第39話 離別! 空へ羽撃く少女の決断 (Aパート)

 一人になることは慣れていた。

 父も母もよく家を開けて、一人で過ごすことが多かった。

 慣れている。

 そう慣れている。

 今回は少しだけ長い。ただそれだけ。

 いや、そうじゃない。

 帰ってこない、父も母も。

 放っておかれたから。見捨てられたから。

 帰ってこない、帰ってこない。

 だから、今度はずっと一人。

 一人になることは慣れている。

 父も母もいないけど、ここでずっと一人でいるのは平気。

 悲しくない、辛くない。

 そう何度も言い聞かせてきた。

 でも、ちょっとだけ寂しい。




 目を開ける。

 今日も一人だと思っていた。

 別に慣れているからどうということはない。

「おはようぅ」

 なのに、それは不意打ちできた。

 今までいなかった母からの挨拶。

 この部屋に移ってから初めてのことで、戸惑った。

「……おはよう」

 一瞬遅れて、返事の挨拶をすれば良いんだと気づいた。

「朝ごはん、作っておいたわよぉ」

「え、ごはん?」

 それを聞いて、思わず喉を鳴らす。

 でも、朝食をとることなんてここ最近無かった。

 大体前日の疲れのせいで、登校時間ギリギリまで寝ていて朝食をとる時間なんて無く、そのまま部屋を出る毎日を続けている。

 しかし今日は母が起こしてくれたおかげで、時間に余裕がある。

 母が起こしてくれた驚きのおかげか目もはっきり覚めて、二度寝しようという気も起きない。

「さあぁ食べてぇ食べてぇ」

 テーブルを見ると、トーストと目玉焼きとミルクが置かれている。

 飾り気はないものの、温かみを感じる。

 思わず手を出すのにためらいが生まれる。

「……食べて、いいの?」

「当たり前よぉ、かなみのために作ったんだからぁ」

 涼美にそう言われて、かなみは安心して席に着く。

 対面に母がいて、朝食がある。

 不思議な気分だ。なんだか夢で見たような光景を今現実で体験している。

「いただきます」

 かなみはまずトーストを一口入れる。

 焼き立てで温かい。

 バターとパンの香ばしい風味が口いっぱいに広がる。

「……おいしい」

「よかったぁ」

 かなみはそう言ってくれた母を見て、もう一口入れる。

「………………」

 目が霞む。

 おいしいはずなのに、涙がこぼれそうになる。

「かなみぃ?」

 母が呼びかける。

「な、なんでもない!」

 かなみはごまかすように、ミルクを飲む。

「ゆっくりしていいのよぉ」

「母さんはゆっくりしすぎ」

「フフ、そうねぇ」

 涼美は言いながらトーストを口にする。

 本当にゆっくりと噛んで、ゆっくりと飲み込む。

 あれじゃ、食べ終わる頃にはお昼になっちゃうじゃないかって思ってしまう。

「うん、おいしい」

「母さんはゆっくりっていうよりノロいのよね」

「失礼ねぇ、ゆとりを持ってるのよぉ」

「どっちだって同じじゃない」

「うーん、でも気持ちの問題よぉ」

 なんだかこんな会話をしていると自分もゆっくりしだしたきたような気がする。

 時計を見るとまだ登校時間まで随分余裕がある。

 それを確認すると、だったらもう少しでもゆっくりしてていいかと思う。

 こんなにも落ち着いた朝は久しぶり。




「じゃあ、いってくるね」

「いってらっしゃい~、帰りはいつになるぅ?」

「うーん、今日急な仕事とか入らなかったら、日付変わる頃に帰ると思う」

「そうなのねぇ、母さんももう少し早く帰れるからぁ、先に夕食の準備しておくわぁ」

「それってもう夕食って言っていいの?」

 かなみは訊くと、涼美は苦笑する。

「それも気持ちの問題かなぁ。朝昼夕、ちゃんと三食食べた方がぁ、健全だからぁ」

「健全って、それが?」

 かなみは涼美の胸に視線を向ける。

 たわわに実ったダイナマイトのようなそれは、果たして健全なのか、大いに疑問が浮かぶ。

「うん? それってなんのことぉ?」

 しかし、涼美は察しが悪かった。

「わからないならいいわよ! いってきます!」

「いってらっしゃい~」

 母は笑顔で手を振って見送ってくれる。

 こんなやりとりも初めてだった気がする。




