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優和

第一章 《ラブイズ(26~32)》 -from ラブイズ-

私の名前はラブイズ・ハルトス26歳。これから私と私の妻の闘病期をこのブログに綴っていこうと思う。誰かの役に立てれば幸いだ。


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「この病気になったら離婚率は90%です」


頭の中で霞みが掛かる。いや、もうずっとそんな状態が続いていた。病院の医師に、「もう離婚をしようと思う」と相談した直後の言葉だ。


物凄い速さのカウンターパンチだった。しばし私が呆然としていると、その医師は静かに口を開いた。


「…ご主人さんの気持ちもわかります。でも、あと10年も経てば奥さんもだいぶ良くなりますから。逆に10年経って良くなった時、ご主人さんもいない、子供たちもいないとなったら、奥さんはその時、本当にダメになりますよ」


病める時も、健やかなる時も。

貧しい時も、富める時も。

汝これを

守り

慈しみ

愛し続ける事を誓いますか?


イエスに誓ったあの時の言葉が頭に鳴り響き、胸を締め付ける。

…きっと妻も、私が病気になったら一所懸命面倒見てくれただろう…そう感じた。そしてそう思ったら自然と涙が溢れ落ちた。


妻は精神病。境界性人格障害というらしい。


暴力、暴言を言われ

夜遊びをして、娘を睨む。

少しずつ汚れていく我が家。

夜中まで怒られている3才の娘。

こっちが病気になりそうだった。


…だけど、その時から私は一生彼女と一緒にいようと決めた。

それが25才の時だ。


from ラブイズ


―――――――――――――――――――――――――――――――――


その日は突然やって来た。あくる年の2月。打ち合わせの最中だった。


「ラブイズさん、奥様からお電話です」


なんだ?いつもなら連絡は携帯に入るのに。


「はい。もしもし、何かあったのか?」


「…あ…ご…めんね…忙しい…のに……」


「何も気にしないでいいよ。どうかした?」


「…ぅ…ん…なんかね…身体が動かないんだ……悪いけど…今日…仕事…休めない…かな…」


働きだして4年、妻が会社を休んで欲しいと言ったのは初めての事だった。


「分かった。すぐ帰るよ」


チーフに事情を話して帰宅する。多分、昨日行った子供の病院で風邪でももらったのだろう。先日娘が3才になった。育児の疲れもあったのかな…せっかく休みをもらったんだし、たまにはゆっくりさせてやらないとな…そう思いながら私は帰路に着いた。


私の生き甲斐は仕事だ。仕事がこの家族を支えている。妻もそれをわかっているはずだ。今はそれが家族を幸せにする唯一の方法だと信じている。働いている自分が家族を支えているという自信になり、自分を支えているアイデンティティーになっていた。妻もそれを知っていたから何も言わなかったはずだ。だからこそ今回仕事中に連絡が入ったことが驚きだった。


アパートに着くと娘が泣きながら出迎えてくれた。

妻のキキョウは余程辛かったのか、パジャマのまま床に突っ伏していた。

「…ごめんなさい…」と妻は言った。私は「気にしなくていいよ」と言い、そして近所の病院へ連れて行った。


「ちょっと体調悪いのかも知れませんね。2、3日様子をみて、具合が悪いようだったらまた来て下さい」


―ほっとした。


ひょっとしたらキキョウも疲れが溜まっていたのかも知れないと思い、会社に連絡をして3日間の有休をもらった。家事育児を献身的にこなし、妻をゆっくり休ませる。しかし3日目になっても、キキョウの体調は治らない。


「ああ、じゃあ点滴でもしていきましょうか。ちょっと長引いてますね。お大事に」と医師は言う。

何やら簡単な処置に違和感を感じたので、別の内科に連れて行った。早く治してもらわないと、私の仕事は溜まる一方なのだ。イライラが募る。


「ひょっとしたら体内で炎症を起こしているのかも知れないですね」


!!

