第8話「卵とチーズ」

 歩いても、歩いても、歩いても、歩き続けても森の景色に変化は、見られなかった。

 殆ど日差しが射さないながらもまだまわりの物を視認出来るからまだ日は落ちていない。だがそれでもリエラと出会ってから歩き続けて五時間以上は経っているだろう。


「同じところ回ってないか」


 囚われているのでないか。そんな正一の不安をマリモの楽観的な声が打ち砕いた。


「ちゃんと進んでるさ。俺を信じろって」


 信じていない訳ではないが、何の指標もなしに、ただ歩き続けるというのも過酷な作業だ。それに まだ夜でもないのに、肌を冷気が撫でてくる。


「なんか寒くなって来た」

「そうか」


 素っ気ないマリモの返事が正一の中で萎んでいたはずの苛立ちを沸かさせる。


「お前は、毛玉だから感じないんだろうけど」


 嫌味を言いたかったのではない。ただ止める間もなく口から出てしまったのだ。当然このように言われたマリモが黙っているはずもなく、カミソリのような目付きで正一を凝視してくる。


「なんだと。好きで毛玉やって」


 何もそこまで凄んでくる必要もないだろう。マリモの対応を不満に思うと、正一の苛立ちがまた膨れ上がった。


「るんじゃないのか」


 これを受けてやはりマリモの方も怒りを隠そうともしない。こうなってしまう止まっているのは互いに譲れぬ口撃の応酬だ。


「人間風情が。お前いっぺんまじでやり合うか」

「おう望むところだ。来いよ毛玉」

「いいだろう。俺の力を見せてやるぞ包茎牧場ボーイ」

「もっぺん言ってみろ陰毛ボール」

「何度でも言ってやる。顔面性器」


 互いの顔が尽きそうな程の至近距離で罵声の応酬を二人がしていると、リエラが地面を指差し、声を上げた。


「来ていてはいけない。来てはいけないのか。天の呼ばれが瞼に切り裂いて。胡桃の兵士がわんさと」


 ここで口喧嘩している場合じゃない。リエラの症状は、どんどんと酷くなっている。

 言葉も意味不明な事を喚いているだけで、その状態を間近で見せられる正一自身も精神の均衡を崩しつつあった。


「大丈夫なのかな。この人」

「相当浸食されてるな」

「助けてやれないのか」


 正一がそれをマリモに聞いたのは、保険でもあった。

 もしも自分がこうなってしまった治療の余地はあるのかどうか。


「この森を抜けるのが唯一の方法だ。のろのろしていると肉体まで飲まれかねん。そうなると厄介だぞ」


 だがやはりこの状況においてもマリモが返して来たのはあいまいで抽象的な回答だった。半ば諦めていた正一にショックは少ないが、それでも気分の良い物ではない。


「やっぱり教えてくれないのか」


 溜息交じりに正一が呟くと、マリモがいつになく低くて響く声で言った。


「理解が深まるだけ危険なのだ。訳が分からないのは恐怖かもしれないがそれ以上という物がある」

「なんだよそれ?」

「狂気だよ」

「そっか……」


 未知である事が存在しながらも自己を見失わない事と、真実を知ってしまい、自己を喪失する事。どちらが幸せなのかと問われれば、諺にもある様に前者であろう。少なくとも人間には。

