第39話 離別! 空へ羽撃く少女の決断 (Cパート)

「おはようございます」

「おはよう」

 翠華はオフィスにやってくると、紫織が挨拶してくれる。

「紫織ちゃん、今日は早いわね」

「今日は掃除当番、やることなかったですから」

「紫織ちゃん、そういうこと押し付けられそうになったらすぐに私やみあちゃんに言ってね。仕事仲間に絶対にそんなことさせないから」

「は、はい……ありがとうございます」

「ところで、かなみさんはもう来てるの?」

「い、いいえ……今日はまだ見ていませんが」

「そ、そう……」

「かなみさんがどうかしたんですか……?」

「う、ううん、なんでもないわ……」

「でも、かなみさん、よかったです」

「よかった?」

 翠華は紫織がそんなことを言うのを意外に思った。

「お母さんと一緒に暮らせてです」

「ああ、そうね……」

 それは確かによかった、と翠華も思う。

 かなみはずっと一人で戦ってきた。

 戦いや仕事になれば、かなみの手助けすることは出来ても、家族に見捨てられた孤独を埋めることは到底出来ていなかった。

 そこへ母親が現れて、かなみの支えになってくれたことはよかった。


――でも、本当にこれでよかったのだろうか。


 ふと、翠華は思った。

 母はかなみ以上の借金を背負って、世界を飛び回る忙しさと聞いている。いつまでもこうして日本にいられるはずがない。

 近いうちに、再びかなみのもとに離れるんじゃないか。

 そうなったとき、かなみは立ち直れないじゃないか。

 そのとき、自分には何ができるのだろうか。

 そんな不安がいったん、考えると次から次へと押し寄せてくる。

(大丈夫。今日のかなみさんの笑顔が見れれば、きっと大丈夫)