そうか!キキョウは19才の時から子宮内膜症を患っていたそうだ。「今日はもう疲れたから」と嫌がるキキョウを説得してすぐに近くの婦人科に連れて行った。


休みは今日までしかないんだ。明日までには治ってもらわないと困る。仕事は家族を支える唯一の方法であり、私もスムーズに仕事に戻らないと皆に迷惑が掛かるのだ。


「…別に子宮内膜症の方は進んでないようですね。解熱鎮痛剤でも出しておきますので、しばらく休んで治らなかったらまた来て下さい」


子宮の方は問題は無かった。どういうことなんだろう…何が原因なんだ…?そう思いながら帰路に着いた。


キキョウが言った。「…しばらく休ませちゃってゴメンね……私少し良くなったから仕事行っていいよ…三日間…どうもありがとう」


「うん。そうか。大丈夫かい?そしたら明日から会社行くけど何かあったらすぐ連絡するんだよ」

…まぁあれだけ休めば少しは良くなるだろう。これが自分の考えていた本音だった。


しかしキキョウの体調は、その後もあまり変わらなかった。

日にちが経つにつれ、家の中が段々汚れていった。そしてこの頃からアイハがキキョウに対して脅えた目をするようになっていった。


仕事が終わって家に帰ると、お風呂も入らず朝から着たきりのパジャマでお腹が空いて泣いているアイハを度々見かけた。

お片付けが出来てないと言って3才の娘を睨みつけ夜中までご飯を与えないキキョウ。その度に始まる夫婦喧嘩。

以前から子供の片付けにはうるさかったが、この頃は特に異常だった。

日々荒れていく我が家。苦痛だった。

そんな中、休みの日に一本の電話がかかってきた。電話に出ると聞きなれない若い女性の声がした。


「あ!ご主人様ですか?私外国人女性支援団体のルノアと申します」


「あ、はいどうも」


キキョウが育児について外国人女性支援団体に色々相談してたのは知っていた。この国へ留学中に出逢った私達はそのまま惹かれ合い、それからキキョウはずっとここに居る。キキョウがインターネットで見つけてからお世話になっている団体だった。


「あ、丁度良かったです。ご主人さん、あの、キキョウさんの事なんですが、ひょっとしたら心療内科に連れて行ってあげた方がよろしいと思うんですが…」


心療内科!?


「…ひょっとしたらキキョウさん、育児ノイローゼの気があるかも知れないです…」


「育児ノイローゼ…ですか…?」


正直、心療内科という選択は考えもしなかった。今になれば早く行けば良かったと思うが、当時は何をどうすればいいか全く分からなかった。話を聞くとルノアさんは最近キキョウの具合が悪いため、ちょくちょく電話等をして様子を見てくれていたようだった。ここ数日が特におかしかったみたいで、このまま放っておくと虐待の可能性も出てくるかも知れないと脅かされた。…なんだそれは?


とりあえずキキョウに電話を代わる。受話器に向かってむせび泣くキキョウ。おもわずその場にいたアイハを抱き締めた。これ以上この子を傷つけられない…そう思った。


「…話し聞いた?」


「うん…」


「病院行ってみようか?」


「…………うん…自分では良くわからなくなっていて…でも、この体調が病気のせいなら私も治りたいから……行ってみる」


「よし、わかった」


すぐにルノアさんに近くの心療内科を紹介してもらい、診察に行った。(育児ノイローゼってあるんだな)等と思いながら、アイハと二人でキキョウを待った。


「ご主人さんどうぞ」奥に呼ばれると不安そうな顔をしたキキョウがいた。


「はじめまして、この度は大変でしたね」優しそうな40代位の女医さんだ。


「さっそくですが、ご主人さん。まだ診断の結果は出てないのですが、奥さんはPTSDの疑いがあるかも知れません。」


「ピィティエスディ…?ですか?」


「はい、詳しくは調べてみないとわからないのですが、PTSDとは『心的外傷ストレス障害』と言います。つまり、そうですねぇ…例えば車で大きな事故を起こした人が、トラウマになって車に乗るのが怖くて乗れなくなったりとか、戦場に行った方が夜に思い出してうなされるとか、ショックの大きい出来事にあった事がトラウマになって、その後の生活に支障をきたす事…

