第26話 旅の空 7 -甲斐-

武野紹鴎から、錫の明からの輸入について指示を求めるつなぎが来た。

曰く、

「鉱石で仕入れるか、精錬された錫を仕入れるか」

である。

鉱石で仕入れれば割安ではあるが、精錬してみないと収穫量は分からない。

精錬された地金で仕入れれば、割高になるのである。

「地金で仕入れろ」

と良之は指示した。

明の商人は信用が出来ない。

安く買ったとほくそ笑んだところで、精錬してみて後悔したら身も蓋もない。

明の商人は水晶玉に目の色を変えているらしいので、プライオリティはこちらにあった。

それと、精錬には大きなコストがかかる。

労力に加えて、薪炭を消費する。

それらは明国に支払わせたいと良之は考えている。目先の金だけの問題ではないのだ。


さらに、現在良之も錫を10トンほど持っている。

これも、小田原から船で堺に送りつけておいた。

これだけあれば分銅作りも始められるだろう。


問題が発生した。

この頃、小田原の早川衆には数人の輸送船の船主が居たが、良之が錫の運搬を手配した虎屋によると、どうもその船が九鬼で拿捕されたらしい。

事情は分からないが、このままでは私掠されるおそれがある。

「九鬼なら、もしかしたら話が付くかも知れませぬ」

滝川彦右衛門が言ったので、

「よし、じゃあ俺も行こう」

と良之も腰を上げた。

「なにも、海賊なぞに……」

隠岐は愚痴をこぼしたので

「じゃあ隠岐は残ってみんなをよろしく」

と、最少人数での出発とした。


尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、相模。

良之のたどった地域の大名には、良之の家紋「二条藤」の積み荷の運行はほぼ保障されている。

問題が発生した伊勢志摩は、今回の旅程で飛ばした地域だった。

厳密には、今回私掠を起こした伊勢志摩の海賊九鬼衆も、本来、雑賀衆から伝言された新宮堀内家によって積み荷は守られているはずだった。

だが、この時期、伊勢国司北畠家の権力を背景に志摩に移り独立色を強めつつあった九鬼家は、熊野海賊の意向を無視したようだ。

九鬼に言わせると

「通行料を納めない相模の船を拿捕した」

ということになる。

だが、船主にも言い分はある。

彼にしたら、熊野には払っているという事になる。


小田原の早川から志摩の鳥羽までは、最速で一日。通常の航行で延べ三日。

虎屋の仕立てた急ぎ船は、積み荷の代わりに交代水夫を満載し、なんと七刻で鳥羽に着いた。

フリーデとアイリはひどい船酔い。良之、藤吉郎はダウン。さしもの彦右衛門も望月三郎も足下がふらついている。

小半時休んだあと、早速虎屋手代は海賊屋敷に交渉に向かう。

一方、滝川は志摩地頭九鬼家、まあその有り様は海賊頭なので結局向かう先は海賊屋敷ではあるが、通される場所が違うのである。


「これは滝川の」

彦右衛門の来訪を許した九鬼の名代は当主定隆の嫡男浄隆だ。

「お久しゅう」

彦右衛門は胡座で軽く頭を下げる。

「京の御所さんの家臣になりなさったか、おんしほどの男が、酔狂な」

伊賀甲賀は歴史上、六角の近江や大和、伊勢志摩と縁が深い。

浄隆はこの時期20ほどで彦右衛門より五歳は若い。

その浄隆が彦右衛門を知っているということは、この一帯で彦右衛門の悪名がどれほど響いているかの一つの証になる。

「はは。世の中は広い。わしも最初は公卿などと軽く見て居ったが、あの御所様は、侮らぬ方が良いぞ」


「そうか。まあそのことは置くとして、向後はわしらはこの海の通航に加料を取る」

「分かった。此度のこと。御所様にとっては単なる巻き添え故、自身の荷に問題がなければとやかく口出しはせぬと仰せだ」

「船を押さえては居るが荷には手出しして居らぬゆえ、安心召されよ」

まず、彦右衛門と九鬼清隆の面会はこれで双方の確認ごとが済んだ。


次に、九鬼清隆と良之の面会が用意された。

この席上、良之は金150両という破格の資金を提供し、代わりに、船標に二条藤が上がっていた場合、臨検せず通航させることを約定させた。

今回の荷についても、鳥羽で九鬼の船に乗せ替え、彼らによって堺へと運ぶことに決まり、その運賃についても良之が改めて支払った。

良之にとっては虎屋と九鬼に同じ荷の代金を二度払う形になっていたが、そのことで九鬼衆の心象に好影響があるなら安い出費だと良之は思った。


この時代、公卿と言えば貧乏の代名詞だと思われている。

金払いの良い良之に浄隆は内心驚いたが、また一方で、彦右衛門の言う「侮らぬ方が良い」という言葉の真意がこの辺にあるのだろうと思った。

また、良之はこの地に数日滞在し、彦右衛門と望月三郎を新宮の熊野衆・堀内家に使いさせ、彼らにも150両の金を贈り、改めて二条藤の船標を掲げる船への不干渉の約定を得てきた。