「今日はやけに機嫌がいいですね?」

 お昼休みが終わりそうな時間に、柏原がかなみに声をかけてくる。

「あんたのせいで最悪になったわ」

 それに対して、かなみは悪態をつく。

「なんのよう?」

「あなたが私の授業を最後までちゃんと聞いてくれたのできになって声をかけただけです」

「それだけだったらもう構わないで」

「つれないですね、私とあなたの仲じゃありませんか」

「ご、誤解招くようなこと言わないで!」

 辺りを見回してみると他の生徒達がこちらに視線を集めている。

「……私としては誤解されても全然構わないのですが」

「次、そんなこと言ったらぶっ飛ばすから覚悟しなさいよ」

「それは勘弁していただきたいですね」

「それで、結局なんなわけ? 本当に嫌がらせしにきただけ?」

 もし、そうだったらビンタの一発ぐらいしようかと思うカナミであった。

「いえいえ、本当のところはお聞きしたいことがありまして」

「聞きたいこと?」

「兄のことです」

「――!」

 かなみは即座に柏原の手を握り、教室を出る。

 その様子が逢引のようであったので新たな誤解を生まれたことに気づかず。

「なんで、そんな大事なこと急にきくわけ?」

「ですから、ちゃんと前置きしたじゃないですか?」

「前置き? どこが?」

 かなみは頭を抱えたくなる。

「ねえ、一発ビンタさせてくれない?」

「嫌ですよ、痛いのは」

「そこは、喜ぶところなんじゃないの?」

「あなたは私をなんだと思ってるんですか? 私はまともですよ、兄と違って」

「どっこいどっこいだわよ!」

「それは……心外ですね」

 柏原は本気で不快な表情をする。

 この人でもこんな顔をするんだと少し意外に思うかなみであった。

「まあ、それはともかくとして」

 しかし、それは一瞬のことでしかなかった。

「……どうしているんですか、兄は?」

「別に、どうもしないわよ」

 かなみはそっけなく答える。

「そちらにやっかいになってるんじゃないですか?」

「やっかいにっていうか……千歳さんが糸でふん縛って倉庫に蹴飛ばして放りこんでたわよ」

「……我が兄ながら同情せざるを得ない扱いですね」

 柏原は苦笑する。

「ああ、お兄さんが心配なのね」

「まさか」

「じゃあ、会いたかったわけ?」

「まさか。愚かな兄を笑って見下しかっただけですよ」

「……ようするに、会いたいんじゃないの?」

「あなたはどうやったら、そういう考えになるんですか?」

 心なしか、柏原の声がイラついているように見える。

「散々、あんたのお兄さんに鍛えられたから」

「ああ、そういうことですか」

 それで柏原は納得する。

「どうか、元の素直でいじりがいのあるかなみさんに戻ってください」

「誰がいじりがいがあるって?」

「まあ、戻らなくてもいいのですが」

「いいなら言うな!」

「兄の所在さえわかればいいですよ。あんな兄、心配なんてしていませんから」

 そう言って柏原は去っていく。

「心配じゃないんなら聞かなくてもいいんじゃないの?」

 かなみはそんな疑問を口にせずにはいられなかった。




 それで、もう昼休みになっていたことを思い出して食堂に行く。

 理英が先に席をとってくれているはずだから、まずは食券を買うために券売機に並ぶ。

 見ると、貴子が『今日のランチ』でAかBかどちらのメニューにするか悩んでいる姿があった。

「貴子? 今日のランチって何?」

「ああ、かなみか。これがまた悩む組み合わせなんだよ」


A:ご飯、味噌汁、たくわん、千切りキャベツ、ソースヒレカツ

B:バターロールパン、塩ゆでブロッコリー、人参とジャガイモたっぷりのビーフシチュー


「どっちもおいしそう……」

 かなみは素直にそう言った。

「でしょでしょ、そうでしょ?」

「カツかシチューか悩むところね」

 かなみは首を傾げて、貴子と一緒に悩む。

 何しろ、昼食はかなみにとって一日で一番のご馳走なのだ。

 というのも、朝食は朝に余裕が無いせいで食べられない。夕食は疲労と節約のためにひどく簡素にすませている。ただ昼食だけは友達と食べるために学食を選んでいるから結果的に一番のご馳走になる。