ですね」


「…?それが何か?」


「つまり、奥さんは幼い頃に何かしらあった出来事が原因で今、育児が出来なくなっているのだと思います」


「?育児ノイローゼじゃないんですか?」


「えぇ、厳密に言えば違うんです。とりあえずまた来週こちらにおいで下さい。それまでに診断の結果が出てますので。お大事になさって下さいね」


その日は精神安定剤を処方されただけだった。


―――――――――――


次の週、キキョウとアイハを連れてまた心療内科へ行った。しばらくのカウンセリングの後、奥へ呼ばれる。

「…やはり、キキョウさんはPTSDの気があります。多分原因は幼児期の不安によるものだと思います」


「?…不安?」


「はい、小さい頃キキョウさんのお母様は他界されていたそうですね」


「…はい」


その話は付き合っている時にキキョウから聞いていた。キキョウの母親はキキョウが幼い頃に亡くなっていた。お父さんは仕事がちで、キキョウはいつも一人でいて淋しい想いをしたようだった。…でも不安って?


「……キキョウさんは父親から精神的な虐待…ネグレストを受けていたようです」


「ネグレスト…」


「育児放棄のことです」


「!」


どう形容したらいいだろうか?ただただびっくりした。そんなドラマみたいな話、本当ににあるのかと思った。


「…また、それで父親がいなくなるかも知れないという著しい不安が幼児期にあったようです。娘さんが3歳となり、自分でもわからないうちにそれが思い出され、強いストレスとなり、体が動かなくなった…つまり『抑鬱状態』になってしまったようです」


…そんな事突然言われても上手く整理出来なかった。それよりも聞きたい事は一つだった。


「そうしたら…妻はどうしたら治るんですか?」

…となりでキキョウは涙目になりながらじっとしていた。


「まずはキキョウさんとお子さんを離した方がいいと思います。その上で一度、キキョウさんを解放させて、そこからですね…」


「???」

解放とか、子供から離すとか段々訳分からなくなってくる。


「…つまり、キキョウさんは幼い時から性格のある一部分が成長しきれていないんです。そこが原因で体調を崩されてますので、一度お子さんとは距離をおいて、少し休ませてあげた方がいいと思います…。とりあえずいったんお家の方で相談されてみて下さい」


「はぁ…でも子供はどうしたらいいんでしょうか?」


「ですから、お母さんに見てもらうなり、預けるなりですね…」


「…簡単に言いますけど、それってすごく大変な事ですよね…!いきなり預かってくれるとか、離すとか、なんとか…!」


「私のせいで怒らないで!」わっ!と泣き出すキキョウ。


いくつかの病院を子連れで渡り歩き、ようやく出た答えがこれだ。なおかつこれまでと違う生活になりそうだという不安や怒り、失望が一度に溢れ出してしまった。だけど、それはキキョウも一緒のはず。いや、本当に辛いのはキキョウの方だ。しかし私は、自分の生活に対する変化の事を重く考えていた。


「……実際に先生はどうするのがベストだと考えているのですか…?」


「ご主人の気持ちもわかりますよ。私が今考えているのは入院などして一度完全にお子さんと隔離された方がよろしいかと思います」


「にゅ、入院ですか…!?」


「入院…」思わずキキョウの声も漏れる。


「…とりあえず今日のところは帰ります…家族で色々話し合ってみます…」


「わかりました。お薬は一応一週間分出しておきますので、何かあったらすぐにおいでなさって下さい。お大事に」


(キキョウが精神病…)


