蛙(下)(井伏鱒二「山椒魚」)

 蛙は岩屋から抜け出せないことを悟ると、注意深い足取りでくぼみに入った。彼はそこで、もう大丈夫だと信じることが能うと、くぼみから顔だけ表して、山椒魚に言った。

 「おれは、平気だ」

 「出て来い!」

 山椒魚は怒鳴った。必死の声であった。


 蛙は、もう既にこの時気付いていた。

 井の中の蛙は大海を知らないという教えが彼らにはあった。しかし同様に、大海にいる蛙に井の中の様子を察することは能わないのだ。蛙は今まで、塀の外から塀の内を見通そうとしていたに過ぎなかったのだ。

 今、蛙は山椒魚と激しく口論をしていた。しかし、この口論の内容はどれも取るに足りぬことに見えた。


 「お前はばかだ」

 果たして、本当にばかなのは、山椒魚か自分か、蛙には判断することが能わなかった。


 翌日も、その翌日も、彼らは自分自身の主張を繰り返した。まるでそれは、それしか言うことが出来ないと定められたレコーダーのようであった。


 一年の月日が過ぎた。

 初夏の水や温度は、岩屋の囚人たちをして鉱物から生物によみがえらせた。そこで二個の生物は、ことしの夏いっぱい次のように口論し続けたのである。もはや山椒魚は頭を僅かにも動かすことは能わないであろうし、つまり、蛙も最早外に出ることは能わないのであった。


 「お前こそ頭がつかえてそこから出て行けないだろう?」

 「お前だって、そこから出ては来れまい」

 「それならば、お前から出て行ってみろ」

 「お前こそ、そこからおりて来い」

 


 その年の冬、山椒魚は既に眠りについていた時、蛙はまだ眠っていなかった。

 ぼんやりとする頭の中で、蛙は次のようなことを考えていた。


 「俺は、ここに来たとき、悲しんだ。しかし、あれは己の不運を悲しんだのであった。どうやら、分かった。どだい、間違っていたのだ。あの時の俺の行為は、全く無駄だった。でも、今はもう、やっと気づいた」


 蛙は満足して眠った。

 岩屋の中で眠る二つの生物の眠りを邪魔するものは、ついぞ現れなかった。


 明くる夏、彼らはお互いに黙り込み、お互いに自分の嘆息が聞こえないように注意していた。

 ところが、不注意から蛙は、相手より先に嘆息を漏らしてしまった。草がそよぐような微かな音であり、一瞬蛙は期待したが、相手が聞き逃す道理はなかった。

 「お前は、さっき大きな息をしたろう?」


 ついに、岩屋の静寂は破られた。しかし、彼らはどこまでも二人きりであった。

 蛙は自分を奮い立たして答えた。もはや、蛙に残された力は僅かであった。


 「それがどうした?」

 「そんな返事をするな。もう、そこから降りて来てもよろしい」

 「空腹で動けない」

 これは本当であった。もうしばらく何も食べていない。しかし、蛙にはそれ以上に、動く気がなかった。相手の声から感じられる友愛の念、今初めて、蛙は山椒魚に許されたと悟り、もう、満足していた。


 「それでは、もうだめなようか?」

 「……もう、だめなようだ」


 再び岩屋には静寂が訪れた。しかし、その静寂はやがて、山椒魚の奇妙な問により破られた。


 「……お前は今、どういうことを考えているようなのだろうか?」


 蛙は酷く驚いた。しかし、同時に得心していた。そして、この山椒魚はやはり生きるのが下手だなと思った。


 蛙は、どのように答えれば、相手が一番自分の気持ちを理解してくれるか悩んだ末、どのように答えるか決めたのであったが、ややこれは不遜だろうか、いやしかし、あまり長く待たせることはできまいと思い、強いて調子を抑えて答えることに決めたのであった。




 「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」

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