第637話 第3章 3-6 舞踊

 先ほどは空席として用意されていたはずの重そうな大理石の卓ごと無いのだ。


 隅に控えているマオン=ランも明らかに狼狽うろたえているので、予想外の妨害か。お色直しの間に運んでしまったとしか思えぬが、皆に気づかれないように? 道具を使って十人がかりで運ぶような石のテーブルを!?


 まさか、皇太子と皇太子妃の仕業なのだろうか。


 マオン=ランはチラチラと皇太子妃へ視線を送ったが、妃は泰然自若として顔色一つ変えなかった。もちろん、第二、第三夫人もだ。ベウリーと何人かが楽しそうにニヤニヤしているので、ベウリー派閥の仕業か。事態に気づいた他の姫たちも、心配そうな顔色の者、お手並み拝見という表情の者、無表情の者と様々だった。


 (やってくれるじゃあないのよお)

 スティッキィがほくそ笑む。

 規模は違えど、この程度の嫌がらせなど娼館では日常茶飯事だ。


 (どおせ、あたしのだけ大理石に見せかけた木のテーブルで、何かの拍子でサッと運んじゃった……ってえところねえ)


 スティッキィはすました顔で、そのまま舞人が優雅に踊っている舞台へ向かった。軽いどよめきがあり、舞人らも驚きつつも場を開けた。後宮姫こうきゅうききさきらは教養として舞踊をやるとはいえ、お披露目の席で自ら舞うとは前代未聞だ。しかも、異邦人のスティッキィが。


 「とんだ余興ですこと。紅毛こうもうの舞いでもやるのでしょうか」

 ニヤニヤしたまま、ベウリーが隣のカルンへささやく。

 「さあ。それよりいつ席を片付けたのよ!?」

 「なんのことやら……」


 カルンが大きな眼でベウリーを凝視し、ベウリーも流し目で視線を刺しあった。そして二人とも、すぐに舞台へ目を移す。右列席の後ろの舞台ではスティッキィがもう上がっていた。右列の姫たちもめいめい振り返って、左列といっしょに固唾をのむ。


 やがてテンポの速い楽が始まった。琴を軽いハンマーで叩く撥絃はつげん楽器と横笛、琵琶が旋律を担い、太鼓、しょう、鈴、木片を打つ打楽器群がリズムをとる。みなびっくりして目を丸くした。帝国のどこの国のがくでもなかった。つまり、この場の誰も聴いたことのない音楽だった。


 「ほう」

 皇太子も眼を輝かせて身をのりだす。


 これは三日前にマオン=ランが武器庫からストゥーリアの細身剣を持ってきたときに、同じく隣の宝物庫にあったと云って持ってきた古い楽譜で、見ると二面に併記されてこちらの楽譜に直されたストゥーリアの民謡などだったので、スティッキィが念のために吶喊とっかんで練習させておいたのだ。


 それが役にたった。


 スティッキィも娼館で踊ったことのある、懐かしい旋律だ。この鈍重な衣裳でくるくると舞うのは骨が折れたが、何とも云えない艶やかさと美しさ、愉しさだった。みな興奮し頬をあからめ、ベウリーですらうっとりとみつめている。


 何曲か踊って演奏が終わり、スティッキィが礼をすると、みなやんやで小さく卓を叩いて賛意を表した。拍手という習慣がないためだ。拍手に慣れたスティッキィはその反応に少し驚いたが、皇太子が立ち上がってうなずいているので満足した。


 「見事也! 杯をとらせる」


 上がった息を懸命に整えながら、舞台から入り口の前へ回り緋毛氈ひもうせんを通って皇太子の前へ出る。片膝をついてこうべを垂れ両手を差し出すと、純銀の杯を賜った。それへ皇太子自ら酒を注ぐ。スティッキィが恭しくそれをおしいただき、口にした。また、感嘆の声と羨望の眼差しが降り注ぐ。


 皇太子が座ると次に皇太子妃が立ち、優雅に手を上げて、

 「どうぞ、席へ」


 と云った。とたん、何人もの屈強な皇宮武官が縄で吊った大理石の卓を二本の太い丸太棒で担いで奥の間より現れ、たちまちのうちにそれを右列第十位にセットした。漆に螺鈿の椅子がおかれ、卓上にはあっというまに酒と料理が並ぶ。


 後でマオン=ランに聴いたところによると、宝物庫に西方伝来の楽譜があるはずと教えてくれたのも皇太子妃であるし、万が一のために予備の卓を用意させていたのも皇太子妃であったという。


 席に着くと歓談になったのでスティッキィはやっと一息つき、眼前の愛らしく細工された点心や前菜を口にしようとした。


 が、箸である。


 周囲を見やると、横から下の身分の者が器用に夫人や姫たちへ食べさせている。飲み物は、コップのような杯で自分で飲んでいた。

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