頭の中が台風になり、物凄いスピードで色々な思い想いが駆け巡る。この日を境に私の心が落ち着くことは無かった。


from ラブイズ


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―帰りの車の中。二人とも黙っていた。だけどどうしようもない。入院とか言われてしまった。アイハはどうしよう。仕事もどうなるのだろう。というか私の人生はどうなるのだろう。キキョウの気のせいではないか?でも本当に病気なのか?本当に無理なのか?…そのうちアパートに着いた。


「…ゴメンね。怒ってる?」キキョウが口を開いた。


「いや?何でだい?」


「…だって私のせいでこんな事になって…」


「うん、でも仕方ないよ。大丈夫だ。なんとかなるさ!」


「…うん。ごめんね。本当に」


「なってしまったものは仕方ないんだし、後はこれからの事を考えよう」


「…うん…」


(自分がしっかりしなければならない)そう思った。会社で休みを一ヶ月もらい、実家に引越しをした。


そして妻は格子のついた病院に入る事となった。


心療内科の先生から紹介状を頂き、実家のそばの入院施設のある精神病院へ入院する事となったキキョウ。

ホラー映画に出てくる病院のような雰囲気に感じた。

厳重に管理された扉。

白い格子のついた扉は二重になっており、まさに脱獄は不可能。

職員の部屋が隣接しており、常に監視状態。第一の戸を開けるとちょっと広い部屋になっており、家族と面会出来るのそこの部屋のみ。そしてさらに厳重な格子の扉があり、一般病棟となる。

男女は完璧に隔離され、イベントの時のみ合同となるようだ。

本当に刑務所のようだと思った。


精神病院の“重さ”を肌で実感した。


(こんなところにキキョウが入るのか…)


彼女は以外と入院する事は抵抗なかった様子で、「今の体調が良くなるなら…」と藁にもすがる思いだったようだ。


「…じゃあ、行ってくるね…」ギィ…バタンと扉が閉まる。


「ゥ゛ぎゃあ゛ぁ゛ア゛ア゛ぁ゛ーッ!!マ゛マ゛ーッ!い゛がな゛い゛でーっ!マ゛マ゛ーッ!!」泣き狂うアイハ。


泣いてはいけない。そう思ったが涙は止まらなかった。私もキキョウもアイハも母親もみんな泣いた。

でも、これで全て元に戻るんだ。退院してきたら、全部元通りになる。そう信じてキキョウを見送った。


from ラブイズ


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キキョウが入院して一週間目に初めての対面の日があった。


「ばぱー!はやくままのとこいこー!はやくはやくー!」とアイハがまくし立てる。

「10時からだからもう少しだよ」となだめても、「え〜はやくままとこいくぅ〜!」と待ちきれない様子だった。

それは私も一緒だった。一週間もアイハから離れればキキョウも寂しいだろう。そして、どこまで体調は良くなっただろうかという淡い期待。


一週間ぶりに会ったキキョウは少々やつれているように見えたが元気そうだった。嬉しそうに抱きつくアイハ。しかし気のせいか、ほんの少しアイハに対してキキョウの態度によそよそしさを感じた。


なんだかんだ1時間の面談はあっという間に過ぎてしまった。そしてまた、キキョウとの別れ。泣き叫ぶアイハ…。


退院すればまた元に戻る。

退院すればまた元に戻るんだ。


そう呪文のように自分に言い聞かせながら、キキョウの担当の医師から話を聞いた。


「ご主人さん………という訳なんです」


は?一瞬自分の耳を疑った。

「え?どういう事ですか?」


「…つまり、奥さんは病気じゃありません。性格的因子によって何もしたくないだけなんです。ただの神経症です」


!?

病気じゃないと聞いて嬉しい気持ちもあったが、同時にすごく違和感を感じていた。

ではなぜ入院するんだ?

子供に辛い思いをさせてまで?

なぜキキョウはあんなに辛そうなんだ?

性格的因子?

今までの生活は何?何でもない時だってあったじゃないか!?

…というか心療内科の医師と診断が違っていないか…!?


