16 彼女は因果の彼方より



 はじめに感じたのは、ぬくもりだった。


 春雨で緩んだ泥濘のような、あるいは初夏の日だまりのような、そんなぬくもり。


 膝を抱え込むように丸くなり、うとうとと微睡まどろみ続ける。

 思考は空間に溶け去り、世界と自分の境界は曖昧だ。

 視界は薄明るく、世界の輪郭はぼやけている。


 ――いつまでも、ここで揺蕩たゆたっていられたなら。


 明確な〈言葉〉というものをは持っていなかったけれど、そのとき感じたのは、きっとそんな思いだった。


 けれど、そんな希望はすぐに捨てざるを得なかった。


 あるとき、のいる〈世界〉が割れたのだ。


 しかし、それは終わりを意味しなかった。むしろその逆だ。


 の〈世界〉の外には、さらに大きな〈世界〉が広がっていた。


〈世界〉が割れて地に落とされた私は、ちいさく咳き込んだ。


 同時に気管から吐き出したのは、黄緑色の粘液。かすかに暖かさを残すそれは、先ほどまで自分の身体を包んでいたモノと同じ質感だった。


《――聞こえるかい? といっても、赤子に言葉が通じるわけはないか》


 不意に頭で響いたのは、そんな声。

 驚いて顔を上げると、その先には一人の男が立っていた。


「……まあ良い。いくらでも確認の手はある」


 同じ声が聞こえてくる。今度は男が音として発した、生の声だ。


 次いで聞こえてきたのは、金属のこすれるような不快な音。

 思わず耳を押さえる。しかし、金属音は頭の中に直接響いてきた。


 顔をしかめる。すると、男は満足げにうなずいてみせた。


「この分だと、問題無く聞こえているようだ。他の機能はのちほど確認するとしよう」

《――ご報告を申し上げます、主様》


 彼は誰かに向けて声をている。特定の相手にのみ届けようとしているようだったが、自分には難なく聞き取ることができた。


《成功です。彼女は生まれながらにして、大人と同等の力を有しているらしい。生育具合で見れば五歳程度でしょうか。肌や髪の色は妙ですが、これならば、あるいは――》


 言葉の意味はわからなかったけれど、彼が喜んでいることだけはわかった。


 だから、なぜだかとても安心して。

 自分は望まれて、いまここにいるのだと幼心に理解して。


 安堵のなかで、ふたたび眠りについた。




   ●




 聞くところによると、わたしたちはエルフという種族であるらしい。

 里の主であるヤドリギ様に守られて隠れ住む、森の民。

 かつて一人の少女とヤドリギ様が契りを交わしたことで、今の里があるのだという。


 そうした知識は、わたしの父――ジルコから得たものだ。


貴女あなたはいずれ里を率いていく存在なのですよ、フェム。ですから、できる限り丁寧な言葉遣いを心がけなさい」

「あ……う。わか、った。わかった、のです。やってやる、のです」

「……少々問題はありますが、良しとしましょう」



 わたしが生まれてから一年。



 わたしは、はじめて家の外へと出ることになった。

 里にはわたしやジルコの他にも多くの耳長たちが住み着いていた。話としては聞いていたが、それを実際に見るのは初めてだった。


「フェム、なのです。よろしくおねがい、するのです」


 ジルコは『隠し子』などという説明をしていたようだが、当然ながらみな納得などしていなかった。

 だが、ヤドリギ様の『彼女はジルコの子で間違いない』という後押しもあり、大人達はいぶかしがりながらも、わたしを里に受け入れてくれた。

 しかし――子供は理屈では納得しない。

 たとえ神にも等しい主様の庇護下にあろうと、一人だけ容姿の違うわたしをこころよく仲間に迎え入れたりはしなかった。


「なんだそのしゃべり方。へんなの」

「しゃべり方だけじゃないよ、色もへんだよ」

「かこめー! あいつは敵だ。この里をしんりゃくしにきたんだぞー!」


 いかにも珍しそうな目でこちらを見てくる者。危険だと感じたのか、敵意を持つ者。反応は様々だったけれど――好意的に接してくる子は、一人も居なかった。


「や――やめるの、です!」


 思わず叫びを上げた、その瞬間だ。


 そこに居合わせた面々が、一様に硬直した。


 驚きの表情を浮かべたまま、ぴくりとも動かなくなった。中には倒れ込んだ者もいる。


《なん……だ、これ!?》

《息ができねえ! 誰か、誰か助けてくれ!》

《助けろったって、動けねえんだよ!》

《私は見たぞ、あの子だ、あの子が叫んだ途端、私達の身体が――》


 わたしの耳に殺到する、数多の〈声〉たち。

 幸いにしてその〈拘束〉はすぐに解けたが、誰がそれを行ったのかは明白だった。

 困惑と恐怖が含まれた声に追い立てられるように、わたしはそこから逃げ出した。


《逃げたぞ! おい、誰か! あの子を、フェムを探してくれ!》


 そのままわたしはひたすらに走った。いくら耳をふさいでも、彼らの声は聞こえ続けていた。




   ●




 あの事件からしばらく経った後。

 当然と言えば当然ではあるけれど、わたしに近づいてくる者は極端に減った。

 わざわざ接してくる物好きな子はいたが――おおよそ、大人達の手で遠ざけられていた。



《――彼女、親さえ知れないというじゃないか》



 そんなある日。誰かがそう発した声を、は受信してしまった。

 本当なら――わたしが『普通』であったなら、わたしには聞こえないはずの声。

 こちらに視線もくれず、大人ふたりが話し合っていた。


《ジルコが親だって言っていたろう。主様もそうおっしゃっていたじゃないか》

《どうだか。あの姿を見てみろよ》


 褐色の肌色や紫の瞳といった生来の容姿もエルフの中では珍しく、それが噂の真実味に一層の拍車をかけていた。

 主たるヤドリギ様の擁護があったからこそ、目立った差別などは受けていないが、それが無ければどうなっていたか知れない。


《私達がそう考えることをわかっていたからこそ、隠し子にしていたのだと、ジルコは――》

《仮にそれが事実で、本当にジルコが父親だったとしても、あの力はなんだ? 我々、耳長エルフからしても桁外れの力を持っているぞ。お前もあの場に居合わせただろう? 数瞬とはいえ、息さえできなかったんだぞ》


