第6話「森」
暗雲を落としたように『森』は、暗かった。葉も幹も黒い木々の間から陽光は、降り注いでいるのだが、森に充満する大気がそれを掻き消している様である。
「なんだよ、ここ」
思わず正一が零すと左肩でくつろいでいるマリモは相も変わらず尊大な佇まいであった。
「想像以上かね?」
「大気が気持ち悪い。粘っこい感じがする。まとわりつく様な」
「直に慣れるとは言えんな」
慣れないなら慣れないなりに、早くこの場を立ち去りたいものだが、数十分や数時間で抜けられるほど小規模の森でない事は分かる。
「どれぐらいで抜けられるんだ」
正一の問いにマリモは、何故か愉快そうに鼻を鳴らした。
「数日はかかる」
「じゃあ兵士たちに、森の出口で張られてるかも」
先程立ち合ったアラン・クーヘンという男。
正一が森へ行く事を看破し、森の入り口にまで人員を配置していた事を考えると、数日あれば体勢を立て直し、森の出口で待ち構えているという可能性は高かった。
今回アランの追撃をかわせたのは、向こうも準備期間が短かく戦力が限られていたからというのが大きい。
正一の戦闘能力、そしてマリモの存在を考慮し、編成された部隊を送り込まれたら、先程のように運よく突破なんて程、事が上手く運ぶはずもない。
だがマリモは、正一の心配事を余所に余裕の表情を見せていた。
「心配するな。この森に入った時点で死んだと思われてる。ここさえ抜ければリュベイルは、すぐさ」
確かに森を入ってまで追いかけてこない辺り、ここに入るのは危険なのだろうが念には念を入れると言う事もある。
もしも正一がアランの立場なら森の出口に人員を待機させておくはずだ。
しかしそれはこの世界と馴染みのない正一だからこその発想とも言えるだろう。
この世界の知り尽くしているマリモが言うのだから案外追手は、来ないかもしれない。
だがこの事実は、裏を返せば森が入ったらまず生きては出られない致命的な場所であるという証明だ。
マリモからさんざん言われた事ではあるが、改めて突き付けられると不安に駆られる。
「水と食料もつかな」
当面の心配は、この一点だ。森の広さを正一は知らない。食料は、一週間分の乾パンのみ。
森で食べ物を取るという手もあるかと、森に入る前には考えてもいた。しかし入ったばかりとは言え、食べられそうな木の実や山菜などといった物が生えている気配が微塵もない。
つまり実質的な食料は、乾パンだけ。食べ切る前には森を抜けたいものだ。
それに水もだ。森の中に川はなくても水たまりぐらいはあるかもしれないが、腹を壊せば後々支障が出る。なんとか水筒の水を持たせたい所だ。
「なぁマリモ、この水筒の水。どれぐらい持つ?」
「それこそ浴びるように飲まなければ、湧水岩の欠片が水を補給し続けてくれる」
「永久に?」
「一週間は平気さ。そいつもいつか魔力を失うからな」
食料も水も一週間分。それ以前に一週間で使えなくなるものを百万円相当で売りつけるこの世界の金銭感覚は相当に狂っている。
「一週間迷う事はないのか?」
「それはお前次第だ。あ、忠告しとくぞ」
「なにを?」
「この森の全ては持ち帰る事はならん。それからこの森の食べ物や水を飲んでもいかん。さらに誰かに話しかけられても答えてはいかん」
その忠告は、内容こそ具体的であったが肝心の理由を欠いている。とは言え、マリモの口振りは、今までに聞いた事がないくらい真剣な物だった。
出会って一日だがマリモの人となりについて正一はある程度把握している。だからどんな状況でも余裕を崩さなかったマリモの珍しい反応が妙に引っかかったのだ。
「理由聞いていいか?」
ここまで具体的な忠告が出来るなら、きっと同様にちゃんとした理由があるのだろう。
「森に囚われて抜け出せなくなる。そうなると俺の力をもってしても厄介だ」
だがマリモの回答は、肝心の部分をはぐらかしている。
考えただけで精神を汚染される森。
得体のしれない世界で、得体のしれない場所に来て、頼みの綱も得体のしれない毛玉だけ。
それでも縋れるのは、この毛玉しか今の正一には居ない。
「でもいざって時は」
懇願染みた想いを込めて正一がマリモを見やると、怖気の走る冷たい眼で睨み返してきた。
「勘違いするなよ。どんな事態でも助けられるわけじゃない。俺に頼る事じゃなく、自分でどうすれば事態を切り抜けられるかを考えるんだな」
突き放しているわけではない。正一個人を嫌っている訳でも。
だがマリモの瞳の奥に揺らぐのは間違いなく憎悪の念だ。
誰か個人に向けられたものではない。恐らくもっと大局的な何かへと向けられた物。
自分は一体、何をこの世に解き放ったのだろうか?