「はい、なので奥さんにはこれから少しずつ神経症という事を伝えていきます」


「…はぁ…そしたら妻はいつ良くなるんですか?」


「…それはわかりません。明日急に良くなるかも知れませんし、10年かかるかも知れませんし…」


やはり、なにか違和感をすごく感じた。けれども、とりあえずは医師のいう事ではある。その場は納得したをした。

すぐには治らないと聞いて目の前が暗くなった感じがしたのを覚えている。

…いや…もうずっと頭がすっきりとしない。

私の家族はいったいこれからどうなってしまうんだろうという不安…

そろそろ限界に近付いている自分がいた。しかし、自分を必死に押し殺した。


私がしっかりしなければならない。私がしっかりしなければならない。私がしっかりしなければならない…


頭の中ではその言葉がぐるぐると回った。


from ラブイズ


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…そして一ヶ月が経過し退院となった。


キキョウの病気は治らない。主治医は相変わらず『神経症』と繰り返すばかり。一週間に一度の受診、寝たきりのキキョウ。のしかかる母親への負担。私に愚痴。キキョウから母への。母からキキョウへの。


この頃から徐々にキキョウの性格が変わっていった。

私が「体が辛かったら寝てていいよ」と言うとキキョウは

「私のせいで大変だってまた言うんでしょう!?前みたいに朝起きてご飯作ってアイハの面倒見るとか出来ないから!!

あんたのせいで病気になったせいもあるんだから!!このマザコン!!母親に面倒見てもらわないと仕事も出来ないくせに!!あんたは私の事全然わかってくれない!!離婚すれば!!私が悪いと思ってるんでしょう!?どうせ!あぁ―ッ!!」

等と暴言を吐き、物を投げる。壊す。殴る。蹴る。ひっかく。叩く。叫ぶ。

私は身を守る為に妻を掴む、そしてソファに押し付ける。なんとかして落ち着かせようとする。

「女に暴力ふるう最低男!ドメステイック・バイオレンスだ!!最低!最低!最低!ウワァァアアァァアアッ!」とキキョウは喚く。そしてひとしきり泣くと今度は、「捨てないで!捨てないで!捨てないで!捨てないで!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ウワァァアアァァアアッ!」…と過呼吸になり、体がガクガクしてきて、白眼になる。まるで悪魔が乗り移ったようになった。そして、しばらく寝かせておくと落ち着く。ずっと寝る。の繰り返し。


「あなたに私の気持ちは分からないッ!」

「あんたのせいで病気になったッ!」


…辛かった。


そして二ヶ月、三ヶ月と時は過ぎていった。

キキョウの体調は変わらない。とにかく担当の主治医がきらい・キライ・嫌い。

体調の波が激しくなり、すぐにキレる。泣く。動かなくなる。を繰り返す。


ふと、入院していた病院で一番最初に診察してくれたサイトウという医師を思い出した。『奥さんの病気は絶対治りますよ!』と言ってくれた人だった。最近独立し、近くに心療内科を開院したばかりだという。


「…一回サイトウ先生のところ行ってみないか?」とキキョウに問い掛けた。


「うん…行ってみようかな…」


そしてすぐにキキョウを連れて行くことにした。


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「…それは大変でしたね。さぁさぁどうぞ」


ガタイの良い熊の様な先生だ。キキョウと一緒に奥の部屋へ入っていった。


…そして一時間後、奥の部屋から目を真っ赤にしてキキョウが出てきた。

その後、キキョウと二人でサイトウ医師の話を聞いた。


「結局、妻はどうなんですか先生!?病気なんですか?治るんですか!?」


「…まぁまぁご主人さん落ち着いて下さい。一つずつ話していきましょうか。

まず、奥さんは病気です。病名は『境界性人格障害』と言います。

神経症と統合失調症を行ったり来たりする病気です。

症状としましては、鬱、自傷行為、思考能力の低下、性が奔放になる、身体の運動機能の低下、いくつかのものが現れてきます。

でも、奥さんは治りますよ。大丈夫です。…ただ、十年下さい。時間は掛かりますが十年も経てばだいぶ良くなりますから」


『良くなる』


本当は一生このままかも知れないと思っていた私にとってこの言葉は嘘だとしても嬉しかった。すごく、すごく嬉しかった。恥ずかしいと我慢していた涙が堪えきれなくて少し溢れ落ちた。