堀内としては、雑賀衆からも申し入れを受けていたので二言はなく、これで良之の荷は、少なくとも小田原から堺への安全な航路が確定した。


このあと良之主従は、霧山御所に北畠国司家を訪ね、北畠天佑入道やその嫡男、侍従具教らの応接を受けた。


次いで九鬼衆に依頼し、大湊や桑名で、余剰食糧を購入したり、棹銅を購入。

小田原の時同様に、こっそり錬金術で純銅化した棹銅を売りに出したりもした。

同様のことをそのまま北上し、津島湊や熱田でも繰り返した。


その後、良之らは急いで小田原に戻った。

冷え込みが厳しく、天候も怪しくなってきたためである。


明けた天文二〇年。良之は万全を期して旧暦2月まで小田原に滞在した。

小田原の文化レベルは高く、この時期、良之配下の侍大将格の隠岐侍郎(配下は諸大夫・青侍)、望月三郎(配下は主に甲賀)、滝川彦右衛門(甲賀・美濃・尾張)、服部半蔵(伊賀)、千賀地石見守(伊賀)、下間源十郎(門徒衆)らとその部下たちは、文武教授を見つけては師事していた。

隠岐は北条幻庵と随分親しくなったようで、彼の人脈から諸大夫たちへの和歌や連歌の教授などを引き受けてもらっていた。

そうした全ての授業料は、良之が俸禄とは別に全て支払っていた。

いつか、飛騨の無人地帯に工場を作る時、彼らが今度は教師になることを想定してのことだった。

同様に、ある一定以上の教養を身につけた者達を、伊賀や甲賀に戻して、現地の子弟の教育を奨励した。


この時期、雑賀衆や堺衆に依頼して、良之は種子島筒も300挺ほど購入している。

これは、鉄砲の習熟には時間がかかるという滝川彦右衛門の要請に応えたもので、北条家に依頼して山での鹿狩りや鳥の狩りなどで腕を磨かせた。


望月千と山科阿子は、もうすっかりフリーデやアイリと会話が出来るようになっている。

彼女達は、すでに魔法の行使や錬金術への理解がはじまっている。

木下藤吉郎、下間源十郎と併せ、良之はこの6人に化学の教育を行っている。

魔法にしろ錬金術にしろ、化学知識を理解することで、数段階上の力を発揮するのだ。

この6人の中では、藤吉郎の理解の早さが桁違いで、彼は残りの5人の補習さえ受け持てるほどになっていた。

良之主従の、雪解けを待つこの時期は有意義に過ぎていった。


旧暦2月頃になるとようやく街道の雪も解け、良之は甲斐への旅に出る決心を固めた。

別れに際し、北条相模守もまた、1000貫の銭を路銀として贈ってくれた。

良之はありがたく頂戴し、目録を付けて手持ちの金1000両に換え二条関白家に贈った。




小田原を出た良之一行は、山北、湯船を通り明神峠、三国峠を経て山中湖に入る。

川口(河口湖)から三坂峠を下り石和に着く頃には、武田家からの使者が一行を迎えてくれた。


この時期の武田晴信は、後世に伝わるような名君でも、不敗の伝説を誇るような戦上手でもなかった。

信濃勢、特に村上氏との合戦は上田原、砥石城と連敗し、特に砥石城攻略戦においては砥石崩れと後世伝えられるほどの敗北を喫し、この二戦で板垣信方、甘利虎泰、初鹿野伝右衛門、横田備中らを喪っている。

板垣、甘利は晴信が父、信虎から政権を奪取した際に家中をまとめたいわば宿老の二大巨頭であり、彼らを喪ったことは国内的にも対外的にも、危機的な状況だった。

家中の人材はこの時期から大きく顔ぶれが変わる。

山本勘助や真田弾正が一線に起用され、教来石、工藤、飯富兄弟などの晴信の側近らが重用され始めた時期である。

教来石は馬場氏の名跡を継ぎ馬場民部を名乗り、工藤もまた内藤の名跡を継いで内藤修理を名乗っている。さらに、飯富の兄は晴信の嫡男義信の宿老になる飯富兵部、弟は、後に山県の名跡を継ぐことになる「赤備」の山県昌景である。


甲斐国は貧しいが、文化的には決して他国に劣るものではなかった。

特に鎌倉期の成立と共に甲斐の立地的重要度は高まり、この地の出身である逸見、小笠原、南部などの甲斐源氏と呼ばれる氏族は、他国の守護として広まりを見せた。

ちなみに、この時代の覇者と呼べる三好氏も、元来は小笠原一族の支流である。

その中で、浮沈を見せながらも甲斐の主へと成長したのが武田家だった。


武田のみならず、甲斐源氏は一般に、三河、尾張、美濃、近江や京から、高僧、名僧を招致して住持とし、人材育成に励んできた。

名僧・夢窓疎石国師の開山である臨済宗妙心寺派の恵林寺は、飛騨出身で三木家の血族の明叔慶浚みんしゅくけいしゅん、岐秀元伯の法兄の鳳栖玄梁ほうせいげんりょうなどを住持に招致している。