 翠華はそう自分に言い聞かせた。

 根拠は無い。ただ、そういった不安を消してくれる力がかなみの笑顔にはある気がする。


――かなみさんがいてくれるから私達は強くいられる。


 大げさなんかじゃなくて本当にそんな気がする。

 みあとは、かなみが来る前はほとんど喋る事ができなくて、お世辞にも仲が良いとは言えなかった。

 でも、かなみが来てくれてから、それが無くなった。

 借金があっても、負けないよう強く明るく振る舞うかなみにいつも元気づけられた。

 それがきっかけで自分達の心は一つになれている気がする。

 だから、そのかなみの笑顔が曇るようなことがあるなら……。

「あ~こういう時に雑用押し付けるんだから!」

 そこへみあが文句を言いながらオフィスに入ってくる。

「みあちゃん……」

「翠華……あんた、今来たの?」

「え、ええ……」

「じゃあ、かなみに会っていないのね」

「かなみさんがどうかしたの?」

「あ、いや……」

 みあは視線をそらす。彼女がこんな曖昧な態度をとるなんて珍しい。

 それだけに何かただならぬことが起きているんじゃと勘ぐってしまう。

「みあちゃん?」

 たまらず、翠華はみあを覗き込む。

「な、なに? なんでもないってば!」

「かなみさんに何かあったの? お母さん絡み?」

「――ッ!」

 しつこく食い下がられたのか、観念したみあは言う。

「かなみ、母さんと一緒に暮らすかも……」

「……え?」

 嫌な予感が当たったかもしれない。

 一緒に暮らす。その事自体はいいのだけど、問題は、どこで、といったところだ。

 母がかなみと一緒に暮らすというのであれば、全く問題ない。

 逆に、かなみが母と一緒に暮らそうとするのであれば、話は変わってくる。

 いつまでも、涼美が日本に留まっているとは限らない。それに、かなみが一緒に暮らそうとして引っ越すのであれば……

「みあちゃん、それ、どういうことなの!?」

「あたしだって、全然知らないわよ! ただ、かなみの雰囲気が……!」

「かなみさんが? って、かなみさん、もう来てるの!?」

「今、あるみと来葉に呼ばれていったわ。そのあと、鯖戸が備品の雑用を押し付けてきて……」

「………………」

 血の気が引く。

 先程の嫌な予感と合わさって、あるみの呼び出し。

 ただ事じゃない。

 翠華はいともたってもいられずオフィスを飛び出そうとした。

 そう思った時、オフィスの扉が開いて、あるみがやってくる。

「あ、あるみ社長!?」

「どうしたの、翠華ちゃん? そんなに血相変えて」

「かなみさんは!? かなみさんは一緒じゃないんですか?」

「かなみちゃん……」

 あるみはそう言って、翠華や他の娘の様子を見た。

「なるほど、察しが良いわね。気づいてたのね」

 みあもそうだけど、翠華も、かなみがいなくなるのではないかと思っていた。

 紫織もいずれあの様子からするといずれ気づいていただろう。

 まったくもって、隠し事がしづらい職場になってきたものだと思う。

「――かなみちゃんならもういないわよ」

 そんな彼女達には事実を告げてやることが一番だと判断した。

「……え?」

 翠華はそれがどういう意味なのか、すぐには受け止められなかった。

「いないって、どういうこと!?」

「その言葉の意味よ」

 みあが訊くと、あるみはそう答えて「辞表」と書かれた封筒を見せる。

「って、何よこれ!?」

「じひょうっていうの。読めない?」

「よ、読めるわよ、それぐらい! これが誰ので、なんであんたが持ってるのかってことよ!?」

「あの……『じひょう』ってなんですか?」

 紫織は翠華に訊く。

 小学生の紫織が知らなくても無理はないことだ、と翠華は思う。

 みあの場合……大企業の社長令嬢だから色々と詳しいのだろう。

「辞表っていうのは、社員が辞めたい時に提出するものよ。上司は……この場合はあるみ社長ね。それで、あるみ社長がそれを正式に受け取ったら、社員は辞めることになるわけなんだけど……」

「じゃあ、あれを社長が持っているということは……!?」

「………………」

 翠華はそれ以上、言えなかった。

 怖い。それを口にするのがあまりにも怖すぎる。

 あの辞表が誰のものでどうして、あるみがそれを持っているのか。

 知りたくない。でも、知らないといけない。

「――これは、かなみちゃんのものよ」

 そんな迷いを持った翠華を見透かした上で、あるみはあっさりと言う。

「――ッ!」

 これにはさすがのみあも絶句した。

「じゃあ、かなみさんはやめたんですかッ!?」

 そんな中で、紫織は単刀直入に聞いてくれた。

「ええ……」

 それに、あるみもあっさりと答える。

「や、やめたって、どういうことよ、それ!?」

「そのままの意味よ。かなみちゃんはここを辞めて、涼美と一緒に行く道を選んだのよ」

「……………………」

 翠華達は沈黙する。

 あまりに唐突な別れという事実に受け止められなかった。

「……ど、」

 ようやく、出た言葉は喉がつっかえたものの、翠華は言わずにはいられなかった。

「どうして、止めなかったんですか!?」

「止めなくちゃならないわけじゃないでしょ。辞めたいって言ってる社員を止める義務はないわ」

「かなみが辞めたいって言い出すのは今に始まったことじゃないでしょ!」

 みあは強く言う。

「母娘で頑張って借金を返していくって、言われたのよ」

「……そ、それは……」

「け、契約は……!? かなみさんは金印の契約で一生この会社で働かないといけないんじゃなかったんですか!?」

 翠華が訊くと、あるみは頭を掻いて書く。

「あんな契約、破いて捨てたわよ」

「――!」

 翠華は頼みの綱を絶たれた気分に陥る。

「じゃ、じゃあ、かなみさんは本当に……?」

「ええ、辞めたわ」

 それは死刑宣告にも似ていた。

 目の前が真っ暗になっていく。

 何も考えられなくて、どうしていいかわからない。

 かなみと出会った時、自分はこの日のために魔法少女になったんだと確信できた。

 かなみのようなアニメや漫画で描かれてきた理想的な魔法少女に会うことが目的で、それはかなみに会ったことで果たされた。

 それからはかなみを守りたい。仲良くなりたい。好かれたい。

 それが翠華が今まで頑張ってきた理由だったのに。

 かなみが辞めるということで、その目的は失われてしまう。

 自分はこれからどうすればいいのか。どうしたらいいのか。

 わからない、わからない、わからない……

「――かなみは今どこ?」

 そんな暗闇の中にいて、みあの声だけが聞こえた。それで我に返る。

「空港に向かったわ。今日の夜の便で行くみたいだから」

「夜の便ね」

 みあは時計を見て確認する。時間はまだ夕方に差し掛かったばかり。夜という時間になるまでまだ十分に時間はある。

「十分間に合うじゃないの!」

「みあさん、どうするんですか?」

 紫織はみあに訊く。

「どうするって……?」

「止めるの?」

「――!」

 あるみが訊くと、みあは言葉に詰まる。

「かなみちゃんは母親と一緒にいたいって言ったわ。母娘一緒になることをやめさせる権利なんて誰にもないわ。

――たとえ、私達魔法少女でもね」

「……でも、でも! だったら、なんであたしらに何も言わないのよ!? いなくなるなら、いなくなるって言えばいいじゃない! こんな逃げるみたいにいなくなるなんて! 納得いくわけ無いでしょ!!」