「…ご主人さん。ただ先程も話した通り、時間はかかります。

治療はですね、まず、奥さんを家族から完璧に離す時間を作ります。当院の二階フロアでディケアを開いておりますので、しばらくは毎日通って下さい。そして、徐々に家族の枠に戻して行き、社会に適応出来る様にしていきます」


初めてのそれらしい治療。ここなら本当に治るかも知れない。スタッフと一緒に二階フロアへキキョウと行った。


…独特の雰囲気だった…目が…飛んでる。焦点の合ってない人がほとんどだ。もしくは目に生気を感じない。本当にこんなところに妻を預けるのか!?と心配になった。しかし、サイトウ医師を信じると決めたばかりだ。断腸の思いでディケアにキキョウを預ける事にした。


その日はそのまま二時間一緒にディケアを参加した。内容は基本的に自由。なんだか色々なカリキュラムがあり、粘土細工をしたり、カラオケをしたり、ビーズアクセサリーを作ったり…等々。

辛いと休んだり、同じような人達と同じ時間を過ごす事がまずは大事らしい。キキョウも同じ病気の人と色々な話をしていた。


…そうか…キキョウが『母』という時間を離れ自分を自由に解放するにはいいかも知れない。いくら病気で身体が動かないといってもやはり3歳児の母親。アイハも寂しいと懐いて来るし、病気といえどいきなり危害を加える事はなく、むしろそれなりに抱きしめたり、遊んでやらなくてはならない。しかも病気だからといって、私の実家に住むという事はキキョウにとっても苦痛だろう。昼間、アイハを保育園に預けると母とキキョウの二人きりなのだから。


ディケアに通う様になってから段々とキキョウの幼児化は進んだ。

サイトウ先生が言うには、キキョウは9歳から感情の成長していない部分があるらしい。

父親の育児放棄により植え付けられた『寂しい』という認識。

何も構ってくれなかった、守ってもくれなかった父。それでもキキョウは両親に愛されたかった。

結婚相手に求めた愛情。仕事が忙しく、相手をしてくれない。私達の為に頑張っているのは分かる。けど寂しい。寂しい。寂しい…。なのに娘は私が受けられなかった愛情、私が受けたかった愛情を一身に受けている。あんなに望んだのに私じゃなく娘に注がれる愛情。


―『憎い』


自分自身気が付かなかった感情が段々とキキョウの中で膨らんでくる。

お腹を痛めて産んだ子供。憎いはずがない。でも憎い。そしてキキョウはそれを知るよしもない。その影響は身体に出てきた。そして身体は育児に拒否反応を示す…という事らしい。


まずそれを『解放』させるのが必要との事。そして、境界性人格障害という病気の特徴は、一言で言うと『ワガママ病』なんだという。

みんなそれぞれ辛い想いをして成長してきているし、それを乗り越えて大人になる。でも、自分でも気の付かないうちに、それを乗り越えられなくなってしまうのだ。意識ないワガママが許されるのは赤ん坊だけ。キキョウも一度、赤ん坊まで解放させる。しかし、身体は大人なものだから、性に奔放になってしまう人が多いらしい。それが離婚率90%を超えるという理由の一つになっているそうだ。医師自らが誘惑をする。それである程度判断出来るとのことだった。


