蛙(上)(井伏鱒二「山椒魚」)

 蛙は悲しんだ。


 彼は己の迂闊さのために迷い込んだ岩屋から抜け出そうともがいた。しかし、唯一の入り口である岩屋の窓には、大きな頭をした山椒魚がコロップの栓のようになり塞いでいるため、最早抜け出すことは能わない。狼狽のために蛙は岩壁をよじ登り、天井の銭苔のうろこにしがみついた。しかし、果たしてこれに何の意味があったろう。

 突如、背後から大きな悪意を浴びせられた。

 「一生涯ここに閉じ込めてやる!」

 蛙は己が見の不運を案じた。それは岩屋に長く幽閉され続けた山椒魚の声であった。


 「あの岩屋には、頭でっかちの山椒魚がいる。奴にはどうせ何もできないが、気を付けなくてはならないよ。一人で塞ぎ込んでいる奴ほど、内心何を考えているか分かったもんじゃないからね」


 ぽっかりとお腹を凹ませた小えびが、おかしそうに笑いながら言っていた言葉である。何でも、この小えびは、この岩屋に紛れ込んで、山椒魚から酷い目にあわされたらしいが、よく見ると、愚鈍な山椒魚は、自分の頭があまりに大きくなり過ぎたために、岩屋から出ることが能わないのだということに気付いたという。


 「全く、生きるってことが、なってないよ!」

 小えびの言葉に、蛙は笑った。しかし、その笑いは嘲笑ではない。蛙には、山椒魚の内心が、少しく悟られたのである。最も、蛙にはどうすることも能わなかったのであるが。


 蛙は、しばしば岩屋の周囲を彷徨った。山椒魚の様子が気になったのである。


 ある日、大小二匹の水すましが、岩屋の付近で遊ぶのを見た。それを見て、蛙は無性に腹が立った。

 「何て、酷い奴らだ!」

 岩屋の中に孤独に沈む山椒魚にとって、この水すましたちはどのように映るであろうか!


 蛙は、彼らに気付かれぬようにすぅっと水底を這うように進み、そして、突如一直線に水面へと駆け上り、水すましたちに突進した。

 水すましたちは、思いがけない蛙の攻撃に慌て、小なるものが大なるもの背中に乗っかるなどをし、そして、でたらめに直線を折りまげた形に逃げ回った。


 それを無表情に眺めていた蛙は、しかしやがて気付いた。

 「果たして、山椒魚にとって、俺と彼らとの間に、違いなどあるであろうか……」

 蛙は突如として己の愚昧さに気付き、羞恥に身を悶えた。


 誰しも、自分自身をあまり愚かな言葉で譬えてみることを好まないであろう。しかし、蛙は己をそのような言葉で譬えることの相応しさを思った。しかし、そのようになったとき、それは自己陶酔以外の何物でもないのではないか。意思なき独楽は、やがて停まる自己を案じることはない物体に過ぎぬが、意思ある独楽はやがて停まる自己を案じ、悲嘆にくれるに違いない。そして、その時に思うことは、己の身の不運に違いないのだから。


 蛙は最早水面に身を置くことに耐えられなくなり、再び水底へと突進したのであった。

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