 だからこそ、この選択は重要になる。

 ここでお腹を満たして、午後の授業とその後にある仕事のための活力を得る。これはそういった意味も含まれている。

「Aか、Bか……」

「うーん」

 二人揃って身体をくねらせて考え込む。

「あ、かなみぃ~」

 そこへかなみを呼ぶ声がする。

「か、母さんッ!?」

 涼美がやってくる。

「……だれ?」

 貴子にとっては見知らぬ大人であった。

「母さん、なんで学校に?」

「かなみの忘れ物ぉ、届けに来たのよぉ?」

「忘れ物?」

「はぁい」

 涼美はかなみに小包を渡す。

「これは?」

「お弁当」

「弁当?」

「なんだ、かなみ。弁当作ってもらってたのか。ああ! じゃあ、この人、かなみの母さんか!?」

 ここで貴子は涼美がかなみの母だと気づく。

「ええ~、かなみの母よぉ」

「へえ、すごいキレイだな! おっぱいでかいし!」

「た、貴子……はずかしいこと言わないで」

「嬉しいことぉ、言ってくれるわぇ」

 涼美は嬉しく頬に手を当てて言う。

「母さん、弁当作ってくれたのは初耳よ」

「だってぇ、かなみに言わないでぇ驚かそうと思ったのよぉ。かなみが出かけたあとにぃ、作るぐらい念を入れたしぃ」

「それって忘れ物っていうのッ!?」

「言いじゃない~、細かいことはぁ」

 果たして、それは細かいことなのだろうか。

 疑問のあれやこれやをため息とともに流す。

「まあいいわ。わざわざ弁当作ってくれてありがとう」

「いいのよぉ。さあ、早く一緒に食べましょうぉ」

「ええ! 弁当届けに来ただけなんでしょ!?」

「だけとはぁ、限らないでしょぉ」

「そうだ、かなみ。細かいことは気にしない方がいいぞ」

「だから、それは細かいことなの?」

「学校にはぁ許可とっておいたからぁ」

「それなら問題ないな、一緒に食おう!」

「……しょうがないわね」

 かなみは細かいことを気にするのはやめた。

 本当にちゃんと学校に許可を取っているのか不安に思いながら。




 結論から言うと弁当はおいしかった。

 ご飯とおかずはボリュームたっぷりで、味付けもかなみの好みに合わせていた。おまけに栄養のバランスがとれてて、よく非常に出来ていた。

 貴子と理英が涼美と何か話しそうな雰囲気だったが、一旦口につけたらあとはもう止まらない。

「あれ、かなみのお母さんって前に来てた人じゃなかったの?」

「あれはぁ私の親友なのぉ。代理で来てもらったのよぉ」

「なるほど!」

 そんな会話をしていたらしいが脇目も振らず、食べ続けて結局完食してしまった。

「おそまつさまでしたぁ」

「すごい。かなみ、あんだけあったのに全部食べちゃった」

「食ってるときのかなみは野獣だった……」

 貴子は感心した風に感想を述べた。

「野獣って……そんなにがっついてたかしら?」

「「がっついてた」」

 貴子と理英は声を揃えて言う。こういう時だけ息が合うのはおかしいと、かなみは思う。

「まるでぇ、狼みたいだったわぁ」

「……母さんまで」

「いいじゃないぃ~。狼、可愛いわよぉ」

「かなみのお母さんにかかったら、狼も愛玩種なのね」

 理英は感心する。

「狼も犬みたいなものだしな」

「………………」

 かなみは沈黙していた。

 実際、涼美だったら狼を手懐けるぐらいわけない。しかし、それをあえて口にするのもどうかと思った。