「奥さんは怪訝そうな顔をしていました。まぁ大丈夫ですよ」


… そして幾日が過ぎたある日、キキョウは遂にアレを実行した。


『リストカット』


仕事中、昼に母親から電話が来た。


「ラブイズ!キキョウちゃんが手首切ったよ!アイハもいるしちょっと帰ってきなさい!」


…遂に来た。という感じだった。キキョウは病気になってから手首を安全ピンでよく刺していた。サイトウ医師には言われていた。「これから多分自傷行為も出てくるでしょう」と。

話にはよく聞く。でも実際に『やった』と聞くと何とも言えない嫌な気分になる。


初めてのリストカットは驚きと不安ですぐに病院へ向かった。

6針縫ったらしい。左手がぐるぐる包帯に巻かれながら点滴を打つ放心状態のキキョウがいた。


バカヤロウ。

心の中で呟いた。


キキョウは私を見つけると

「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」と壊れたラジカセのように“ごめんなさい”を繰り返した。


「…ああ、もういいよ。命があって良かったよ。もうするなよ。絶対だぞ!」


「…うん」


あと2時間は点滴にかかるとのことだった。その間、家に帰って部屋中の刃物やガラスを手の届かない場所へ隠した。そしてキキョウの点滴の終わる前にサイトウ医師と面談をした。


「刃物全部隠しましたか、ハッハッハ」


笑いやがった。こっちは真剣なのに。人の命がかかっているのに。

しかし、サイトウ医師の答えは意外だった。


「死ぬ気なんてないんですよ」


!?

辛いから死にたくてやるのではないのか?


「寂しいんです。注意をひきたいが為の衝動です。そして血を見ると安心するという衝動もあります」


理解不能だった。なぜ!?と思ったがそうらしい。そして結局止めるすべはないとの事。


「刃物を持って子供に切りかかったらどうするのですか?」


「自傷行為なので自分を傷つけるだけです」


「私、殴られたりしていますが先生…」


それは別との事。訳がわからなかった。


ますます壊れてくるキキョウ。そしてサイトウ医師のいう通り、キキョウは自傷行為を続けていく事となる。


実際母はかなり限界のように見えた。そんな時、サイトウ医師から一つ提案が持ち掛けられた。「奥さんを一人暮らしさせる事は出来ないか?」と。新しい部屋を借りなくてはならないと思っていた矢先の提案だった。

まずは子供と完璧に離す時間を作り、一人で生活をしてリズムを作るというカリキュラムだそうだ。


丁度、実家からスープの冷めない距離のアパートで一人暮らし用のところがあった。

キキョウを一人暮らしさせる不安もあったが、母と私とアイハとキキョウがうまく生活を営む為に他に良い方法が見つからなかった。週末はなるべく家族でいる約束をした。そしてキキョウと別居する事となった。


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2DKの狭い部屋。風呂トイレ別。陽当たり最悪。駐車場無し。

安いアパートだ。自分名義で借りて、実質はキキョウの一人暮らしだった。


キキョウはこの頃から夜遊びをする様になった。もちろん、そんな生活に付き合ってくれるのは同じ精神病の友人だけだった。また、キキョウもこの頃は自分を卑下して苦しんでおり、通常の友人達には会いたくないと言っていた。


アイハが遊びに来る。


「ままぁ」と懐く。


「…ママは具合悪いからそっちで絵でも描いてなさい」と寝てる。


「もっと優しくしてやれよ」と言う私。


「わたしが悪いんでしょう!!病気になったから!!」とケンカになる。


話す事が自分の事ばかりで、アイハの事が一言も話題にならない。


「おまえはアイハの事が気にならないのか?」と言うと


「わたしなんて死ねばいいんでしょう!?」とケンカになる。


ケンカになってしまうというか、わざと仕掛けてるのではないか!?というくらいケンカになった。

そんな時キキョウは「どうせわたしが悪いんでしょう!!」と牙を剥く。そして目が座る。臨戦体制に入る。もうこうなったら何を言っても無駄だ。その頃の私はそれを知らずキキョウを説得に入る。本当に無駄なことだった。