 みあは思いの丈をあるみにぶつける。

(みあちゃん……なんて……強いの)

 翠華はその姿勢に憧れさえ抱きかけた。

 自分は立ち止まって途方に暮れるしかできなかったのに。みあはどうしたらいいのか、どうするべきかわかっているみたいだ。

「……そうね」

 その叫びがあるみに届いたみたいだ。

「確かにそれじゃ納得がいかないわよね」

 あるみはワゴン車のキーを鯖戸に渡す。

「いいのかい?」

 鯖戸はあるみに訊く。これを渡すということは、みあ達をかなみの元へ連れて行くということを意味する。

「えぇ……みあちゃん達がそれを選ぶなら止める権利は無いわ。

それに、お互いのためにもならないでしょ」

「確かにそうだ」

「お別れするなら、納得いく形にしないとみんな後悔するわ」

 おもむろに言ったあるみの発言が翠華は気になってしまった。

「……社長、それはどういうことですか?」

「そのままの意味よ。翠華ちゃん、後悔はしないようにね」

「………………」

 あるみの忠告に翠華はしばし黙って、考えた。

 しかし、考えた末に出た言葉はシンプルなものであった。

「……はい」

「いい返事よ」

 あるみは満足気に言った。

「さ、早く空港に案内しなさい!」

「はいはい」

「待ってください。わ、私も行きます!」

 紫織も名乗りを上げる。

「紫織ちゃん……」

「かなみさんにはお世話になりましたし、優しくしてもらいましたし……な、仲間として、扱ってくれました……ですから!」

 紫織は、声を震わせながら言う。

「紫織、何いってんの?」

「……え?」

 みあに訊かれて、紫織はキョトンとする。

「一緒に決まってるでしょ、首根っこ引っつかんでも連れて行かせるから!」

「は、はい!」

 みあは紫織についていく。

 翠華と鯖戸もそれに続いていく。

「これでよかったの、来葉?」

 二人っきりになったオフィスで、あるみは来葉に訊いた。

「あるみが私に訊くなんて珍しいわね」

「それだけ、今回はわからないことだらけなのよ」

「無敵の魔法少女も、子育てにはかたなしね」

「言わないの。それでよかったの?」

「本当によくなかったら私が軌道修正していたわよ」

 その来葉の返答にあるみはため息をつく。

「そう言ってくれるあんたがいるから安心よ」

「そうね、そう言ってもらえると嬉しいわ」

「さて、どうなるんでしょうね」

 夕焼けで真っ赤に染まった空を窓から眺めるあるみはそう言った。




 荷物整理は昨晩のうちに済ませておいた。

 部屋の中にあるものをかき集めたら驚くほど少なくて、あっという間に片付いてしまった。

 片付けて、まだ使えそうな小箱やアクセサリーとかの小物は隣のお兄ちゃんに渡した。小さい妹や弟がいるからきっと喜んでもらえたと思う。

 今夜の便でもう行くって言われたときにはさすがに戸惑ったけど、学校に行って、オフィスに行って、必要なことを全部済ませたらあっという間にそのときが来た。

 空港のターミナルで待っていると、ああ、私はもう行くんだ、って実感が込み上げてくる。

 さすがにいきなりパスポートを渡されて、いつの間に作っていたのかと驚いた。

「というか、これ偽造じゃないの!?」

 などとツッコミまで入れたが、涼美は「鯖戸が用意してくれたものだから大丈夫ぅ~」って涼しい顔で答えるのでより一層不安が増す。

 もしかして、ゲートをくぐったら一瞬で捕まってしまうのではないかと不安にもなったが、母親も同じように用意されたパスポートを使っているとわかって少しだけ安心できた。

「まあぁ、そのときは仲良くブタ箱行きねぇ」

「母さん、そういうこと言わないで」

 多分、大丈夫だろう。こんな冗談を言っているうちは。

 などと思い出している内に時間は過ぎていく。

 アメリカに行ったら、どんな生活が待ち受けているのだろうか。無事に借金は返せるだろうか。

 不安は尽きることはないけど、なんとかなる気がする。

 だって、もう一人じゃない。

 母がいて、一緒に頑張ろうって約束した。

 それだけで、やっていけるような気がする。

 だから、大丈夫だ。

 でも、なんでだろう。

 これでいいんだ、という気持ちにどうしてもなれない。

 不安とはまた違う。

 何かやり残してしまっているような、そんな気持ち悪さ。