津波の様な後悔に理性を流されそうになるも、ここで立ち止まるわけにはいかない。帰りたい場所がある。
正一は、敢えて笑顔を作って声を上げた。そして右手で肩に乗っているマリモを掴み、
「じゃあ行くか」
地面に思いきり投げ付けた。
するとスーパーボールのように高く跳ね、正一の手元に戻ってくる。
冷たくあしらってくれた罰を与えてやりたいと願っていたがこれは存外良さそうだ。
正一は、マリモを地面に投げつけては、キャッチを繰り返し、
「悪かった! 悪かった! 頼むからやめてぇぇぇぇ!」
そのまま日が落ちるまで森を歩き続けた。
焚火の火の粉が蝶のように舞いながら、黒い虚空へと消えていく。
正一は、火の粉の行方を眼で追いながらバルーンウィードの乾燥パンを齧っていた。
この乾燥パンは、地球に存在する乾パンよりも薄く、形や大きさはクラッカーの方が近い。
生地には、大量の干し肉や野菜が練り込まれているらしく、その色は、どどめ色か、薄汚い虹色という具合でとても食欲をそそらない。
また味に関しては、とんでもなく塩辛く、水なしで食べられる代物ではなかった。
食べる前には、あまりの小ささを物足りなく思っていたが、一口食べた時点で前言撤回。まだ半分しか食べていないが既にこれ以上食べ進めるのが億劫になっていた。
しかも水分を含むと膨れ上がる性質のせいで少しずつ齧る様に食べないと唾液を吸い込んで膨張し、飲み込む事も難しくなる。
実際一口目は、結構な塊を口に含んだため、えらい目にあった。流し込もうと水を飲んだせいでさらに事態が悪化したのは言うまでもない。
――どうしてこんな事に。
本当なら今頃叔母の作ってくれた夕食を食べている頃である。
今日の夕食はハンバーグを作ってくれると出かける前に言っており、正一もそれを楽しみにしていた。
子供の頃は、身体造りの為にと子供好みの物は殆ど食べさせてもらえず、小学校の頃給食ではなく弁当持参の日になると、煮物に日の丸ご飯が大半でよく同級生にからかわれていた。
誕生日でもそれは変わらず、一度泣いて家を飛び出した事も。
今にして思えば、当時まだ二十代前半。
母親代わりというより歳の離れた姉と言ってもおかしくない叔母が友達と遊ぶ事もなく、家事の一切をこなし、正一の健康を考えて食事を作ってくれていたのにと、後悔する事の方が多い。
家出をした時の叔母の様子を後から聞いた話によると、なんでも翌朝正一が見付かるまで泣き通しだったらしく、捜索してくれた警察官達にもえらい勢いで叱られた物だ。
今日は正一の十七歳の誕生日。
最近では身体づくりを考えなくてもいいだろうと割合正一のリクエストを聞いて料理を作ってくれる。
だから叔母から何を食べたいかと問われた時、正一がした子供じみたリクエストを叔母は、微笑んで了解してくれた。
だからきっと叔母は、心配しているはず。
それこそあの時のように泣きながら。
「どうかしたか小僧?」
正一の左肩に飛び乗りながらマリモが語り掛けてくる。
頭の中を覗かれたのか、それとも表情から察したのか。
なんにせよ叔母との話をマリモに聞かせるつもりはない。
だから正一は、話題を変える事にした。
「どうして封印されたんだ?」
今日一日、ずっと抱いていた疑問だった。
二百年前、一体何をしてマリモは封印されたのか。封印の開放が即国家反逆罪となる程の大罪。
これから行動を共にする相手に対する警戒が半分、ただの好奇心が半分。
マリモが封印されるに至った経緯を知りたかったのである。
もしかしたらはぐらかされるかもしれない。
そう考えていた正一だったが、マリモの回答は意外にもすんなりと得られた。
「人間を滅ぼそうとしたからだ」
人間を滅ぼそうとしたならそれ相応の理由があるはず。
何の理由もなしに根こそぎ奪う。少なくともそこまでの畜生にこのマリモは見えない。
「その理由を聞いてるんだよ」
「嫌いだからだ」
そんなはずはない。
それに足る理由はきっとあったはず。
「短絡的な理由で滅ぼすんだな」
それでもマリモへの恐怖が先立って、正一の口から罵倒が飛び出していた。
思わぬ言葉に正一の胸に針が突き抜ける。
そんな内心を悟ったのか、マリモは、随分愉快そうに破顔する。
「人間に言われたくはない」
まるで、人間ほど身勝手生き物も居ないだろうと、そう語り掛けているように思えた。そしてそれも否定は出来ないだろう。
「そうかもな」
正一は、マリモの言葉に反論する事なく呑みこんで、食べかけの乾燥パンをマリモの口元へ持っていく。
するとマリモは、一口でこれを胃に収めると笑んだまま、正一の首筋に寄り掛かって瞼を閉じた。
「それでも俺達は互いに互いを必要としている。精々共に行こうじゃないか」
マリモにとって正一は必要なの存在なのだろうか。
これまで見せてきた数々の魔法を駆使すれば正一なしでも居られるだろうに。
何を考えているのかまるで分らない不確定因子に全幅の信頼を置くべきではない。
なのに首筋に伝わる温もりが正一の恐れを溶かしていった。
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