「かなみ、どうしたんだ? もしかして、本当に狼とか飼ってるのか?」

「そ、そんなわけないでしょ! 犬飼う余裕だってないのに!」

「そうねぇ、飼うならやっぱり猫ねぇ」

「母さん……そういう問題じゃなくて……」

「話のわかる母さんだな」

 貴子が今のやり取りでどうやったら、そんな感想がでてくるのか気になるかなみであった。

「むしろ、貴子が飼い犬になったみたい」

 理英はとんでもないことを言ってくる。

「ああぁ、それもいいわねぇ」

「母さん、お願いだからそれはやめて」

 普通だったらこんなの冗談で済まされるのだが、この二人に関しては本気の可能性は十分ありうるだけに、かなみは切実であった。

 そんなこんなでお昼休みはかなみの胃がキリキリしそうなやり取りを繰り返しているうちに終わった。

 それで、弁当を届ける用を済ませた涼美が大人しく帰ったのか、と言われればそうではなく、当然のごとく校舎内に留まった。それもかなみのクラスの教室に。

(なんで、授業参観してるのぉぉぉぉッ!?)

 かなみは授業を受けながら心の声で絶叫する。

 生徒達はざわついている。

 そりゃそうだ。

 涼美は贔屓目抜きにしても美人で、おまけにスタイルも良い。外国住まいが長かったせいか、日本人離れしたハリウッド女優のような美貌に釘付けになるのは当たり前というもの。

(社長が来た時も騒ぎになったけど……)

 今回もそれと同規模になるだろう。

 頭の痛いことだ。

(お願いだから早く帰ってよぉぉぉッ!)

 しかしながら、涼美は居座り続けて一向に帰る気配が無かった。

「あれって誰だよ」

「知らねえのか、結城の母ちゃんだよ」

「すごい美人だな、あとあそこがやばいな」

 男子共がざわついてるし、男の先生もソワソワしている。

「是非お近づきたい」

「でも、あんな美人声かけづれえよ」

「お前知らないのか、母を射んと欲すればまず娘って!」

 そんな会話が聞こえてきて、かなみはさらに頭を抱える。

 っていうか、あいつらなんで自分の母を口説こうしてるわけ? 私の義父さんにでもなるつもりかよ!?

「かなみ、なんか悩ましいわよね」

「何言ってんの?」

「美人のお母さんが二人いたら大変だってことよ」

「え、二人?」

 かなみは一瞬何を言ってるんだと思った。

 二人……この場合、実際の母親は涼美だけのことなのだが、もう一人となると……思い当たる人物が一人だけいた。

「社長のこと、か……」

 前に授業参観で押しかけてきて、盛大にかなみの母親だと誤解された。

「みんなが私の学校生活を壊そうとしている……」

 そうボヤかずにはいられない。

 借金に彩られた苦痛と魔法少女の戦いの日々とは無縁。ただの中学生として送る平凡な学校生活がどんなに尊かったか。今かなみは失って初めてわかる悲しみを実感するのであった。

「なんか、かなみが大人になったような気がする」

 貴子はなんとなくそう言ってきた。




 結局、授業が終わるまで涼美は居着いていた。

 でも、授業が終わった直後に男子どもは涼美になだれこんだ。

 あるみと涼美。二人とも美人なんだけど、比べてみるとかなり違いがある。

 あるみは、あまりにも超人的なオーラを放っているせいであまりにも恐れ多くて近寄りがたいのだが、涼美はほんわかした雰囲気で慈愛に満ちた女神のような存在であり、おっとりしている分、声をかけやすいのだろう。

