漂う④(完結)(芥川龍之介「羅生門」)

 男は気付いたのである。眼前の女がものを言わない理由、それは男に対する恐怖から来ているということに、男は、気付いたのである。


 ここにきて、男は再び強者としての誇りを取り戻したが、それは先刻とははっきり様相の異なるものであった。


 いわば、ここで、この瞬間、男は絶対なる強者であった。

 見よ!眼前の女を。もはや、男を前に許しを乞うような姿をしているこの女と自分とが、男には同種の生物には思えないのであった。これが、神とその信仰者との構図以外の、どんな意味を持っていることだろう!


 もはや、男にはこの女に対して、慈愛の念すら覚えていた。それは、神の無償の愛であるアガペーであり、先ほどの下賤なエロースの愛ははどこにもなかった。


 「そう、おびえるな。俺はお前をどうかしようというつもりはない。ただ、若い女がこのような場所にいるのを不思議に思い、問うただけに過ぎぬのだ。声を荒げて、すまなかった。さぁ、何をしていたか、聞かしてくれ」


 女は、男の豹変に奇妙な感情を覚えたが、物事が変わり行く姿を常に目の当たりにし、感覚が麻痺し、盲者のようになってしまっていた女には、そのことを気に掛けることが出来なかった。


 「はい、わたくしは、ここにある死体の服を剥ぎ、衣を作ろうとしていたのです」

 教会で許しを乞う哀れな罪人の姿がそこにはあった。そして、罪人の意識の底には、協会に対する信頼感があるように、この女もまた、それを抱いていた。

 

 男はこの告白を聞き、何とも飽き足りぬ気持を抱いた。

 先刻、人が人を食らう話をした。これは、倫理上からも、法律上からも。決して許されぬ絶対的悪である。

 女の行為は、確かに、許されるものではない。しかし、悪である。


 男の様子に、女は何を思ったか。焦ったような面持ちで、言葉を重ねる。


 「はい、確かに、死体から衣を剥ぐというのは、許される行為ではありません。ですが、死体が服を着て、何の意味がありましょう。死んだ者たちは、最早寒さを感じることも、暑さを感じることも、ないのです。むしろ、生きる者の役に立てるという点で、彼らも、喜ぶのでは、ありませんでしょうか。それに、盗ったものを、誰も盗っただなどとは、気付きません。気付かれなければ、それはなかったことも、同じでは、ありませんでしょうか」


 女は、自分の考えのすべてを出し切ったようであった。

 

 男は、しかし、依然として黙したままであった。だが、その頭の中では、何やら考えているようであった。


 (どうやら、なるほど、そうか)


 男は突然笑い出した。何かを馬鹿にしたような笑いであった。


 「なるほど、お前の言うことはもっともだ。死んだ者が、衣を着て、なんになろう。死んだ者が、何を思うだろう。そして、死んだ者とは、いないものということだ。ハハハ、ハハハ!よい、もう何も言わんでよい……」


 男はそう言って、女の元を去っていった。

女は、しばらくの間呆然としていたが、やがて、再び死体の衣を剥ぎ始めた。男がいない今、あたりに、人の気配はなかった。


 雨は上がった。雲が切れ、丸い大きな月が、煌々と辺りを照らしている。

その下で、男は満ち足りた気分で眠り、夢の世界を漂った。

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