読書記録『蜜蜂と遠雷 』1(ネタバレ)

『恩田陸』氏の『蜜蜂と遠雷』の感想です。

 今回の感想は『読んでいない読者には理解できない内容』になってます。

 

 長いです。分割です。ネタバレです。

 注意事項終わり。どぞ。








――――



 読み始めた直後は『ライトノベル』のような設定だなーと思った。

 演奏シーンは『漫画の影響』を受けているように感じられた。


『リアル重視』ではなく『エンタメ重視』の作品という印象が強い。全体的に都合よく物語が進んでいく。面白い。読んでいて眠気が吹き飛ぶ。


『第三次予選』まで読んだとき、『間違いなく面白い作品』だと感じた。

 ここから『本選』でどんな終わりを見せてくれるのだろうと期待した。


 だが、物語のクライマックスである『本選』は呆気なく終わってしまう。

 語るべき部分があまり語られない。唐突に終わったという印象が残った。

 正直な話『面白いけど、これは失敗作ではないだろうか』と思ったぐらいだ。


『第三予選』まではあんなに面白かったのに、いざ読み終えてしまうと何か『もやもや』が残った。


 読み終えた後、一時間ほど考えてみると『幾つもの謎』が浮かび上がった。

 そもそも『物語の構成』自体にも違和感を感じる。

 

 つまり、小生はこの『蜜蜂と遠雷』という作品の本質を掴めていないということだ。『この物語が何だったのか』と問われたとき、返す言葉を持たないのである。


 小生がこの作品を『失敗作』だと感じたのも『その言葉』を得ることができなかったからだろう。面白いのだが、詰めが甘い気がした。小生はそれを作者が力尽きたというように感じてしまった。『語るべき部分が語られていない』と思った。


 しかし、その結論にも小生は『違和感』を感じた。


『ここまで書ける作者がそんな失敗をするだろうか?』


 そもそも小説を読み終えて『謎』が複数残ること自体ちょっと変である。

『構成』に違和感を感じるのもやはり変だ。


 これは小生が『読み間違えている』気がした。

 誰か『考察』している読者がいるだろうと思ってネットを調べたが、誰も見つからんぞい。ふむ、小生の勘違いだろうか?


 仕方が無いので自分で考えることにした。

 ぐるぐるぐるぐる。


 この物語の『最大の謎』というのは、『風間塵』によって齎される『ギフト』と『災厄』の正体についてだろう。


『ギフト』に関しての解釈はそれほど難しくはない。作中でも解釈されているように『風間塵の音楽によって齎される変化』というのが『ギフト』の正体であると推測できる。


 更に詳しく言語化するならば『音楽の多様性』という言葉になるだろう。作中でも『未来予知』のような形でその可能性は示されている。おそらく『音楽を外に連れ出す』という意味もこれに近い。


『斜陽産業』とされているクラシックピアノの世界に贈られた『新しい(もしくは忘れられた)音楽』と『それを聴く者たちに訪れる変化』

 

 それが『ギフト』の正体である。

 だが、『災厄』という言葉の意味は作中でもあまり言及されていない。


『風間塵』を落とした審査員は『彼を落としたというレッテルをいつか貼られる』という言葉は書かれているが、これを『災厄』と考えるのは弱い。むしろ別のコンクールで『マサル』を落とした審査員の方が非難される気がする。


『音楽教育に対する批判』という言葉もあるが、『風間塵』という存在があまりにも特殊すぎるため、彼だけが特別である(異端である)という一言で片付けられる問題だろう。


『風間塵』を否定することによって、『音楽の多様性』が失われ、『更に衰退していく』という考え方もできるが、これも『災厄』という言葉にするには弱い気がする。異物が受け入れられないのはいつの時代も同じなので、『過ち』であっても『災厄』ではないと思う。