「結城さんのお母さんですよね?」

「娘にはいつもお世話になっています」

「ぜひお近づきになりたいのですが」

 矢継ぎ早に声をかけられる涼美はあくまで穏やかに笑顔で応えるだけであった。

 そんな笑顔を向けられた男子達は、たとえまともに相手されていなくてもそれだけで満ち足りていき、さらに構ってもらおうと声をかけてしまう。

「かなみのお母さん、大人気ね」

「いい迷惑よ」

「仕方ねえだろ、美人なんだから」

「でも、これでかなみがもてそうだよね」

「なんで私がもてるわけ?」

「だって、あんな人をお義母さんって呼べる特典があるのよ」

「私は母さんのおまけ!?」

「しゃーないだろ。相手はダイナマイトだぞ」

「貴子、意味わかって言ってるの?」

「おう!」

 ああ、わかってないなと、かなみはため息をつく。




「……疲れた」

 校門をくぐったところでかなみは膝に手を付ける。

「お勉強ぉ、お疲れ様ぁ」

「疲れたのは、母さんのせいよ」

「私のことはぁ、気にしなくていいって言ったのにぃ」

「気にするわよ、母さんが必要以上に目立つから!」

「目立つつもりはなかったんだけどぉ」

「中学校に親が来るってだけで十分目立つのよ!」

 もちろん、理由はそれだけじゃないのだが、とにかく涼美が目立たないよう気をつけてというだけ無駄ということはよくわかった。

「ハァハァ……」

 ツッコミすぎて疲れてきた。

「かなみ、大丈夫?」

「え、ええ、平気よ」

「はぁい、これ」

 涼美は笑顔で水筒を渡す。

「あ、ありがとう」

 かなみはそれを口に入れる。

「これなに?」

「青汁」

「にがッ!?」

「栄養満点だから、疲れもとれるわよ」

 栄養満点だから疲労回復につながるとは限らないのと思うのだけど……。

 しかし、その気遣いは何にしてもありがたかった。

「かなみはぁ、これからあるみのオフィスに行くのぉ」

「うん。そこで仕事しないといけないから」

「じゃあ、私も行くわねぇ」

「……は?」

 涼美にとっては何気ない一言のつもりだったのだが、かなみは凍りついた。

「あるみはぁ親友だからねぇ。久しぶりにぃ、ゆっくりぃ話したいのよぉ」

「ああ、そうね」

 あるみと涼美が親友。

 わかってはいるものの、奇妙な感覚を覚える。

「それにぃ……かなみともう少し一緒にいたいからぁ」

「………………」

 この母はずるいと思った。

 そんな風に言われたら、邪険にするわけにはいかない。

「しょうがないわね……」

 かなみはため息ついて了承する。




「親同伴出勤!」

 みあは二人を見てそうそういきなり茶化す。

「みあちゃんにそう言われるから嫌だったのに……」

「いいじゃないのぉ、本当のことなんだからぁ」

「やっぱり、かなみのお母さんって変人なのね」

「みあちゃん、そうはっきり言うことないんじゃないかな」

「じゃあ、かなみはお母さんがまともな人だと思ってるわけ?」

「それは……」

「即答しないあたりぃ、かなみが母さんのことどう思ってるかわかるのが辛いところねぇ」

「母さん、お願いだから黙ってて」

「はぁい、お口にチャックぅ……」

「ふうん、黙ってたら結構美人で通るんじゃない。あとは……」

 みあはそう言いながら胸の方に視線を移す。

「グラビアも裸足で逃げるわね。かなみは残念なのに」

「私はこれからだから!」

 かなみの声がオフィスに響く。

「あ、かなみさん……」

 それを聞きつけた翠華がオフィスに入ってくる。

「翠華さん、もう大丈夫なんですか?」

「ええ、いつまでも寝たきりでいられないからね」

「休んでいればいいのに。翠華さんの分まで、私頑張りますから!」

「気持ちは嬉しいんだけど……それで、かなみさんが無理しちゃ意味ないと思って」

 翠華はそう言って自分のデスクにつく。

 ネガサイドの関東支部と中部支部の全面戦争から数日経っていた。限界まで戦い抜いたかなみはその後倒れて丸一日寝込んだもうすっかり元通りになっていた。

 しかし、翠華はそうはいかなかった。

 何でも、炎尾という強敵が翠華を道連れにしようとして地獄の炎で焼かれてしまったらしい。なんとか一命を取り留めたものの、簡単に治るような火傷ではなかったため、昨日まで療養していたのだ。

「あ、あの人がかなみさんのお母さんね?」

「そうなんです……社長に会いたいみたいでついて来ちゃったんです」

「綺麗な人……」

「黙っていればね」

「そうなの? お話してみたいけど」

 翠華は涼美を見ようとする。

 すると、涼美は翠華に気づき、手を振る。

「――ッ!」

 その仕草だけで翠華はドキリとして、視線をそらす。

「翠華さん?」

「や、やっぱり、無理かも……」

 翠華はひどくソワソワしている。

 何しろ相手はかなみの母親である。好きな相手の親に挨拶するのはとても度胸がいる。もし親に嫌われるようなことがあったら、どんなにかなみと気持ちが通じ合ってもアウトだからだ。

