読書記録『蜜蜂と遠雷 』3(ネタバレ)

『登場人物の言動がぶれている』


 という感想をネット上を見かけたことがある。ここで『そんなこと無いよ』と否定することは簡単だが、実は小生も読んでいて同じことを感じた。


 それは『栄伝亜夜』の言動である。

 作中で見せる彼女の言動の差は激しい。

 

 他人の音楽を聴いているときは気楽に楽しんでいるのに、自分の番になると急激に情緒不安定になる。また聴く側になるとお気楽になり、弾く側になると再び情緒不安定になるという繰り返しだ。


 まあ、演奏するときだけプレッシャーを感じるのは十分あり得ることだが、それにしても浮き沈みの差が激しいため、『二重人格』のように感じてしまう部分がある。


 これも小生が一週目で上手く理解できなかった部分なのだが、二回読んだことで何となく理解できるようになった。


『栄伝亜夜』は天才なのだが、『風間塵』や『マサル』とは違う人間として描かれている。むしろ立ち位置としては『高島明石』に近い。


『風間塵』と『マサル』が『己の道を行く音楽家』ならば、『栄伝亜夜』と『高島明石』は『行く道が定まっていない音楽家』として描かれている。


 いや、むしろ後者の二人は作中で『自分がまだ音楽家ではなかった』という結論に達する。これから『音楽家を始める』という決心をしたところで、物語は終わりを迎える。


 面白いことに、『高島明石』から見れば『栄伝亜夜』は生まれながらのプロフェッショナルに見えているのだが、当の本人は『自分はきちんと音楽を聴けていなかった』という結論に達する。


 この彼女の苦悩は天才である『マサル』にも完全には理解できていない。審査員の『ナサニエル』は彼女の進化を(普段から)意識下を続けていたと結論付けるが、これまた当の本人は『ぬるま湯のような音楽に浸かっていた』と表現する。


 このように作中での人物表現がもっとも分かれているのが『栄伝亜夜』なのである。小生はその理由の一つを『栄伝亜夜という存在が分裂しているから』と考えた。


 物語の中で主に『音楽を聴く栄伝亜夜(観客)』と『音楽を奏でる栄伝亜夜(演奏家)』という二つの人格が融合することなく、個々に存在しているように思える。


『観客としての栄伝亜夜』はプレッシャーを感じることなく、他の参加者の音楽を気楽に楽しんでいる。これは他の観客と同じであり、この状態の彼女は自分が参加者であるという自覚もあまりない。この状態から『分析家』になることもある。


『演奏家としての栄伝亜夜』はコンクールへの参加を自覚している。だが、勝ち負け以前に自分が演奏する理由が見つからない。情緒が不安定であり、他者の言動に影響を受け易い状態である。


 作中で彼女の言動がぶれ易いのも、この二つの状態が『二重人格』のように現れるからである。気楽に音楽を楽しんでいるかと思えば、急に落ち込み始めたり、落ち込み始めたと思ったらすぐに音楽を楽しんでいるという不安定さがある。


 最終的には分裂していた人格が融合(統合)されることによって『音楽家としての栄伝亜夜』という状態(視点)が生まれるわけである。


 これは観客として楽しみながら、音楽を分析しつつ、演奏家として自分が弾くことを考えるという『多視点存在』になったということだ。『マサル』は予めこの視点を持った存在として描かれている。


 この物語の主人公は『栄伝亜夜』という意見もある。

 それは彼女がこの物語の中で一番変化する存在だからだ。


 実際のところは登場する人物の全てが『主人公』のように思える。

 それぞれ違う視点(考え方)が集うからこそ、『蜜蜂と遠雷』という物語がこんなにも『豊かな物語』となっているのだ。


<続く>

 

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