第164話 邪龍の強手、人の応手

『ああ、力が戻ってくる』

 熱い湯につかったような、恍惚とした、緊張がほぐれていくため息が、アジ・ダハーカの頭蓋骨から漏れる。ドゥルジを喰ったことで、分かたれていた半身が戻ったためだ。

 骨の白一色だった頭に変化が現れる。鼻の辺りからパラパラと肉が付き、皮が生え始めた。骨格標本に粘土で肉付けしているかのように、最初の鼻から円状に現象は広がる。肉が付き、皮、鱗と生え、頭蓋骨が徐々にコーティングされていく。

 落ち窪んでいた眼窩には既に金色の瞳が存在し、ギョロギョロと地べたで蠢く人々を見下ろす。

 統制が取れているような、整然とした効率的な人々の逃走があった。これまで幾度と無く脅威に晒されていた住民の危機管理能力に加えて、いずれ来るかもしれない災厄に備えて、何度か避難訓練などを行ったのだろう。今、その効果が如実に現れていた。

 ただ、効果が現れているからといって結果が伴うかといったら、そうでもない。

 再び地面が揺れ、家屋が倒壊し、残骸が吹き飛んだ。下からうねる長大な何かが、逃げる人々の前に現れる。つながる先はアジ・ダハーカの首。アジ・ダハーカの首にふさわしい、巨大な胴体と尾だ。

『逃がさぬ』

 ずずず、と地響きを立てて尾が動き、内側の輪が狭まる。巻き起こる土ぼこりに追いやられ、退路を断たれた一部の人々は統制をなくし狂乱する。尾は徐々に狭まり、人々を一箇所に集めた。クローズドサークルに閉じ込められた人々は、周囲の高い壁と上から覗くアジ・ダハーカを不安と恐怖の目で見上げる。真綿で首を絞められるのと同じく、死が近づくのを感じていた。圧迫感ならこちらが上だろう。

「くそ、冗談でしょ!」

 次に来る行動を理解したクシナダが、少しでも遅らせようと矢を放ち妨害する。

『邪魔するな』

 アジ・ダハーカの口から炎が吐き出され、飛来する矢をことごとく燃やし尽くした。そのまま羽虫を殺虫剤で追い払うように炎を撒き散らし、彼女をけん制する。首の一本がクシナダを相手取っている間に、もう一本は彼女が危惧した行動へと移行する。


 ガパァッ


 アギトが開く。巨大な牙がむき出しになり、長い舌がチロチロと揺れ、ポタポタと涎が滴る。のどから先は真っ暗で見えない。見上げる人の目からは、冥府の門が開かれたように見えただろう。

 あながち間違いではなかった。

 彼らめがけて、アジ・ダハーカの頭が急降下する。

 人々の恐怖がいよいよピークに達した。自分がどうされるのかを理解し、悲鳴を上げ、その悲鳴もろともに飲み込まれた。

 バクンと閉ざされた後には、えぐられた地面が残るのみ。

『手間をかけた甲斐があった』

 鎌首をもたげながら、もしゃり、もしゃりとゆっくりアジ・ダハーカは咀嚼する。邪魔をしたクシナダや、まだ生き残っている人々に見せ付けるようにして。

『やはり、活きが良いのを直接喰うのが一番だな。染み渡る』

 巨大な口からすらあふれ出るのは、喰われた者の血と、千切れた手足。見る者の背筋をぞわりと総毛立たせ、心胆寒からしめる光景だ。

 恐怖よりも絶望と諦念が上回った。次々と人は膝を屈し、へたり込んでいく。

「駄目だ、皆立って! お願いだから座るなっ!」

 声を張り上げる者が一人。

「私が一時でも稼ぐ。注意を引く! だから、諦めないで!」

「う、ウルスラ・・・」

 自ら剣を抜き放ち、人々の前に彼女は立った。

「コイツがここに現れたのが、そもそも私たちの先祖のせいってんなら、私が責任を持つ。責任もって食い止める! だから遠くへ逃げて!」

 無謀。

 誰もがこの二文字を脳裏に浮かべた。考えるまでも無く、勝負にならない。アリと象だってここまで酷くない戦力差だ。あの巨体が少し触れただけで、ウルスラなどつぶれてしまうだろう。