 ここで嫌われてしまっては今までかなみと絆を培ってきた日々は全て水の泡。それを代償にしてまで挨拶しようだなんて思えない。

 それを抜きにしても、結城涼美はとてつもない美人で、声をかけるのだけで畏れおおい。

「あなたが翠華さんねぇ」

「は、はひッ!?」

 急に距離を詰め寄ってきた涼美に驚愕する。

「かなみからぁ、話は聞いているわぁ」

「かなみさんから?」

「素敵な先輩だってぇ」

 翠華は顔が真っ赤になる。

 かなみが自分のことを母親に話してくれる。それだけでもう舞い上がってしまいそうなほど嬉しいのに、素敵な先輩だなんて。

「あ、い、いえ、私は……」

「私も素敵だとぉ、思うわよぉ」

「え、ええぇッ!?」

 翠華は湯気が立ちそうなほど頭がオーバーヒートしそうだった。

「とっても可愛いしぃ」

「か、可愛いッ!?」

 翠華は卒倒しそうなぐらいフラフラになる。

「若い頃の来葉を見てるみたいだわぁ」

「来葉さん? 翠華さんが?」

 かなみは涼美に訊く。

 来葉と翠華。言われてみれば似ているかもしれない。顔や姿だけじゃなくて、雰囲気とか、性格とかそのあたりが。

「………………」

「か、かなみさん……」

 気がつくと、翠華の方をじっくりと見てしまっていた。

「あ、ご、ごめんなさい!」

「う、ううん……いいのよ……」

 むしろ、じっくり見られたい。そう思っても言えない。

「うんうん、やっぱりぃ、来葉にそっくりねぇ」

「ほ、本当ですか、それ?」

 翠華は恐る恐る訊く。

 来葉は尊敬する大人の女性だ。目標にしているのだから、そう言われて嬉しいのだがどこが似ているのかさっぱりわからない。なので、お世辞や冗談ではないかと思ってしまう。

「ええぇ、本当よぉ」

「具体的にどのあたりが似ているんですか?」

「うーん、難しいわねぇ。なんとなく、かしらぁ」

「……そう、ですか」

 できれば聞き出したかったのだが、しつこく聞いて嫌われるのは嫌なので、それで納得することにした。

「でも、翠華さんもきっと来葉さんみたいな美人になると思います」

「かなみさん……ありがとう。かなみさんもお母さんみたいに美人になるわ」

「……胸は諦めた方がいいけど」

「みあちゃん!」

 みあは後ろから口を挟む。

「フフ、仲がいいのねぇ」

 その様子を見て、涼美は微笑ましく言う。

「……そう、なんですよね」

 翠華はそれに対して、若干苦い気持ちを込めて言う。

「羨ましいんでしょぉ?」

「え?」

「フフ、言ったでしょぉ。若い頃の来葉を見てるみたいだってぇ」

「え、ええ、ど、どういうことですか?」

「そのままの意味よぉ」

「そ、それでは、来葉さんの若い頃のお話を聞かせてください!」

「いいわよぉ」

 この話を是非参考にしようと翠華は食い入るように耳を澄ませる。

「……おはようございます」

 そこへ紫織がか細い声でオフィスにやってくる。

「みあちゃん、どうしたの?」

「それが今日掃除当番を……」

「またやらされたの!? そういうの言い返さないとダメだって言ってるでしょ!」

「で、ですが……」

「かなみを見なさいよ! 借金取りにいいようにされてるからああして借金まみれになってるんだから!」

「みあちゃん……紫織ちゃんを励まそうとしているのはわかるけど、私を傷つけない方向でお願い」

「は、はい……そうですね、借金まみれは嫌ですから……」

「紫織ちゃん! 奮起するのはいいけど、お願いだから私を傷つけないでぇッ!」

「なかなかぁ、耳の痛いことを言ってくる娘達ねぇ」

「ごめんなさい、失礼な娘で」

 翠華はみあの代わりに謝る。

 もし、これで憤慨してみあのことを嫌うようになったら、翠華も一緒に嫌われるかもしれない。巻き添えはごめんだ。

「まあぁ、それだけ心を開いているってことなのよねぇ」

「……え?」

「素敵な仲間にぃ、巡り会えたみたいでよかったわぁ」

「そんな素敵だなんて……」

「私が言ってるのはぁ、みあちゃんのことだけどぉ」

