第90話 蠢く世界 弐

 場所は変わって、ヴェリタ教領リゾソレニアの北部にある名もなき獣人の国。この国はリゾソレニアの保護という名の植民地支配を受けていた。その国で存亡にかかわる大問題が発生していた。この国のさらに北にある不可侵領域、俗に『暗黒の地』と呼ばれる場所から突如魔物の大群が押し寄せたのである。魔物の大海嘯というべき多数の魔物による襲撃である。


 何百、何千という魔物が一斉に何者かに取りつかれたように国境へまっしぐらに突進してくるその姿は、これ以上の災厄が存在するとは思えなくなるような地獄絵図を展開する。木々はなぎ倒され、家畜は無残に食い散らかされる。住民はその残酷な地獄の宴のオードブルですらなかった。食前酒のように生き血をすすられ、生きながらにはらわたを食い尽くされる光景があちらこちらで展開されている。


 この『大海嘯』により、国境警備の獣人部隊は大損害を受け、国境を守る砦にこもることで何とか残存兵力を保持している状態であった。


「増援はどうなっている! いつまで持つかわからんぞ!」

「リゾソレニア本国が獣人ごときのために十分な増援を送るわけなかろう!」

「何を言っている! この国を抜かれたら本国へ魔物の群れが直接侵入するんだぞ! それを分かっているのか!」


 魔物の大群を前に、獣人の国の国境を守る獣人部隊の隊長はリゾソレニアの司政官にかみつくが満足のいく回答は得られない。


(ちっ……なんで暗黒の地から魔物が……大魔皇帝が再び戦争を引き起こそうとでも言うのかい……最悪だ)


 『暗黒の地』はかつて大魔戦争時、魔族の統治する領域であり大魔皇帝のおひざ元というべき土地であった。この領域の縁辺部にクウヤたちが調査した魔の森や魔族の国パンデモニウムが存在している。大魔戦争後、この地は不可侵領域として人々が訪れることもなく忌み嫌われる土地となった。わずかに大魔皇帝を崇拝する魔族が時折行き来する程度で、普段は忘れ去られた土地でしかなかった。この地との境界を警備する部隊も、時折彼の地より彷徨い出てくる魔物を討伐するぐらいで、この大海嘯を長期間に渡り押しとどめるような戦力は配備されていない。


「……止むを得ん。この国の全兵力を国境維持に当てる。それで時間を稼ぐ」


 司政官は獣人隊長に告げる。それはこの国に対する死刑判決にも似た響きがあった。獣人隊長はいら立ち司政官を責め立てる。


「……時間を稼いで、本国は動くのかい? いくら保護国だからって無駄死にはごめんだぜ!」

「心配するな。そなたらの本国への献身は私がきちんと伝える。この戦いで生命をまっとうしたものは三等殉教者として、賞せられるよう尽力しよう」

「なんだそれは! そんなことより本国の騎士団の派遣を要請しやがれ! そんな称号なんてクソくらえだ!」

「なっ……前世の罪で穢れた魂をもつ獣人の分際でなんという恥知らずな! ヴェリタの教えに帰依し、その穢れた命をささげられるだけでも相当な名誉を与えているんだぞ! それを……」

「ええい、やかましい! そんなことより、早いところ増援を要請しやがれ! さもないとてめぇも殉教者の名簿に載るこのになるぞ!」


 獣人隊長は司政官の首根っこを掴み、罵る。そんな不毛なやり取りの間にも魔物たちは確実に獣人の国を貪っていった。


「タナトスめ、勝手なことを……」


 場所は変わって、ここはリゾソレニアの水晶宮クリスタル・パラチウム。リゾソレニアの上皇ディノブリオンは怒り心頭だった。自分の意に反してタナトスが独自の判断で動き出したからだ。


 この時リゾソレニア本国では魔物の襲撃の一報の聞き、代表である教皇タナトスが増援の部隊を編成していた。また、万が一の事態に備え、マグナラクシアやカウティカ、そして帝国『蓬莱』にさえ兵力の供出依頼をすべく準備をしていたところである。しかし、増援の部隊編成までは良かったが有力諸外国への兵力供出依頼が上皇の癇に触る。そのため上皇はタナトスに抗議するため、タナトスの執務室を訪れた。


