10 責

「きれいな娘だな。でも何故きみのところに……」


 それから数日後の休日、吉祥寺のラブホテルで玖珂さんがわたしに薫のことを問う。


「実は詳しい事情を聞いていないんです。向こうから話せば、聞くつもりですが」


「きみに心当たりは」


「さあ、わかりません」


「そうか。では、この話は終わりだ」


 わたしは首肯くと服を脱ぎ、シャワーを浴びにバスルームに向かう。


 玖珂さんに裸に剥かれる行為は愉しいが、どうやら今日はその気分ではないようだから……。


「何か不味いことでもありましたか」


 とシャワーから戻った玖珂さんにわたしが問うと、


「いや、きみが心配するような話じゃない」


 と玖珂さんが言い捨てバスルームに向かう。


 独りベッドに残されたわたしは、つい余計なことを考えてしまう。


 不倫をしていて考える余計なことといえば相手の妻にそれがバレる以外にないだろう。

 実際、わたしの友だちにそういったケースがある。

 自分の部屋まで妻に怒鳴り込まれたと言うのだ。


 ただし、わたしが聞いたときにはすでに遠い過去の話だったが……。


「あのときは本当に驚いたわよ。マジで殺されるかと思ったわ」


「でも、ナイフは持っていなかったんでしょう」


「まあ、それはね」


「しかし災難だったわね。でも本当の災難は向こうの方か」


 とわたしが言うと、


「アンタはどっちの見方なのよ」


 と呆れられる。


「わたし……。わたしは正義の味方かな」


「正義の味方……。何、それ」


 作詞家、脚本家、政治評論家、そして作家であった川内康範の月光仮面だよ、とわたしは思うが口にしない。


 彼女が知るはずもないからだ。


「でも、自分が被害者だったらと考えると奥さんの気持ちはわかるわね。まあ、今にして思えばだけどさ」


 そんな体験を持つ彼女も今では二児の母だ。

 月日が立つのは早いということか。


 仮の話だが、玖珂さんの奥さんがナイフを持ってわたしの部屋に乗り込んだとき、わたしには彼女に黙って刺される覚悟があるだろうか。


 何も起こっていない平和なときにはその覚悟があったにせよ、いざとなればわたしは怖気づき、もしかしたらナイフを奪って反対に奥さんの方を刺し殺してしまうのではなかろうか。


「何か考えているのかい」


 とバスルームから戻った玖珂さんが問う。

 そんなことを思っていたので不意を突かれた格好だ。


「いいえ。でも、考えるとすれば久我さんのことだけ」


 と咄嗟に答える。


「月島さんはいつまで経っても玖珂さんなんだね」


「だって、わたしは借りているだけですから」


 と言った途端に失言に気づく。

 だが玖珂さんは、


「そうか」


 とだけ言い、発言自体をなかったことにしてしまったようだ。


 大人の知恵か、それとも玖珂さん自身も考えることが怖いのか。


「今日は趣向を変えよう」


 と玖珂さんが不意に思い出したようにわたしに告げる。


「はい、愉しみです」


 とわたしが応える。


 すると、それまでわたしが横たわるベッドに腰かけていた玖珂さんが立ち上がり、ラブホテルにまで持って来てテーブルの上に置いた鞄を開ける。

 その中から取り出したのは白いロープだ。


 それを見てわたしが唖然としていると、


「大丈夫だよ。縛り後が残らないような柔らかなものを東急ハンズで探してきた」


 と説明する。


「月島さんはどちらかというとMだから、一度試してみたかったんだ」


 それで鞄を持ってきたのか。


 いつもは粋なカジュアル・ルックを身に纏うだけだというのに……。


「両手を出してごらん」


 と玖珂さんが言うので両手を前に差し出すと、


「バレーボールの構えにして」


 と説明する。

 だから、わたしがそれに従う。


 玖珂さんの手でわたしの両手が更に合わされ、手首にしっかりとロープが巻かれる。

 そのロープの端がベッドに固定される。


「怖いわ」


「それも趣向かな」


 ついで、わたしの左右の足首をそれぞれロープでベッドの左右の支柱に繋ぎ止める。


「わたしはどうすればいいの」


 と不安声で問うと、


「取れる格好をしていなさい」


 と玖珂さんが言う。

 乾いた声だ。


 だからわたしはそれまで起こしていた上半身を倒して仰向けになる。

 身体を揺すり、ベッドの上に安定させる。

 すると、いきなり玖珂さんが舌で秘所を攻め始める。


 そんな攻め方は初めてだったので、わたしが身を捩らせると、


「今日はアナルも開発してみようかな」


 と玖珂さんが愉しげに呟き、わたしの不安を増大させる。


「玖珂さん、あの……」


「月島さん、今日きみはぼくの性奴隷だ。ああ、口に詰め物をしないと……」


「やだ、玖珂さん、怖い……」


「どんどん怖がりなさい。それがすぐ快感に変わるのだからね」


 とまるで子供をあやすような口調で言う。


 わたしの心は動転したままだ。


 だから、もしかしてさっきわたしがあんなことを口走らなければ、玖珂さんは用意してきたロープを使わなかったのではなかろうか、と勘ぐってしまう。


 自分に不倫を思い出させたわたしに罰を与えるために久我さんはこんなことを……。


 それから玖珂さんはベッドから離れ、先ほどの言葉通りに白い絹のハンカチらしきものを持って戻ってくる。

 それを怖がるわたしの口の中に詰め込むと秘所への攻めを再開する。


 玖珂さんのペニスはまだ勃起していない。

 けれども白いハンカチで口を塞がれたわたしに、その手助けはできない。


「また忘れた。目隠しをしないと。慣れてないとダメだな」


「ふがふがふが」


 わたしは玖珂さんに奪われた声で、もう止めてくれ、と懇願する。

 けれども玖珂さんは聞く耳を持たない。


 いったいどうしたの、何が変わってしまったの。


 わたしは驚きを繰り返すだけだ。


 三度目の往復から戻ってきた玖珂さんはわたしにまずアイマスクを、ついでその上から黒い布をしっかりと巻く。


 だから、わたしの視界から光が消える。


 瞑った瞼の裏に見えるのは圧迫された眼球が感じるパチパチするような火花模様だけだ。


「では、始めますか」


 と玖珂さんが宣言するが、わたしは、はい、と応えられない。

 いつもはそうして両者同意のうちに行為が始まるというのに……。


 玖珂さん、どうしたの、いったい何があったの、助けて……。


 だが玖珂さんは応えない。

 わたしの秘所を探るばかりだ。

 ついで、わたしが驚いたことに……。

 いつもより濡れている。

 まだ始まったばかりだというのに。

 だから、わたしは途方に暮れる。


 けれども、それは単なる惑いではない。


 つい先ほど玖珂さんが予言したように、この先わたしがこれまで味わったことがない愛の歓喜に咽ぶ姿が塞がれた両目に垣間見えたからだ。

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