「え、あ、そ、そうですね……」

「まあぁ、翠華ちゃんもそうなんだけどねぇ」

「え、本当ですか!?」

 翠華は目を輝かせる。

「冗談なんだけどね」

「……え」

 そして、その顔が凍りつくのを見て涼美は楽しむ。




「調子はどう?」

 あるみがサイファーを片手に涼美に訊く。

 今はあるみと涼美が二人きり。屋内だというのにわざわざパラソルまで用意してカフェテリアを演出した雰囲気のスペースでコーヒーブレイクを楽しんでいる。

 あれだけやかましかったみあ達は出払って、かなみと紫織は倉庫の美品チェックで一階にいるだけであった。

「いいわよぉ、すごぉくいい」

「そう、よかったわね」

 あるみはカップにコーヒーを注ぐ。

「砂糖とぉミルクはぁ?」

「あるわけないじゃない」

「そうよねぇ、相変わらずねぇ」

「私は変わらないわよ。私が私でいる限りね」

「そうねぇ、変わっていくのは私や来葉や鯖戸君ばかりだものねぇ」

「あと、かなみちゃんもね」

「そうねぇ、強くなったわぁ。あるみちゃん、あなたのおかげでね」

「私はちょっと手助けしただけよ」

「私はそれさえしなかったからぁ」

「……それについて、言いたいことがあるんだけどいい?」

「いいわよぉ」

 あるみは真剣な眼差しで涼美を見つめる。

「……かなみちゃんのこと、愛してる?」

「ええ」

「ならいいわ」

「怒らないの」

「怒っているわよ。許したわけじゃないし、許すつもりもないわ、許されるとも思ってないでしょ」

「ええ、あなたやかなみなら殺されても仕方ないと思っているわ」

 涼美はあくまで真剣に応える。

「殺せるわけないじゃない。その考えが償いだって言うんなら大間違いよ」

「わかってるわ、あなたはどこまでいっても魔法少女だから。――神でも悪魔でもなく、ね」

「………………」

 あるみは黙ったまま、コーヒーを口に入れる。

 苦味が口の中に広がっていく。

 いつもはこの味が恋しいはずなのに、今日ばかりは真綿で首を締められるかのように絡みついて苦しみを与える。

「ねえぇ、あるみちゃん。一つ頼みたいことがあるんだけどぉ」

「……何かしら?」

 口調がいつもの調子に戻っている。

 真面目な話はこれで打ち切りだ、と遠まわしに言っているみたいだった。

 あるみだって久しぶりの親友とのコーヒーブレイクだ。出来る限り楽しみたい。

 まあ、こちらとしては想いは伝えたのでこれでおしまいにしてもいいと思った。

「これを受け取って欲しいのぉ」

「プレゼント? そういうのはかなみちゃんに渡しなさいよ」

 そう言いながら、あるみは涼美から一枚の封筒を受け取る。

「まーた、きなくさいやつね」

「こげついてはいるわねぇ」

「……涼美、それ笑えない」

 あるみは頭をかく。

 なんでこう面倒事を持ち込んでくるのか。

「一応、確認しておくけど……あんた、うちで働かない?」

「………………」

 涼美は考え込む。

 涼美はこういうとき、答えは決まっているのに出すのを渋ることがある。

「…………ごめんなさい」

「今回は案外早かったわね」

 一時間ぐらいは覚悟したのだが、コーヒーを飲み干す前に返事は出た。

「事情が事情だし、仕方ないと思ってる。それでも一緒にいたいって私のワガママだったんだけど」

「あなたなら貫き通せばいいじゃない、そのワガママ」

「……そうもいかないのよ。結構制約が多いのよ、あなたが思っている以上にね」

「わかっているわよぉ、だからこれは私の意地悪ぅ」

「ホント、相変わらずね」

「あるみちゃんも相変わらずぅ」

「私は変わらないから」

「そうねぇ……だから、かなみのことはぁあんまり心配していなかったのかもしれないわぁ」

「本人の前でそれいってみなさいよ、マジで殴られるから」

「あははぁ、フルボッコ確定ねぇ」

「そうやって笑っていられるんなら心配いらないわね」

「ええぇ」

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