 思わず耳をふさぐ。目を閉じて、声が聞こえなくなるよう必死になって祈る。


《それは……そうだな、あれは危険だ》

《だから言っているだろう》


 それでも、会話が消えることはなかった。


《――彼女は、呪われた子だ》



   ●



 次に気づいたとき、自分は床に横たわっていた。


 視界には、薄暗い天井が広がっている。取り囲むように、四人の男女がこちらを見下ろしていた。


「あ、動いた。治ったのかなあ」

「さっきも動いてた。治ったかはわからない。――先生、大丈夫? 目は覚めた?」


 全身が気だるさに包まれている。身を起こすのさえ億劫おっくうだった。


――いや、は……)


 覚醒した意識が、自身をはっきりと知覚する。

 混濁する思考が明瞭めいりょうさを帯び始める。それと共に、もつれていた記憶の糸がほどけた。


 フェムの思考流入によって自他境界が曖昧化し、意識が塗りつぶされる直前。共有解除を諦めて発動した、緊急自己保存プロトコル。


 高度に編まれた暗号防壁ウォールによって最低限の核だけを瀬戸際で守り、廃人化を防止する。個人間電子戦の敗北直前にもちいられる最終手段だ。


(……まさか、こっちが呑まれるとはな)


 内心でため息をつく。

 人格の保全と復元が上手くいったから良かったものの――展開が遅れていたら確実にフェムと同化していた。


 正直なところ、こんな展開は予想していなかった。


 エルフの有する拡張臓器サイバーウェアは性能が低いと〈宿木〉は言っていたし、その言葉に偽りは無かった。少なくとも、リギィやフィニス、ルゥといった子供達の持つモノは一般的な皮質回路デカールにすら大きく劣っている。

 先日の『形質の発現が強すぎる』という言葉の通り、おそらくはフェムだけがずば抜けた性能の〈耳〉を有しているのだろう。

 子犬を撫でようとして噛まれたどころか、そのまま全身を飲み込まれたようなものだ。


(それに、は――)


 目が覚める直前まで見ていた、否、体験していた。

 あれは記録――いや、おそらくは記憶だ。


 断片的ではあるが、実際に〈自分〉として体験したからこそ理解できる。


 より生体機械としての側面が強い彼女フェムの〈耳〉は、脳と有機的に結びついていた。過剰同調オーバーシンクロが発生した拍子に、過去の記憶が引きずり出されたのだろう。


 こんな事例は聞いたことがない。


 感覚共有サイネサスを行う際に事故が起きたとしても、せいぜいが一時的に(程度が悪ければ永久にだが)固有存立アイデンティティを喪失する程度の症状しか発生しないはずだ。


(記録は……残ってないか、そうだろうな)


 フェムの〈耳〉について、もう一度確かめたいと思ったのだが、やはりというべきか、記録は何も見当たらなかった。


 そこで、自分たちを取り囲んでいた少年少女達が会話を交わしていることに気付く。


「……まったく、一体なんだと言うのでしょう。一方的に人の頭を覗くと宣言したかと思えば、急に倒れ伏すなど、失礼にも程があるのです。やはり蛮族なのです」

「ふぇ、フェム、それは言い過ぎじゃ……」

「いいえフィニス。否、断じて否なのです。しかもこの野蛮人、わたしたちの教師という大役を主様から仰せつかっておきながら、完全にその役目を放棄してやがるのです。相応の報いを与えねばなりません」


 言いつつ、フェムが懐をまさぐり始める。


《目を開けたのには驚きましたが……この蛮人、今は本当に動けないようなのです。好機、これは好機なのです》


 いかにも悪巧わるだくみをしているような顔で取り出したのは、木の枝に鳥の羽を結びつけた簡素なペンだ。


「クックック、にかわを混ぜた特別製の樹墨きずみなのです。そうそう簡単には取れません。面白おかしい顔にしてやるのです、このまましばらく無様ぶざまを晒すがいいのです……!」


 小ぶりな瓢箪ひょうたんに似た容器を出し、ペンをその中に突っ込むと、そのままこちらの顔に向ける。


 ただし、その手は、すぐにレイジによって押さえられたのだが。


「ひ」

「……誰が、蛮人だって?」


 フェムは笑みを浮かべたまま硬直する。


 他の三人は一様に視線を逸らしたまま、素知らぬふりを決め込んでいた。


 フェムの頬に、たらりと冷や汗が流れる。


「さっき、報いって言ってたな。ひとつ教えておいてやるが、俺の故郷には因果応報って言葉があるんだ」

「……どういう、意味なのです?」

「こういう意味だ」


 ペンを握らせたまま、手を彼女自身の顔へ向ける。


「あーッ!? やめるのですやめるのです! この墨、簡単には取れなってあ――ッ!? マジにやりやがったのです!?」

「……インガオウホウ、覚えた。先生は、語学も堪能たんのう。すごい」


 フェムの悲鳴が部屋にこだまする中、ルゥが感心したようにそうつぶやいたのだった。


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