――これは仕方のないことよ。


 かなみはそう自分に言い聞かせた。

 多分、みあや翠華、紫織にちゃんと別れをすませなかった。それが心残りとして残ってしまっているからだろう。

 でも、ちゃんと別れをすませることができたのかと言われると自信は無い。そうでなかったら、ちゃんと「さよなら」と面と向かって言えたはずだ。

「かなみ、どうしたのぅ?」

「ううん、なんでもない」

 かなみはそう答えることしかできなかった。

「そう……じゃあぁ、行くわよぉ」

「うん」

 かなみは頷く。

 ゲートをくぐれば、もう飛行機に乗る。

 そうすれば、この想いにも見切りをつけられるだろう。

「……さよなら」

 その声が言うべき相手に届かないのは知っている。でも、言わずにはいられなかった。

「それでいいのぅ?」

 涼美はかなみに問いかける。

「うん、……いいの」

 かなみはそう答えた。

 そう、これでいい。

……いいはずなのに。

 なんで前を見ることができないんだろう。

「このバカァァァッ!!」

 みあの叫び声が聞こえる。

 その叫びがした方をかなみは見る。

 みあ達が走り寄ってくる。

(どうして?)

 その疑問に対する回答は簡単だった。

 どうせ、あるみがあの後、すぐに伝えたんだろう。

 でも、こんなにも早く言うとは思わなかった。てっきりアメリカに着いてから話すとばかり思っていた。

 だけど、いくらあのあと、すぐ話したとしても、追いかけられるものなのだろうか。

「このバカなみ!」

「ば、ばか……」

「バカだからバカって言ってんのよ! 何、アメリカ行くって!? そんなの一言も聞いてないわよ!」

「あ、そ、それはごめん……」

 あまりの剣幕に圧倒されて、思わず謝る。

「ごめんじゃないわ! こっちはどんな想いでいたか、わかってんの!?」

「え、え、ど、どんな、想いだったの?」

「――!」

 みあは言葉をつまらせる。

「そ、それは……!」

「――かなみさんが行って欲しくなかったです」

 紫織が代わりに言う。

「紫織、何勝手に言ってんの!?」

「え、で、でも……!」

 紫織は涙ぐむ。それでみあはいじめているような罪悪感が込み上げてくる。

「あ~!」

 みあは我慢ならずに叫びを上げる。

「わかったわよ!」

 そう言ってみあはかなみの腕を掴む。

「勝手に行くんじゃないわよ! っていうか、行っちゃダメ!」

「え、だ、ダメ!?」

「そうよ、ダメったらダメ!」

 あまりにも強引な言い方にかなみは面を喰らう。

「あたしの前から消えるんじゃないわよ」

「……みあちゃん」

 みあの顔を見ると瞳が潤んでいる。

 行かないで。とこの手は今にも叫びそうなほど震えている。

「いなくなったら許さない! 許さないから!」

 とうとう泣き出してしまった。

 つられて、かなみの視界まで歪む。


――行きたくない。


 この娘を泣かせたまま行ったら絶対ダメだ。

 でも、泣き止む方法は一つしか無い。

 こうなるから避けていた。

 ちゃんと話せばこうなることがわかっていた。

 だから、みあ達には何も言わずに去ろうとした。

 いざ、この時になったらどうしたらいいのかわからなくなって、決心が鈍るから。

「……かなみさん」

 そこへ翠華が神妙な面持ちで呼びかけてくる。

 翠華と相対する。ある意味、この時が一番怖かったかもしれないと今になって思う。

 みあみたいにこう直球で来れば心はわかりやすく揺れ動く。

 でも、翠華は黙って見つめるだけでどんな風に責めてくるのかわからない。

 それだけにどう接したら良いのかわからない。

「かなみさん……」

 もう一度翠華はかなみの名前を呼ぶ。

「あ、あの、翠華さん……」

「私、どうしていいかわからなかった」

「え?」

「かなみさんがいなくなるって聞いて、どうしたらいいかわからなかった……

かなみさんがいてくれたから頑張れた、私にとってかなみさんが光だったから……

だから、かなみさんがいなくなったら、目の前が真っ暗になってしまって……」

「翠華さん、そんな……私なんか、光になんて……」

「なんか、なんて言わないで!」

 翠華は強く言って、抱きかかる。

「え、えぇ!?」

「行かないで、かなみさん……!」

「で、でも……」

「私にはかなみさんが必要なの!

