良之は語り、聞いた。
彼のアドバイスは、今後に全て活かせそうな物だった。
良之にとっても、岐秀元伯に取っても有意義な時間だったが、この対談をもっとも身近で、感動と衝撃を持って聞いていたのは、良之の供3人だっただろう。
このたった1回の邂逅を間近で聞いただけでも、彼らにとって、新たな世界を垣間見たような情報量と質だった。
ひとつきほど甲斐に逗留し、良之の一行は信濃に旅だった。
武田家の三兄弟はひどく別れを惜しんで、出立に際しお礼金として3000両もの粒金を良之に出してくれた。
良之は深く感謝し受け取った。
そしていつものように、二条関白家にその金を送付した。
他の大名家の時と同じように、やがて武田家にも関白からの礼状が届くだろう。
躑躅ヶ崎を出て小淵沢、諏訪と宿泊し、次の旅程に立った。
良之は諏訪でもまた、御用商人たちを相手に、棹銅の買い占め、純銅の提供、そして、戦乱によって状況の厳しい食料や塩の提供をして利ざやを稼いでいる。
良之の家臣たちの誰もが、次は深志、もしくは信濃府中に行くと考えていたが、良之が指示したのは安曇から大町に抜けることだった。
大町。仁科荘である。
隠岐あたりはあからさまに不満の表情をした。
彼の連想は伊豆の時の狩野川での砂金取りである。
もちろん彼の予感は正しい。
良之は、この際たっぷり時間をかけて、姫川で採取をする気なのである。
良之が姫川で狙っている鉱物は、クロム、ニッケル、翡翠、白金類だ。
他にも、この川の砂礫からは砂金や酸化マグネシウム、正長石と呼ばれるカリウムケイ酸塩鉱物が豊富に取れる。
これらの鉱石がこの川に集中しているのは、ここが糸魚川静岡構造線と呼ばれる大断層によって出来た地形に沿って流れているからである。
この断層によって隆起した地層には蛇紋岩帯と呼ばれる地層があり、前述した鉱物はこの地層に豊富に含まれているのだ。
こうした地層を長年にわたって風雨が洗い流し、鉱物を砂礫として、あるいは岩石として集積しているのだ。
翡翠や白金はともかく、他の鉱物はよそでも採れる。
この川に良之がこだわる理由は、白金属、特に、ルテニウムだ。
ルテニウムは希少元素としては珍しく、日本国内でも採集できる。
とはいえ残念ながら現状の良之では手の届かないエリア、つまり蝦夷――北海道の雨竜川流域がその最大の候補地である。
姫川は、本州での大きな候補地で、そのため、良之はこのチャンスを見逃すつもりは全くなかった。
付け加えると、翡翠はこの当時、南蛮にも明にも高く売れる鉱石である。
「あ、分かりました御所様!」
いきなり藤吉郎が叫んだ。
彼を含む側近たちには、この姫川流域がいかに鉱物資源にとって重要なのか、小田原以降の勉強会で繰り返し教えてきている。
良之は微笑んでうなずいた。
化学の元素周期法をたたき込んでいる藤吉郎を筆頭にしたフリーデ、アイリ、千、阿子と、千から話を聞いて学んでいる望月三郎あたりは、良之にとっていかに貴重な機会なのか分かっているのだ。
「金より貴重な金属だ」
などと一生懸命に隠岐などに説明するが、まず金より貴重な物というのが想像出来ないのだ。
「翡翠の産地だ」
というと、隠岐は理解したのか不満は言わなくなったが、それでも、この規模の兵が泊まれる宿があるか、不安を感じているようだった。
千国街道、という。
松本宿から保高、池田、大町、佐野。
千国、山口、糸魚川へと抜ける街道である。
佐野峠が分水嶺となり、南には青木湖という大湧水の湖があり、中綱湖、木崎湖を経て農具川となって、下ると高瀬川と交わる。
高瀬川は穂高川と交わり、犀川に合流する。
佐野峠から北に行くと、姫川である。
言うまでもなく、良之は犀川、高瀬川や農具川でも砂金の採取をしている。
そのため、ひどくのんびりとした旅である。
佐野峠あたりで、堺からのつなぎが来た。
広階親方の分銅の試作品が送られてきたのだった。