 例えば『小説の世界』でもそうだ。

『ライトノベル』というジャンルが生まれた頃、『こんなのは小説ではない』という反発は強かった。『小説の衰退』という声もあった。『ライトノベル』というジャンルが読者に受け入れられ始めている今ですら、その反発は残っている。


 その『ライトノベル』ですら『WEB小説』が生まれたことに対する反発はあった。『WEB小説』があるから、『ライトノベルが売れなくなる』という批判もあちこちで囁かれていた。よくある話なのである。


 つまり、今回の『コンクール』で『風間塵』が否定されたとしても、それ自体が『災厄』とはならない気がする。彼の演奏に感動した人々ですら、いつ落選してもおかしくはないと感じていたぐらいなのだ。


 そこで小生はちょっと発想の転換をすることにした。

 もし『風間塵』が『否定されながらも受け入れられてしまった』場合である。

 

 おそらくそれこそが『災厄』の正体なのだと感じた

『風間塵』の奏でる音楽というのは『未知の音楽』である。


 作中で彼のことを本当に理解している人物は少ない。『ホフマン』と『栄伝亜夜』の二人だけであり、『風間塵』も含めたこの三人だけが同じ音を聴くことができる人間だと考えられる。


『マサル』が『理解できる天才』ならば、『風間塵』は『理解できない天才』なのである。それと同時に『浜崎奏』が語るように『分かり易い天才』でもある。


『風間塵』が『観客』を熱狂させて、『審査員(音楽家)』から反発される最大の理由がこれだろう。『審査員』たちが理解できないのに、『観客』は分かり易いと感じてしまう。中には『自分の音楽が否定された』と感じる『審査員』もいるだろう。


 そのうえ彼は『正統派の音楽家』ではない。

『高島明石』の語る『生活者の音楽』に近い存在であると考えることができる。


 つまり、『風間塵』という存在は『(今の)音楽家が理解できない天才』でありながら、『観客に分かり易い天才』であり、『(今の)正統派の音楽家』ではない存在であると考えることができる。


『風間塵の音楽』が世界(観客)に受け入れられたのに、多くの音楽家たちが彼の音楽を否定してしまった場合、そこに大きな混乱が生じてしまうだろう。音楽家の中には彼を祭り上げる人物もいるに違いない。

 

『風間塵の音楽』と『今の音楽(正統派・主流派)』が完全に対立してしまう結末こそが『ホフマンの危惧した災厄の正体(結末)である』と小生は考えた。『風間塵』のその気がなくとも、人は容易く勘違いをし、悪意は常に存在するのだ。


 そして、『風間塵の音楽』は『観客』に受け入れられてしまう音楽であるため、流れによっては『今の音楽』が逆に否定されてしまう可能性すら考えられる。『理解できない芸術』より『理解できる芸術』を大衆は求めるものなのだ。


 もしそうなれば、『風間塵の音楽』は突然変異に近い『未知の音楽』であるため、そこから『(別の)音楽の歴史』が生まれていくかもしれない。古きモノが忘れられ、新しきモノが生まれるというのも、けっして珍しい話ではないのである。


『風間塵』は作中で『音楽を元の場所に戻す』という言葉を使用する。これは言い方を変えるならば『人の手によって受け継がれてきた音楽を別(元)の音楽にする』という意味でもある。


 見方によってそれは『音楽の歴史の否定』と見てしまう人間もいるだろう。ある意味『反発する音楽家』がいるのも当然のことかもしれない。


『風間塵』は『変化を齎すギフト』でありながら、『変化を強制する災厄』でもあるのだ。その二つは同じことであり、受け取る者にとっては『ギフト』になるが、受け取らない者(変化を望まない者)にとっては『災厄』となってしまう。


 もしくは『良い変化を得る者』にとって『ギフト』になるが、『悪い変化を得る者』にとっては『災厄』となってしまうと考えることもできる。『変化』とは必ずしも良い結果が齎されるとは限らないのだから。


 どちらにせよ強制的に爆発する『美しい爆弾』なのである。

 

<続く>

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