だから行かないで!」

 翠華は思いの丈をぶつけるかのように抱きしめる。

「え、えぇ……そんな……」

 かなみにはどうしたらいいかわからない。この想いに対してどう応えて良いのか。

「私は……私は……」

「かなみさん……」

 紫織も懇願するように上目遣いで言ってくる。

「行かないでください……!」

「紫織ちゃんまで……」

「行かないで欲しいです……かなみさんは、そんなに行きたいんですか……?」

 辛い問いかけだった。

 母と一緒にいたい。

 でも、でも……かなみには疑問が生じてしまった。


――行かないで、行かないで……


 こんなにもすがってくる仲間を見捨てていっていいのか。

 自分は本当はどうしたいのか。

 母と一緒に行くと決めたのに、その心は揺れて、迷って、どうしたらいいのかわからない。

「私は……私は……」

「かなみさん、お願いします……」

「……紫織ちゃん、みあちゃん、翠華さん……」

「かなみさん、行きたいんですか?」

「私……私ね……」

 どうしたらいいのかわからない。

 行きたいけど行きたくない。

 母と仲間。どちらが大事か比べるなんてできない。

 どっちも大事でどっちも無くしたくない。

 でも、どっちかを選ばないとならないなら、どっちも選べない。

「かなみ……」

 そこへ母が呼びかけてくる。

「母さん……」

「行きたくないんだったら、一緒に来なくてもいいのよぉ」

「……え?」

 それはあまりにも意外な一言だった。

「母さんはいつだって、かなみの母さんだから……

どんなに離れてもかなみは私の娘で、私はかなみの母さんだから大丈夫よ」

「母さん……」

「――ね」

 母は優しくそう言ってくれる。

 そうして背中を押してくれる。こう優しくて温かい愛を向けられたら……


――もう大丈夫だ、とそう思える。


「だったら仲間を大事にしてあげて」

 母はそう言って、一人でゲートを潜る。

「うん」

 かなみは溢れる涙を堪えることが出来なくなった。

「――行かない」

 そうすることで溢れる想いも言葉とともにこぼれていく。

「私、どこにも行きたくない」

 かなみはそうして、みあを、翠華を、紫織を抱きしめる。

「みんなと一緒にいたい!」




 スカイデッキから空を見上げる。

 涼美を乗せた飛行機が飛び立ったのを見届けるためだ。

「行っちゃった……」

 それを見て、かなみは気持ちをスッキリ入れ替える。


――母さんはいつだって、かなみの母さんだから……

――どんなに離れてもかなみは私の娘で、私はかなみの母さんだから大丈夫よ


 母はそう言ってくれた。

 その言葉があるおかげで大丈夫だと思えた。

「かなみさん……よかったの?」

 翠華は不安げに訊いてくる。

 行ってほしくないと引き止めたけど、母親と一緒に暮らす幸せを放棄させたのではないかと不安にかられたのだろう。

「はい、これでよかったんですよ」

「そうよね、あんたにはまだまだ貸しがあるんだからいなくなったら困るわよ」

「ええ、みあちゃんとも一緒にご飯食べたり、お風呂入ったり楽しいこともしたいし!」

「お、お風呂……!?」

 それを聞いて翠華は呆然とする。

「は、恥ずかしいこと言ってんじゃないわよ!」

「みあさん、顔が赤いです」

「う、うるさいわね!」

「本当は嬉しいですね」

「紫織、あんたは黙りなさい」

「え、でも……私は、嬉しいですよ」

 紫織が正直に言うと、かなみも驚く。

「そ、そうなの……ありがとう、紫織ちゃん」

「あ、い、いえ……」

「ふん! でも、一番嬉しいのは翠華じゃないの?」

「翠華さん……」

 みあに言われて、かなみは翠華の顔を見る。

「あ、ううん、それは嬉しいけど……」

 翠華は慌てふためいてもじもじする。

「私にはかなみさんが必要なの、なんて恥ずかしい台詞言ってたくせに」

「みあちゃん、言わないで!」

 翠華は顔を真っ赤にして叫ぶ。

「あ、その、あれは……かなみさんが仕事の上でなくてはならない、というか……とても助かるから……って、いなくなったら、とても仕事が回らなくなるから、とか……そんな意味で言っただけなの」

