漂う③(芥川龍之介「羅生門」)

 男はすぐに楼の上に出ることはしなかった。意外なことに、楼上には生きた人間がいたのである。闇に眼が慣れた男はそれを悟り、警戒したのである。相手が何をしているか、いったい何者かを確認できぬ内には、男は楼上に出ることはしないだろう。


 しかし、流石にしびれを切らしたのだろうか、男は楼上に出た。そして、気付かれぬようにという慎重さを保ち、相手の正体を確認するためにゆっくり、ゆっくりと近づいて行った。

 しかし、正体に気付いた男は、自分の臆病をなじり、そして、先ほどとは打って変わった尊大な態度をとり始めた。


 相手は、やせ細った女だったのである。


 老人どもは災害の前にすぐに死に絶えた。年老いた体に耐えられるはずがなかった。しかし、女とは珍しい。体が弱いのは、女も老人も同様であろう。


 久方ぶりに見た女という生物の姿に、男の生物としての本能が、沸き上がった。欲望というものは、果てがない。

 嗜虐的な笑みを浮かべながら、男は女に近づいた。しかし、途中何かに躓き、転びかける。見れば、それは既に腐敗の始まった骸であった。僅かに残った頭髪の色を見るに、恐らく老人の骸であろうと察せられる。


 背後で蠢く生物の存在に気付いたのであろう。女は即座に振り向いた。

 恐怖に支配された顔は、思ったよりあどけない。どうやら、まだ裳着を幾年か過ぎた程度に見える。


 男は具合の悪そうな顔をした。しかし、ここでふと思い至る。この女は、いったいここで、何をしていたのか。


 そう思えば、女の様子は奇妙にも思われる。あの一瞬で、はたしてこの男を子細に見て取り、自分の貞操の危機を感じ取れるものだろうか。

 あの恐怖の表情には、何か別種のものが、理由となっているのではないか。


 男は、先刻まで自分が行おうとしていた欲望の解放による倫理の破壊行為を、しかし、何処かに捨て置いたかのように、いや、そもそもそんなものは端からなかったんだとでもいうように、女に向かって、尊大な態度で言った。


 「己、ここで何をしておる」


 その声に、女は迷った。答えるべきか、答えざるべきか。見れば、この男はやせ細っていながら、どこか屈強なようである。それに、何よりこの態度は、男がすなわち、自分の権力を正当に駆使しているからこそ成り立つものではないか。つまり、この女は、男のことを役人か何かだと思い込んでしまったのである。


 一向に応える気配のない女に、男は自尊心を傷つけられたような気になった。


 (この女は、自分のことをなめている。だから、何もいわぬのではないか。こんな若い女になめられては、男が廃る!)


 男はこのように思うと、目を大きく開き、憤怒の形相を浮かべて、女に言った。


 「はよ言えぃ!言えぬのか、やましいからだな、え?恥を知れぃ!」


 女は男の様子にいよいよ恐れ入り、腰を抜かしてしまった。こうなっては、最早逃げることは叶わぬ。


 しかし、次の瞬間、男の様子が一変する。

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