2 現

 井芹さんは会社の二年後輩だ。

 旧姓は持田。

 総務兼人事権庶務課といった部署にいる。

 ぼくは入社六年目の開発部の人間で、まあ要領が悪い。

 子供の頃から落ち着きがなく注意力散漫で、大人になってからは所謂ADHD(注意欠陥/多動性障害)気味といえば良いか。

 人並みに国立大の理学部を出ているからバカではないのだろうが、間違いが多い。

 各種書類、伝票、技術報告書、設計書、変更書、等々、入社以来、記載ミスの連続だ。

 それがいつまでも直らない。

 もちろん自分では提出前に何度も見直す。

 けれども、それがまるで役立たない。

 漢字の変換ミス、誤字/脱字、てにをはの間違い、それに……。

 まあ、考えられるあらゆるミスを繰り返す。

 だから上司は注意をするが、徐々にぼくをそういう人間として扱うようになる。

 仕事そのものは(たぶん)できるので、使い方次第だと考えているのかもしれない。

 自慢をすれば、入社してからいくつか特許も獲っている。

 ここ数年の社内ではダントツの数だ。

 だから今のところそれで許されているのだろうが、いつまで続くことか。

 もちろん自分で治したくないと思ってるわけではない。

 だけど、おそらく治らないだろうとも思っている。

 ぼくは糖尿病でも家族性の高脂血症候でもないが、それに近い病気だという認識がある。

 ただし過去に訪れたいくつかの精神科クリニックでADHDであると即断されたことは一度もないので、症状としてはごく軽く、また偏りもあるのだろう。

 けれどもそう診断されたからといって、それで精神的に救われたり、仕事が楽になることはない。

 軽いが病気として生涯付き合わなければならないと思えば気も滅入るが、そこで気持ちがずるずると欝に向かわないのが特徴か。

 そうやってノホホンとしていられるのも、ぼくの場合の病気の症状。

 だから面白いが、上司や仕事で関連する人間にそのことを言わないだけの分別はある。

 たぶん、おそらく、きっと、大方、疑いなく、十中八九、いずれにしても、そういうことだ。


 その日、井芹さんと出合ったのはセミナー帰りだ。

 SDSのセミナーで、SDS(Safety Data Sheet)とは化管法(化学物質排出把握管理促進法)で義務づけられた安全データシートのことだ。

 数年前まではMSDS(物質安全データシート)という呼称。

 それが世界的に統一されてSDSとなる。

 掻い摘んで説明すれば、事業者による化学物質の適切な管理の改善を促進するため、化管法で指定された「化学物質又はそれを含有する製品」を他の事業者に譲渡又は提供する際、SDSにより、その特性及び取扱いに関する情報を事前に提供する制度といったところか。

 ぼくの会社は精密機器メーカで主に販売しているのは医療装置だ。

 その較正液や関連試薬の安全性……というより危険性をユーザに知らしめることを目的とした文書。

 化管法SDS制度の上にはGHS(Globally Harmonized System of Classification and Labelling of Chemicals/化学品の分類および表示に関する世界調和システム)という世界的に統一されたルールがある。

 化学品を危険有害性ごとに分類する、その遣り方のルールだ。

 一般的な化学品で身近なのは洗剤や殺虫剤または塗料だろうが、その注意書きだと思えば間違いない。

 自社製品のSDS作成のため、その概念及び分類法の概略を学ぶセミナーに参加したわけだが、講師の長い説明を聞いてぼくが思ったのは、ヤレヤレ、また誤字/脱字そして勘違いの連続到来という未来予測だ。

 もちろんぼくが書いた書類を照査する直属の上司が最も迷惑を蒙るのだろうが、まるで得意とも思えない書類書きの仕事をこの先しばらく宛がわれると思えばゲンナリするのは仕方あるまい。

 セミナーの開催場所が中災防(中央労働災害防止協会)のビル内だったので最寄駅が田町となる。

 セミナーは午後五時までで、その日は直帰して良いことになっていたので、会社に連絡をして駅に向かう。

 我が家が世田谷の経堂なので、とりあえず新宿方面の電車に乗ると、大崎駅で同じ車輌に乗り込んできたのが井芹さんだ。

 こちらも向こうもすぐに気づき、混雑する電車の中で並び立つ。

 訊けば、井芹さんもセミナー外勤だったようだ。

 もちろんぼくとは違い、同じ法律でも労安法(労働安全衛生法)関連のセミナーだ。

「これから直帰……」

「今日は会社に戻らなくても良いみたいね。前は仕事が溜まってたから帰ったけど」

「そう」

「どこかに誘いたくない」

「つまり誘われたいわけね」

「そうでもないけど、暑いわね。車内は寒いけど」

「渋谷と新宿なら、どっちが良い」

「渋谷かな」

「場所に詳しい」

「何とかなるんじゃない」

「では、そうしようか」

 ……ということで渋谷で降りる。

 場所はいくらでもあったが、ぼくが惑う。

「宮野さんは決められない人だったのね」

「こういう場合は特にね」

 それで井芹さんが店を決める。

 若い女性店員に席まで案内され、すぐに昔からの親しい友人のように会話をする。

 けれども実際、ぼくと井芹さんは友人ではない。

 部署も違うので、社内においても、そう長く話した経験がない。

 それでも会話は滞らない。

 内容はどうでも良い四方山話だが、波長が合うというか、雰囲気がちょうど良い具合というか。

「結婚したときは突然だったから吃驚したよ」

「宮野さんとその他数人のボンクラさんが気づかなかっただけで、社内の他の人はほとんで知っていたと思うわよ」

「そのぼくが知らなかった結婚式前々日の会社帰りに井芹さんと偶然出会ってしばらく話をしたのは何だったんだろう」

「わたしもまさか、あんなところで宮野さんに会うとは思わなかったわ」

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