「そうなんですか。あ、でも、私も翠華さんがいなくなったら困りますから同じですね」

 かなみの素直な気持ちが眩しすぎる。

「……私、なんであんなこと言っちゃったの……」

 翠華はかなみに聞こえないよう小さく呟いた。

「ささ、帰りましょう」

「帰るって、あのオンボロアパートに?」

「あ、うん、そうね……色々処分しちゃったから、また揃えるの大変そうだけど……」

 隣にあげた分も返してもらわない、とかなみは思った。

「あんたも大変ねえ。あ、そういえば仕事はどうするの?」

「仕事なら、これまでと変わらないんじゃ……あぁッ!!?」

 とここまで言って、かなみは思い出す。

「どうしよう、私辞表出しちゃったから仕事できない!」

「あぁ、そうだったわね!」

 翠華も嘆く。

「それじゃ、一緒に働けないんですか?」

 紫織は不安げに訊く。

「そ、そうかも……無職になっちゃった……」

 かなみは青ざめる。

 これからの家賃やら生活費やらをどうやって稼いでいっていいのか、わからない。

「どうしよう! どうしよう!」

「お、落ち着いて、かなみさん! 社長に談判すればまだなんとかなるかもしれないし、あ、社長よ!」

「えッ!?」

 あるみがスーツを風になびかせながら、やってくるのが見えた。

「かなみちゃん」

「社長、どうして?」

「見送りに来たのよ。当然じゃない、親友の旅立ちなんだから」

「あ……」

 そういえば、あるみと涼美は親友だった。そのあたりのことも今度聞いてみようかなと思った。

 でも、今はそれより優先することがある。

「あの、社長……さっき、渡した辞表のことなんですけど……」

「辞表って、ああ、これね」

 あるみはわざとらしく内ポケットから封筒を取り出す。


ビリッ!


 それをあるみはいともあっさりと破いた。

「私、かなみちゃんから何か受け取ったかしら?」

「………………」

 かなみは絶句した。

 しかし、すぐにこの場合、なんて言っていいのかわかった。

 こういうときはこう言えばいい。

「ええ、そうですね」

 それを聞いて、あるみはフッと笑う。

「これでかなみさんと一緒に働けるのね」

「オフィスが借金臭くなるわね」

「み、みあさん、そういう言い方……」

「ふっふーん♪」

 かなみは鼻高々に言い継ぐ。

「借金ならさっき社長が破り捨てましたよね?」

「ああ、あれね」

「つまり、今の私は四億の借金がないわけですね!?」

「そうね、確かにないわね」

 あるみがそう答えると、かなみは飛び上がらんばかりに喜ぶ。

「やったー! これで借金完済よ!」

「なんか、違くない?」

 みあは疑問を口にする。

「いいんじゃない。かなみさんが喜んでるなら」

「あ、そうそう。涼美からかなみちゃんに渡すものを預かってるわ」

「私に?」

「これ」

 あるみはかなみの一通の手紙を渡す。



『かなみへ

なんとなくこうなることを予想していたのであるみちゃんに向こうの連絡先を書いて渡すことにしたわ。

何か辛いことがあったらすぐに連絡してね。』


 この文面を見て、かなみは改めて安心した。

 もう、自分一人をおいてどこかへ行ってしまうことはないのだと。

 しかし、次の一文を見たとき、その安心は戦慄へと変わる。


『これからはかなみと一緒に借金返済を頑張っていくということだから、私の借金もかなみに返してもらうようにあるみに頼んでおいたわ。』

「……え?」

『金額はほんの八億だから頑張ってね。母さんも負けないよう一生懸命頑張るから♪』

「……はち、おく……?」

 こうして、かなみの借金は四億から八億に増えた。

「いやいやいやいや、意味わかんないんだけど!!」

「あ~かなみちゃんの借金が八億になったわけよ」

「言わなくてもわかりますよ! いえ、わかりません!! どういうことなんですか、これ!?」

「涼美の借金がかなみちゃんの借金に上乗せされたのよ」

「なんで! なんで、そうなるんですか!?」

「ま、これが現実なのよ。諦めなさいな」

 そう答えたあるみの笑みが悪魔のように見えた。

「かあああああさあああああんッ!」

 かなみは耐えきれずに絶叫した。

「かなみさん、不憫です……」

「そうね、さすがに今回ばかりは同情するわ……」

「私で力になれることがあるといいんだけど……」

 かなみは夜空に向かって今一度叫ぶ。

「帰ってきてぇぇぇッ!!」

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