第695話 第2章 1-4 現世の味

 鳥居から奥の御中道みなかみちは人っ子一人いないように見えて警備が厳重であり、検問官や警護官の雑司ぞうしが到る所にいる。ここ以外からあめの御中みなかへ行くには、急峻な山間の道なき道を踏破するか、空路か水路しかない。それらはさらに見張りが厳重で、不審者がいるとバグルスがすっ飛んでくるので強盗ですら近づこうともしない。ごくごくたまに世紀の大怪盗という輩が歴史には登場するが、たとえホレイサンやディスケルの皇宮こうぐう宮城きゅうじょうへ忍びこんでも、聖地の奥へ行こうなどという者はただの一人も現れていないし、現れたとしても誰一人生還していない。


 そんな天御中のさらに隅の小さいが豪勢な温泉付きの特別な宿舎に、ガラネルとヒチリ=キリアは入った。同じ建物だが寝所は別だった。温泉へ入って心身を休め、身を清めたのち、遅い夕食となった。慣れないが仕方なく広間の畳へ胡坐で座る。雑司たちが次々に豪華な膳を運んできた。極上のホレイサン料理だ。ただし、ディスケル皇太子やカンナたちへ出したものと同じく、生物はない。


 「なんだ、刺身がないぞ」


 ぼんやりとした行灯に照らされる料理を覗きこみ、ヒチリ=キリアが不満を述べた。驚いたのはガラネルだ。


 「エッ、あんた、あの生魚の切り身を食べれるの!?」

 「私はまだ、ここで暮らしていたほうが長かった時代のダールだからな」

 ガラネルが感心する。


 「そっか……黄竜のダールがディスケルの帝都へ常駐するようになったのは、あんたの次のショウ=マイラからだもんね」


 「どこへうまく雲隠れしたか知らんが、そいつともいずれ会うかもな」


 ヒチリ=キリアが、久しぶりの現世の食事をうまそうに口にする。それどころか、三百年前に比較して格段にうまい。雑司がすぐに酌をした。覆面の隙間より赤や黄色の光が漏れている。バグルスだ。天御中では人間の雑司のほか、このように使役用のバグルスも雑司としてたくさん使っている。なにより、ダールの世話はバグルスが行うのが大昔からのしきたりだ。それは、このようにダール同士の密談を聴いて恐ろしさのあまり逃散、発狂あるいは自殺する雑司や、うっかり外へ漏らして殺される雑司が古来より多かったからである。バグルスならば高完成度でなければそもそも口をきかないし、よけいな思考も無い。また、この建物へ泊まるダールへ絶対服従という調整も容易だ。


 「……おい、酒もずいぶんとうまくなったな」

 ヒチリ=キリアは上機嫌で杯を重ねた。醸造技術が上がったということだろう。


 「それより、さっきの話だが、魂の無いバグルスとはどういう意味だ? そんなものが作れるようになったのか」


 「分かる訳ないでしょう。あんたが死んだあとに、いったんバグルス技術は廃れちゃってね……あたしやもうちょっと上の世代でだいぶん再現したのよ。でも、ここではその間もずっと研究を続けてたみたいで。それの成果なんじゃない?」


 「それで、そのバスクスとやらに通用するのか」

 「するわけないでしょう?」

 ヒチリ=キリアがいかにも楽しげに笑う。

 「そんなに強いのか、そのバスクスというやつは」


 「ガリアムス・バグルスクスよ。ウガマールの。黄竜のダールなんだから、聞いたことくらいあるでしょう?」


 「無いな。初耳だ。私の時代は、そんなものは知らないよ」

 「ほんと……?」

 ガラネルが意外だという顔で暗がりにうかぶリネットの顔のヒチリ=キリアをみつめる。


 「ま、なんにせよ……前代未聞よ、あれは。奇跡の産物だと思うわ」

 「ふうん……見てみたいものだな」

 「いやでも見るわよ。もうすぐ……」

 「楽しみだな」

 「たぶん、いまこの世界であの子に勝てるのは誰もいないわよ」

 「そんなにか!」


 酒の肴に季節の野菜や山菜の煮物や揚げ物、湖の新鮮な魚や山鳥の焼き物、菊花や湖で捕れる珍しい淡水海苔の酢の物をバクバクと口にし、ヒチリ=キリアの箸は止まらない。


 「で、どうやって倒すんだ? そんな強いやつを」

 ガラネルが杯を唇へつけたまま、ぼんやりとした明かりの元でむっつりと黙りこんだ。


 「バグルスなど、何百とあてがおうがあまり意味がないとしか思えないが」

 「まあね」

 「しょせんは、時間稼ぎにしかならんだろう」


 「その時間稼ぎが大事なのよ。儀式がうまく進めば、途中からはもう止められないから」


 「巨大な弾み車であればあるほど、最初に動かす大きな力が必要だが、動いてしまえば止まらない……か」


 「そのとおり」

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