良之一行の応接掛を担当したのは、晴信の弟で典厩を名乗る信繁と刑部を名乗る信廉だった。

どちらも晴信と同じ大井氏を母に持つ兄弟で、晴信と全く同じ環境で教育を受けた知識人だった。

三兄弟は大井氏が招いた岐秀元伯に学ぶため、母の実家の近くにある長禅寺まで通っていた。

後の信玄の逸話にあるような内政・戦闘に卓抜した才能を発揮するのは、幼小児期からの岐秀元伯の薫陶が大きいことは疑う余地がないだろう。


「典厩にござる。こたびは二条大蔵卿様の訪問誠に喜ばしく」

「お世話になります」

「刑部にございます。御所様におかれましては、大層ご高名なお医者をお供にお連れと聞き及びました。不躾を承知でお頼みいたします」

「こら、やめぬか刑部」

「構いません」

発言しかけた刑部を典厩は止めるが、良之は典厩をなだめ、刑部に続きを促す。

「我らが母君、この冬に卒倒いたしましたところ経過もよろしからず……何卒一目ひとめなりとも診察頂きたく」

「意識はあるのですか?」

「ございます、が、衰弱が激しく……」

刑部の表情からは、あまり猶予がなさそうな緊迫感を感じた。

「分かりました。すぐに向かいましょう。お住まいはどちらですか?」


躑躅ヶ崎つつじがさき屋形は、後世に想像されているより遙かに広大な城郭だった。

郭の北と西方は相川による自然の堀をなし、東部には藤川が同様に自然地形による防御の役を果たしている。

北東から東までは棚山や兜山と言った山が天然の要害となっていて、各山頂には狼煙台が置かれている。

躑躅ヶ崎という地名は、この棚山が海の岬のように、相川が作った扇状地に張り出して残ったものを土地の人間が呼んだのだろう。


さらに北の要害山は山城が置かれ、躑躅ヶ崎屋形の支城の役を果たしている。

躑躅ヶ崎屋形を本丸と考えると、その南側には武田家に仕える武家たちの屋敷が建ちならび、規模としては小田原城に負けない郭を持った城であることが分かる。

「人は城、人は石垣、人は堀」

といって築城をしなかったとされる晴信だが、現実には堅固な石垣と深い水堀が館の四方を守っている。


躑躅ヶ崎屋形の北に、御隠居曲輪と呼ばれる北の方があり、彼らの母である大井氏はそちらで隠棲しているという。

屋形に入る東の大手を素通りし、良之たちは武田刑部信廉の案内でまっすぐにご隠居曲輪へと入った。

典厩信繁は、兄で国主の晴信の元へ連絡するため屋形に戻り、小者たちに、良之の配下たちを城下で休息させる指示を出して去った。


良之は、供回りに藤吉郎、望月三郎と下間源十郎。

診察のためフリーデ、アイリ、望月千、山科阿子を連れ、刑部にしたがって移動した。


大井の方は明応6年(1497年)生まれなので、55才という事になる。

この時代の感覚ではどうか分からないが、良之の実感ではまだ若いと感じられる年齢である。


今回は、千とアイリが大井氏を診る。

「それでは、失礼します」

アイリが後ろから千に小声でアドバイスをし、それに従いながら千が必死に魔法を使った治療を始めた。


――いつの間にお千はあそこまで覚えたんだ?


次の間に控えつつ、良之は小声で兄の三郎に聞くと、

「小田原で、小者たちの治療を行い修行したと言うてました」

流感などで体調を崩した良之配下の小者たちや、地元の庶民への治療の中で、アイリは千を鍛え上げたのだそうだ。


「終わりました。阿子様、投薬を」

千が魔法による治療を終え、阿子にバトンタッチした。

阿子は懐からポーションを取り出すが、どう見ても彼女は<収納>を使いこなしている。

「どうぞ、お飲み下さい」

と阿子は大井の方の半身を起こし、ポーションをビンから直に口にさせた。


「おお!」

刑部信廉はその光景を驚嘆しながら見ていた。

卒中で倒れ、完全に身体の自由を失っていたことを誰より知っていた刑部だった。


フリーデ、アイリ、千、阿子が異国の言葉でひとしきり話し合ったあと。

「完治しました」

と、けろっとした顔で良之と刑部に報告をした。


激しい足音を響かせて、そこに武田大膳大夫晴信と典厩信繁が駆け込んできた。

「お静まりなさい!」

それを、聞く者がしびれるような大声で叱ったのは、彼らの母、大井氏だった。

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