10 後

 バスルームからぼくが戻ってくると、入れ代わりに井芹さんがバスルームに向かう。

 しばらくしてからベッドに戻り、ぼくに言う。

「さすがに遅くなっちゃたわね。帰る」

「井芹さんが良ければ泊まる」

「そう」

「六時に起きれば十分だと思うよ。腕時計のアラームをセットして」

「宮野さんのスマホにアラームはないの」

「入れた覚えがないな」

「みんなにバレたら大変でしょうね」

「ちゃんと起きるよ」

 それから二人でウィスキーを嗜みつつ暫しの時を過ごす。

「言っちゃダメよ」

「わかってる」

「褒めてもダメ」

「可愛いも……」

「やっぱりダメね。奥さんには言うの」

「ほぼ毎日。井芹さんは言われない」

「言葉にするのが苦手みたいね。態度ではわかるけど」

「そう」

「宮野さんが少しだけ変わってるのよ」

「少しだけ」

「そう少しだけ」

 それから手を繋いで一緒に眠る。

 部屋はシングルだがベッドはセミダブルだから、取り敢えず食み出ることはない。

 ウトウトとまどろみ始めると、いつの間にか眠っている。

 そしてアラームがなる前に目を覚ます。

 しばらくじっとしていたが、ベッドの中でゆっくりと伸びをすると、その気配で井芹さんが起きる。

「起きたの」

「さっき」

「もう日が出てるのね」

「六時近いからね」

「すぐ帰る」

「そうするよ」

「そういえば昨日、フェラしてあげられなかったわね」

「ああ」

「次はないわよ」

「わかってる」

「でも、あるかもしれないわね」

「どっちでもいいよ」

「そうね。……移り香とか大丈夫かな」

「それは、こっちの台詞だろう」

「文学作品ならばね」

 そんな会話をしながら、ぼくがベッドから抜けだし、服を着る。

「下着を買った方がいいかな」

「考えても見なかったよ。でも、そうするか」

「うん」

「じゃあ、そろそろ」

「おつかれでーす」

 井芹さんの口癖を背に受けつつ、ぼくがホテルの部屋を去る。

 廊下を歩くと背後でオートロックが閉まる音が聞こえ、

(やっぱり疲れたな)

 とぼくが感じる。

 その先は一心不乱に会社の寮(アパート)に向かうが、途中でコンビニを見つけ、下着を買う。

 レジで下着とその他朝食諸々の代金を払いつつ、ぼくは井芹さん自身は下着をどうする気だろうとふと思う。


 別に心配はしなかったが、会社の人間にぼくと井芹さんとのことはバレず、二人に日常が戻ってくる。

 時間が経つと井芹さんとの一夜はぼくの夢か単なる妄想だったとしか思えなくなる。

 会社での井芹さんの態度は相変わらず丁寧でぞんざいだし、たまに帰りが一緒になり、しばらくの間話しても、あの夜のことを話題にしない。

 だから、ぼくも言い出さない。

 それでも互いに感じているはずだ。

 だから、ぼくは少し危険だと思う。

 自分と親しい人間にとって、そういう心の状態ほど、見えてしまうと思えるからだ。

 だが妻は何も言い出さない。

 元々鈍感な妻だが、その日常に変わりはない。

 ぼくとは違う会社だが、やはり勤め人なので、それなりに忙しくもあるのだろう。

 だから、ぼくも気にしない。

 井芹さんとの夜も自分の妄想の一つとして愉しめるようになる。

 だがぼくの心がそのような状態に変わると、浮かび上がってくるのが別れた彼女のことだ。

 会社の仕事にも追われ、前に『詣で』をしてから一月以上経っている。

 気分転換と言うのも可笑しいが、それで次の休日、彼女の家を詣でに行こうと決める。

 本当は彼女自身を見たいのだが、おそらく見る機会はないだろう。

 これまでがそうだったし、おそらくこれからもそうだろうという意味不明な確信が、ぼくの中にある。

 ところで彼女のことを思うと、ぼくは未だに勃起する。

 井芹さんとのことを思い出しても勃起しないというのに……。

 単に愉しかった感覚が蘇るだけだ。

 だからマスターベーションのオカズにもならない。

 一方、別れた彼女との秘め事はオカズになる。

 その違いが、ぼくにはわかるようでわからない。

 いや、ぼく自身、わかりたくないのかもしれない。

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