『はふ、貴様、ああ、わかる。わかるぞ。ドゥルジと共にいた女だな』

「ウルスラ。あんたを地獄に送る者の名よ。覚えとけ!」

 剣先を突きつけ勇ましく叫ぶ彼女を、アジ・ダハーカは嗤った。必死で堪えているのだろうが、足が震えている。顔を隠しても、恐怖は隠せない。

『もちろん、覚えておこう。我に歯向かった愚か者として』

「私のことは別に覚えなくてもいいわよ」

 クシナダが彼女の隣に舞い降りた。鏃を向け、不敵に笑う。

「ここで死ぬ奴に覚えてもらう必要は無いからね」

『欠片の欠片しか持たぬ半端者が。多少力を使えるからとて、思い上がるな』

 一方の首が牙をむき、怒りを露にする。

『ちっぽけな欠片とはいえ、欠片は欠片。我が糧にしてやろう』

 もう一方の首が言葉の後を継ぐ。

「じゃあ、あたしのことは覚えてって貰おうかい」

 ウルスラを支えるようにして並び立つのは、クルサ。巨大なハンマーを抱え、くじけそうになる足と心を何とか支えて立っている。

『健気なことよ。さっきまで貴様らを能無しと責め立てていた者たちを庇うのか』

「正当な評価として謹んで受け入れるわ。この事態はあたしの無能さが引き起こしたものよ。もっと皆を信じるべきだった。早くに皆に話しておくべきだった。誰も信じてなかったから、誰にも信じられなかったのだから。何よりも、絶対に信じるべきあたしの家族の言い分を、あたしはこれ以上失敗できない、なんて自分の都合で信じなかった。それが最大の原因。だからこそ、責任は取らなけりゃならない」

 ぐいとハンマーを掲げ、アジ・ダハーカを睨み上げる。

「良いかい、化け物。化け物とはいえ、この街に来たのなら一つ、ここのルールを教えてやる。自分のケツは、自分で拭くのさ」

『だから、我と戦う、と? 随分と理不尽なルールだ。不可能なことでも遵守しろとは』

『人の考えることはさっぱり理解できぬ。愚か、愚かなり。この愚かさを見る限り、ドゥルジの負けは決まっていたな』

『いつまでその両足で立っていられるか試してやろう。貴様らの膝が屈した時が、後ろの者どもの命尽きる時だ。簡単に倒れてくれるなよ』

『でないと、絶望に沈んだ貴様らの目が写すのは、貴様らの無力さゆえに無残に喰い殺される、哀れな者どもの姿だ』

「誰が哀れな連中だ。見下しやがって」

 ザムが進み出た。

「大人しく喰われてなんかやるものかよ。退路が無いなら前に進む。それこそ我ら狩猟者の生き様よ」

「死にたくなければ剣を取れ! 生き延びたければ槍を掲げよ!」

「でかい獲物だ! コイツをしとめりゃ、報酬なんか望みのままだ! そうだろ? クルサ殿!」

「守備兵! 己の使命を忘れたのか! 街を脅かそうとする化け物を前にして、諸君らは動かないつもりか!」

 続いてアッタ、ワッタ、ハオマが人々を煽る。声の届いた狩猟者たちの手に力が戻り、ぐっと武器を握り締める。守備兵達の足の震えが収まり、盾と誇りを掲げる。恐怖と戦いながら、次々と人間たちが参列する。アジ・ダハーカはそれをつまらなそうに見ていた。優位は変わらない。だが、不愉快だった。人々の恐怖を最高の調味料として喰らう者にとって、自分に対して恐怖を抱かない、恐怖をねじ伏せて怒りを燃やす人間など味付けに失敗した料理のようなものだ。

 いや、とアジ・ダハーカは切り替えた。そんな連中を蹂躙すれば、残ったやつらの絶望たるや、今の比ではないだろう。希望が潰えたとき、より多くの絶望が生まれるだろう。

『面白い。面白いぞ。貴様ら。やってやろう。新たな遊びだ。我と貴様ら、どちらが勝つか勝負をしよう!』

 ぶわ、とアジ・ダハーカの体表に輝く方陣が浮かぶ。方陣の中から、ぞわぞわとサソリ、カエル、トカゲが生まれ出た。これまでの比ではない数だ。これまで数で圧倒していた人が、数で圧倒されている。

『数はほぼほぼ同等だ。遊びは公平でなければつまらんからな。盤はこの街、駒は貴様らと我が眷属ども。駒を取り合おうではないか。眷属どもを討ち果たし、我が前に立ってみよ。我はそれまで、手出しせぬことを誓おう』

「言われなくても、やってやる。必ずお前の前に立ち、王手を掛けてやる」

 ぎり、と歯が折れんばかりにウルスラは食いしばり、体を前に倒した。

「行くぞぉ!」

『蹂躙せよ!』

 先手も後手もなく、駒たちは一斉に動き出す。遊びと違うのはルール無用、持ち時間なしの駒取り合戦であること。

 勝利条件は遊びと同じ。王の首さえ取ればいい。

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