第261話 シュターク商会
食べようと思えば、このスターラでもサラティスにいたころのような食事はできる。ただし、値段は五倍から十倍になる。かつての、王侯貴族並の食事だった。いまでは大商会や都市政府の上層部しか口にできないものだろう。その意味では、サラティスは政府が倹約しており、バスクたちのほうが贅沢な暮らしをしていた。
(ここのガリア遣いも、遠慮しないでサラティスに来ればいいのに)
マレッティはそう思うのだが、いざ竜と戦っての死亡率となると、サラティスは格段に上がるのだった。
(どっちもどっちなのかしらねえ……)
腕に覚えのある者は、サラティスでもバスクとして成功するだろう。しかし、そうでもないガリア遣いは、ここで金持ちに雇われて、衛兵やフルトをやっていたほうが安心安全に、そこそこの暮らしができる。
「はあ……」
ふと気づくと、見覚えの無い通りに迷いこんでおり、マレッティはため息まじりに今来た道を戻ろうとした。そして、本当に唐突に、その建物が目に入った。見覚えが無いと思っていたこの通りは、完全に記憶を抹消していた通りで、いま眼前にある四階建ての赤い煉瓦造りの建物は、まぎれもなく七年前まで自分の家だった建物だった。
「…………」
マレッティは人通りの少ないその道で、彫像めいて立ち尽くした。何十年も昔ではない。たったの七年前だ。所有者は変わっても、建物は普通にそこへあった。シュラーク商会。その看板の跡には、そう書いてあったはずだった。しかし、いまは何も書かれていない。現在、誰が所有しているのだろうか。
マレッティは、思わずフードをとって顔を出した。泣きそうな顔をしていることに、窓に写った自分の顔を見て初めて気づいた。少ない通行人が不思議そうに振り返って通りすぎた。
「クゥッ……!」
声にならない吐息を吐き出し、マレッティはバカバカしくなって再びフードをかぶった。何を感傷的になっているのだろう。全てをあの日、捨てたはずなのに。どうして自分はこんなところにわざわざ来ているのか。これでもかと歯を食いしばって、意地で涙を流さなかった。
踵を返して、憤然と歩きだした。自分で自分に怒っていた。どうしてこんな場所に来たのか、理解できなかった。来たくて来たのだろうか。それとも、忘れていた怒りを持続させ、自分に気合を入れ直すために来たのか。
そのマレッティ、しばらく歩いてから、やおら路地へ入った。そのまま、ごみやわけのわからないもの、そして寒さに震えて死を待つ浮浪者を押し退け、跳び越えて走り出す。マレッティを尾行していた者は、あわててその後を追った。
「……くそっ、さすがにカルマだな!」
地味な冬物ジャケットコート姿の三人がわめいた。しかし路地裏の道筋は、彼女たちの方が詳しい。二人が回りこんで挟み打ちにするべく、近道をゆく。
いかに動揺しているとはいえ、追手に気づかぬマレッティではない。また当時と変わらない路地裏の風景も、走っているうちにおぼろげながら思い出してきた。ここを抜け、裏通りを横切って工業区に入ってしまえば、さらに道は複雑になり追手を振り切れる。そう考えた。
が、その裏通りに出た瞬間、マレッティは硬直して動けなくなった。その情景、臭い、なにより空気。すべてがマレッティの記憶を強制的に掘り起こして、神経が情報の錯乱に耐えられなくなって動かなくなった。
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