「いい出来だね」
良之が配下たちに見せて意見を求める。
形はまさに後世の後藤分銅のパクリではある。
偽造防止の彫金と目方の彫金が職人の手仕事で施され、表に皇家の五三の桐紋、裏には二条藤の刻印が打刻されている。
そして、校正を示す打刻によって、正当性を主張している。
家臣一同もその出来に満足しているようだった。
「うん、じゃあこれを、禁裏と関白家、それと、脈のありそうな大名家に贈るよう皮屋に手配してくれる? それと、関白様に御綸旨を用意させるよう頼んでおいて」
御綸旨というのは、帝の手を煩わせないよう手続きを簡素化し、実務担当の蔵人たちによって作成された勅令伝達手段だ。
京の政情に疎い良之に変わって、関白である兄の晴良が、大蔵省付に数家選んでいるはずだ。
そこに、このサンプルの分銅と、度量衡統一の勅を添えて贈る。
京と堺の商人たちには、希望者に比較的安価に譲るが、それ以外の土地の商人には、原価の数倍の値を付けて売る。
「高すぎませんか?」
世事に明るい服部半蔵がつい声に出した。
「それがいいんだよ。人間って、安すぎる物と高いもの。どっちを信じると思う?」
良之が言った。
「世間の誰もが、高いものだと知ってる。そういう物は、その値段だけ信用が付いてくるんだ」
商人たちはその信用を買っていることに、やがて気づく。
良之はそういった。
この作戦にはもう一つ裏がある。
伊賀者、甲賀者のネットワークを最大限に活用する。
噂を流すのである。
曰く、帝が新しく分銅をお決めになった。
曰く、京や堺では早速大商人が使い出した。
曰く、日本全国、どこに行っても同じ目方、同じ分銅だから、使ってる商人の信用は桁違いに上がる。
曰く、使ってない商人は寂れるかも。
こうすることで、数年後には、高い分銅を、頭を下げて買い求めに来るだろう。
京や堺でも噂を流す。
「安いのは今回だけ。次は定価で買わねばならない」
19個そろいで銀65匁。ただし、50両一ついらない場合は15匁、30両一ついらない場合は10匁、それぞれ割り引く。
ただし、あとから買う場合は20匁、15匁と割高にする。
京・堺での初回限定価格は、揃いで40匁とした。
次回からは65匁で、ディスカウントは一切ない。
つなぎは、良之の指示を持って引き返していった。
次に、良之は関白宛にお願いのための文書を用意する。
祐筆が、早速墨を用意した。
「蔵人の仕事を、身分を問わず達筆な公家に手伝ってもらえるよう計って下さい」
良之のアイデアは、こうだ。
宛先と発給人の蔵人の名前を明け、御綸旨の本文だけを写筆する。
一通につき、銀1匁。
10通ごとに別に銀5匁をボーナスに出す。
蔵人は、送付先の宛名と自分の署名、花押を書くだけで済む。
さらに、昇殿以上の身分の公家には、誰でもいい、知人の高僧に案内状を送るように依頼する。
つまり
「このたび帝が新しい分銅で統一なさる勅令を出した。付いては大蔵卿が新任され、彼の元でその分銅が製造され販売される。このことを知っておいて欲しい」
という内容である。
ダイレクトメールによる世論形成である。
こちらは、一通あたり銀10匁。
どちらも、必要になる紙や墨は、申請すれば京の皮屋から無償で提供される。
皮屋にもその旨を伝え、報酬の原資と紙や墨を用意するよう指示をする。
さらに、良之自身もここまでで知り合った高僧、大名、海賊や豪族と言ったリーダー格の人物たちに、分銅のことを紹介する手紙を認めた。
特に、すでに戦国大名と化している三好、今川、武田、北条。そしてこの先飛躍するであろう織田。
さらに、商売で縁を持った商家等にも同様に手紙を送る。
それらを、小者の中からつなぎ要員として選ばれた若者に託し、最寄りのつなぎ――諏訪まで届けさせるのである。
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