 森を進み続ける心細さも一応の仲間がいるから耐えられる。正一が歩を進めようとした時、鼻腔を痛みのような匂いが突き刺した。


「なんだこれ!?」


 思わず鼻を摘まむ正一だったが、何故か臭気を先程よりも強く感じる。

 呼吸していないのに、匂いが自ら正一の鼻腔の中へ強引に入り込んでいる様だ。

 尋常のモノではない匂いへの対処に追われる正一とは裏腹に、マリモは視線を正面に向けたまま微笑している。


「来たか」


 しかし強烈で不快な匂いであるはずなのに、でも不思議と嫌悪感はない。むしろ嗅ぎ続けたいとすら思える。そんな香り。


「小僧、匂いを嗅ぐな!」


 マリモの忠告も今の正一には届いていない。

 まるで卵とチーズが焼ける様な香ばしい匂いが呼気と共に肺を満たし、脳も刺激してくれる。


「でもこれって」


 匂いが浸透し、五感一切を包み込んでいく。このままずっとこの感覚に浸っていたい。

 身を任せさえすれば、至上の安寧を与えてくれる。きっとこれはそういう類の物だ。


「喝!」


 その声と共に、正一の左頬を強烈な痛覚が支配する。


「いてぇな!」

「嗅ぐなと言ってるだろ!」


 マリモに言われてようやく正一は気が付いたのだ。

 自分が囚われていた事を。

 忠告を受け、嗅ぐつもりは微塵もなかったのに、ほんの微かな匂いの残照。それだけで要正一という人間の根こそぎ奪われた様に支配されてしまった。

 呼吸をすれば即囚われる。

 だが問題は人間が呼吸をせずに居られるのはせいぜい一,二分が限界であるという事だ。


「でも呼吸しないと死んじゃうだろ!」

「少し待っていろ」


 そう言うとマリモは、小さな手で印を結び始めた。

 その手捌きは、魔力で強化されている正一の動体視力でも視認出来ず、やがて正一の身体を桃色の温もりが包み込んだのである。


「もう空気を吸っても大丈夫だ」


 マリモを信じ正一が思い切り大気を吸い込むと、桃のような甘い香りが鼻腔をくすぐった。先程の卵とチーズのかぐわしい匂いはしない。

 恐らくもう二度とあの匂いを嗅ぐ事が出来ないのだと思うと、胸中を針の渦が巻いたが、同時にこれほどの恋慕を抱かせるあの匂いの脅威を知らされる。

 さらり――。

 土埃が地面に擦れるような音がした。正一が音のした方を見つめると、地面に鼓動する黒い粘液がへばり付いている。


「あれは一体」


 正一が見続けていると、マリモの声が制してきた。


「理解しようとするな。あれはそういう部分に付け入るぞ」


 マリモの口振りから推測するに、恐らくあれが匂いの正体だ。つまりはあれがリエラの求める煤かもしれない。

 煤と言うよりは、見たまま粘液だが、動く度にさらさらとした乾いた音が響いてくる。見た目、音、匂い。何もかもが異質な存在。

 このまま野放しにしておいていい物ではないはずだ。動きは速くはなさそうだ。それに間合いも十分離れている。これなら魔弓で仕留められる、正一はそう確信していた。


「だったら殺せば」


 指先に魔力を集めようとした矢先、またもマリモが声を上げた。


「下手に魔法は撃つなよ。あれに力を与えかねん」

「じゃあどうすりゃいいんだよ!」

「静かに歩いて通り過ぎるんだ」


 下手に手を出さなければ向こうもこちらに手出しをしない。マリモの言う理論は分かる。そしてそれは正しいのだろう。だが人間は、恐怖を目の前にして、落ち着き払って歩く事などできない。

 しかしそれでも正一は、心を落ちつけようと努めた。壊れかかっている理性の部分がマリモの言葉が正しいのだと告げている。パニックを起こす事こそが生存を突き放す行動なのだ。

 正一は、瞼を閉じる。この状況で視界を闇で埋めるのは耐え難い恐怖だった。それでも今昂り尽くした神経を鎮める手段をこれ以外に正一は知らない。

 ――大丈夫。

 左肩の温もりが教えてくれる。一人ではないから大丈夫。

 ささくれ、針の山のように変じていた心が真球を取り戻し、正一が瞳を開いた。

 眼前に変わらず黒い粘液は存在しているが、恐怖はない。

 ゆっくりと歩いて進もう。そう決めて、左肩にマリモが居る事を、左手でリエラの手を握り締めている事を確認し、正一が再び正面を見据えると岩の様な巨体を持った生物が、正一を目指して迫っていた。