「タナトスよ、説明してもらおうか。如何なる考えか? 神聖な国土に諸外国の軍を自ら招き入れるとは!」

「これは上皇猊下、いかがなされました? ご心配には及びませんよ」


 怒りをあらわにする上皇に対し、タナトスはいたって冷静に対応する。


「現在、教団騎士団を増援に送る準備をしていますが彼の地の状況からすると本国の兵力だけで十分かどうか不安が残ります」

「我が国の騎士団は弱いというのか」

「いえいえ、決してそんなことは申しません。が、魔物の数が異常なんです。すでに保護国の何ヵ国かが魔物の『大海嘯』に呑み込まれ壊滅したと聞きます。それに伴い我が国に魔物の侵入を防ぐための備えをしなかればなりません」

「魔物ごとき、我が国の騎士団で一蹴できるであろう。諸外国の軍をわざわざ招き入れる理由にはならん!」

「上皇猊下のご慧眼であればすぐに理解いただけると思いますが、現状もはや現有兵力では対応できません」

「そんなもの、獣人どもや亜人どもを捨て石にすれば防げるだろう。神聖な国土に諸外国の軍など問題外だ!」

「御勘気はごもっともですが、この神聖な国土を魔物たちに蹂躙させるわけには参りません。むしろ、そうしないための派兵要請です。それに獣人たちに一方的に犠牲を強いることは、後に憂いを残すことになりかねないので、賛同できません。この非常事態では上から下まで一致協力しなければ凌ぎ切ることはかなわないと思います」


 一つ一つもっともな回答することで何とか上皇に理解を求める教皇タナトス。それでも上皇の勘気は収まるところを知らない。


「獣人なぞリゾソレニア発展の肥やしでしかない! 何をそんなに連中に遠慮するのか。ヤツらは前世の罪により、穢れた魂を持って生まれた忌むべき存在ぞ?! わざわざ我が国、我が教団の理想実現のために使ってやっているというのに、感謝されることはあれ、不平不満を言われる筋合いはない!」


 タナトスはあまりに強硬な上皇の態度に小さくため息をつく。


「上皇猊下。それならばこうお考えください。魔物たちに諸外国の軍をぶつけることで消耗させ、軍事的な均衡を我が方に有利にするために派兵を要請するというのはどうでしょう?」


 タナトスはニヤリと口角を上げる。上皇は思いもよらない提案に面食らい、戸惑いの色を見せる。


「……それは本意ではあるまい。どちらにせよ、外国の軍隊を我が領域へ入れるための逃げ口上であろう?」

「確かにそういう部分はあります。ただ、現状はためらっている時間を与えてくれないようです。なにとぞご理解の上、ご協力いただきたい」


 それでもタナトスの言い分に同意できない上皇に対し、彼はとどめの一言を放つ。


「事後承認で申し訳ないですが、猊下のお名前で内々に各部署には諸外国の派遣軍の受け入れ検討指示を出しておいたんです。つまりは猊下が納得されようとされまいと私と共犯ということになっているのです。そういことなので、表向き先ほど申し上げた理由で受け入れに同意していただきたい」


 思いもよらぬタナトスの発言に上皇の思考はほぼ停止し、彼を呪詛するような言葉を吐くのが精いっぱいだった。


「な……何だと……き……貴様、自分のやっていることが分かっているのだろうな! この国の政治をわたくしすることがどれだけ罪深いか考えよ!」


「私は一度もこの国の政をわたくししたことはありません。すべてはこの国のためです。この国の行く末をより良いものにするために私は尽力しています」


 タナトスは強い調子で上皇に宣言する。上皇は彼に対し告げる言葉を見失っていた。


「……もう一つ事後承認となって上皇猊下には申し訳ないですが、この件に関し各国の代表を招集し、対策会議を開くことをお知らせしておきます。すでに各国には、通達する手配は済んでおりますのでご了承ください」


 完全にその場はタナトスの独壇場であった。上皇は力なく、その場に立ち尽くしている。


 リゾソレニアを襲った魔物の大海嘯をキッカケに大きく世界が動き始める。


 この世界がいかなる状態に導かれるのか、それを知るものは誰もいなかった。

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