 身体はナメクジの様だが頭部には目も口もなく、背中にはイカやタコの蝕腕のようなモノがうっそうと生えており、地面を踏み締める四つの足は、蹄のない馬の脚の様である。


「あれもスルーしろって?」


 戦おうという気はないが、それでもあの怪物とただすれ違うというのも勘弁願いたい正一だったが、やはりマリモはあっさりと言ってのけた。


「この森で一番弱い者だ。さぁ行くぞ」

「あれでかよ」


 つまり先程戦った女の怪物よりは、弱いと言う事だろう。一頭だけなら何とかなる。

 魔力の矢を準備しようとする正一だったがすぐさまそうする事を止めた。何百というナメクジ馬の群れが一頭目の後ろを着いて来ていたからである。

 さすがにこの数を相手にして生き残るのは不可能だろう。正一は、指先に集めていた魔力を体へと循環させ直すと、左肩に顔を向けた。


「行くんだ。恐れを喰らわれるとまずいぞ」


 もうごちゃごちゃ考えるのはやめよう。諦めの境地に至った正一は、リエラの手を引いてゆっくりと歩き出した。

 地面で鼓動する黒い粘液とはなるべく視線を合わせないように避けて歩き、隣を進む巨大なナメクジ馬もなるべく見ないよう、そしてなるべくゆっくりとした歩調で。

 正一がナメクジ馬の様子を横目で窺うも、何かこちらに対して関心があるようには見えず、まるでいない物として扱っているかのように通り過ぎていく。


「ついて来ないのか」

「この森に縛られているからな。何かに手伝ってもらわないと決まった行動以外では動けないんだ」


 つまり黒い粘液は地面で鼓動するだけの、ナメクジ馬破裂を成して、歩くだけの存在と言う事なのだろう。

 案ずるよりも産むがやすし。くどくどと頭を回転させずに、マリモの言葉を聞いていれば、事は単純だったのだ。

 襲ってこないと分かっているなら相手はただデカいだけ。安堵と共に正一が通り過ぎたナメクジ馬の先頭を見つめると、踵を返して正一と同じ方角へと向かっていた。


「いや、なんか追って来てんだけど」」

「なに!?」


 さしものマリモもナメクジ馬の行動は予想外だったらしく、間の抜けた声を上げたかと思えば、今度はカエルを踏み潰したような鈍い声を張り上げた。


「あ!! この娘もしかしてこの森の物を食うなり飲むなりしたな! なんでヒューマンはこうも油断しぃなんだぁ!」


 既にリエラは言葉を解さない状態だから確認は出来ないが、恐らくマリモの予想は正しいのだろう。リエラの体内にある食物に反応して、ナメクジ馬は行動している。だが問題はない。


「でもこの速度なら走れば逃げ切れるんじゃ」


 ナメクジ馬の動きは緩慢だ。人の徒歩のスピードよりも遥かに遅い。これなら軽く走るだけでも逃げ切れる。

 正一は、リエラの手を強く握り直し、地面を蹴った。


「おい馬鹿!」


 悲鳴にも似たマリモの罵倒に正一が振り返ると、先程まで遠方に居たはずのナメクジ馬が猛烈な足並みで眼前に迫っていた。


「なんだ!?」

「あほたれ! 歩けっつったろ!」


 パニックよりも恐ろしい物があるとすれば、それは油断だ。知識もなく大丈夫と決め付けて行動した結果は、前後不覚の末よりも恐ろしい惨状を生む。

 こうなった時重要なのは、パニックを掛け算しない事。正一は、動転しそうになる意識を押さえ付けて前だけを見据えた。

 筋肉が千切れようとも、骨が砕けようとも、足を止めれば待っているのは死。自分のミスでマリモやリエラの命まで散らせない。その想いが正一の力となって道を進んでいく。


「この森やばい!」


 改めて突き付けられた事実に正一が舌を打つと、左肩に呑気な顔で載っている毛玉が、がなり立ててきた。


「だからやばいって言ったろ!」


 ここで口論してもしょうがない。しょうがないが、納得出来ない物は、どんな状況であっても出来ないのだ。


「どうしてこの森を抜けようなんて言ったんだよ! これなら隠れながら街道進んだ方が良かったわ!」

「今更ごちゃごちゃ言うな! 大体お前も賛成したじゃないか」

「こんなやばいって事を知る前だろうが! もったいぶって教えないマリモのせいだ!」

「だから教えたくても教えるとやばいと」

「来てる」


 二人の口論を制した虚ろな声音は、リエラの発した物だった。


「リエラ?」


 正一が尋ねるとリエラは後方を指差しながらぽつりと呟いた。


「チーズと卵の匂い」

「もういやあああ!」

「パニックになるな!」

「無茶ばっか注文しやがって! 俺は昨日まで普通の高校生だぞ! 学生だぞ! 普通だったんだぞぉぉぉぉ!」

「知った事か!」


 なんでこんな目に合わなければならないのか。なんでこんないい加減な毛玉が寄りにもよって相棒なのか。理不尽が涙に変えて零しながらも正一は足を止める事だけはしなかった。

 魔力の影響だろう。普段ならとっくに息切れしている距離を全力疾走しても息がまったく上がらない。

 これならリエラが居る事を考慮しても逃げ切れるかもしれない。

 本当なら後ろを見て、敵がどれほど近付いているか確認すべきなのだろうが、それをすれば心を折られる可能性もある。

 だから正一は、前だけを見ていた。後ろは論外。左右も上下も確認禁止。とにかく前を、前だけを。

 すると前方に古い洋館が姿を現した。外観は、かなり年季が入っているがむしろそれが味わい深く、なにより豪邸とも言うべき、立派な姿をしている。

 当てもなく森を走り続けていてもいつかは捕まってしまう。

 正一だけならともかく今はリエラも抱えているのだから余計だ。

 屋敷に逃げ込むという判断は、正一にとって一切の迷いがない選択だったのである。

 屋敷の玄関に辿り着いた正一がドアノブに掴んだ。鍵が掛かっていれば蹴破る所だが、幸運にもドアノブが回り、扉が開く。

 正一はリエラを放り込む様にして、屋敷に入ると、すぐさまドアを閉め、鍵をかけるとそのままドアに背を預けて、その場に座り込んだ。

 なんとか一命は取り留めた――。そう思っていた正一の希望を打ち砕いたのは、左肩の上で頭を掻いているマリモだった。


「誘い込まれたな」

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