まずキキョウの罵声が飛ぶ。かなり悪意に満ちた言葉とともに手や足が飛んでくる事もあった。その時のキキョウには悪魔は乗り移っている様子に私は見えた。そして

「イヤァアァァァッ!イヤァアァァァッ!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」と過呼吸になって…ばたんと倒れる。泣きながら寝る。起きて鬱に入る。そして手首切る。というパターンだ。


…パターンだが、慣れるもんじゃない。無限のループだ。


そして一番冒頭に書いた話へと続くんだ。


from ラブイズ


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今までキキョウの病気は一時的で治るものだと思っていた。

『精神病』というものは『心が弱い人間がなるもの』だという認識だった。

だから、薬を飲んで時間が経過すればある程度までは良くなるものだと思っていた。ようは治療に関して、病院に任せっきり状態だった。


しかしもうそんな事は言っていられない。私は妻と真正面から向き合って、一生一緒にいると決めたのである。だが、キキョウとだけ生活していく訳にはいかない、私には母もアイハもいた。


病院というところは当然の事ながら、『本人の病気を治すところ』であって、『家族を助ける場所』ではない。そこに気が付かないと病院にはイライラしっぱなしになる。


病院はまず『患者ありき、その家族』という考えであり、私にとっては『妻が精神病であって子供がいる、それを母親に見てもらっている』という意識なのである。そこを踏まえて話しをしないと病院側との会話は噛み合いづらくなる。

結局、家族を守るのは自分なのだ。


そして問題は一つに絞ることにした。

『これからの人生をどう幸せに過ごして行くか?』

これが命題となる。そこから、色々と枝葉を考えるようにする。


百年後の今日は何をしているだろうか?多分、この世にはいないだろう。だから、今をどう生きるかが大切なんだ。

今日を

・幸せと思うか?

・不幸せと思うか?

せっかく生きるのであれば幸せに生きたい。では、何を持って『幸せ』とするのだろうか?

それは自分の心が『幸せ』と思うか、思わないかの差だと思う。

『自分が幸せと思えはいい。』だけど、そんなことで幸せになれるのなら簡単なことだ。ではどうしたらいい?

『満たされること』が幸せだろうか?満たす?心を?どうやって…?


…一つは感謝する事だろう。キキョウがいるから頑張れる。夜にアイハの寝顔を見て愛情を確認する。…家族のため?いや、


『自分が幸せになりたいが為に』


結局人間なんてものは自分のわがままの為に生きていると思う。

《こんなに私は頑張っている!》…なんて自分勝手で恥ずかしい。『家族のため』と大義名分を創って、それを糧にしているに過ぎない。全ては《自分の為》なのだ。

家族を幸せにしたいと思うのは自分。妻の病気を治したいのは自分。

《あんなにしてやったのに》は自分が勝手にやった事。

《なんで自分ばかり》は違う。みんな同じだ。

多かれ少なかれ、みんな何かしら悩みは持っている。その大小は比べるものではなく、悩みの大きさは個人にしかわからない。今日の晩御飯の献立に死ぬ程苦しんで悩む主婦がいれば、ひとかけらのパンに感動して感謝する子供もいるだろう。


『心の持ちようで幸せにも不幸せにもなる』ことに気付いた。

そしてまた改めて《自分がしっかりしなくてはならない》事にも気が付いた。


そして、私はこの時変わったんだと思う。

自分一人じゃ生きていけない事に気付き、自分ばかりが辛いと思う事こそが辛い時間になる事を知り、自分の責任に於いて、自分の為に家族を幸せにしようと覚悟を決めた。


物事に偶然はなく、全て必然なのかも知れない。前へ進む事だって、後ろを振り返る事だって、立ち止まる事だって、全て必然なんだ。

…ならば…ならば自分の人生は自分の為に生きよう。それは彼女の本当の笑顔が見たいが為に。

そう思った。


from ラブイズ


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キキョウと私の噛み合わない言動を分析する事にする。


何を言っても、「私なんかいなくなればいいんでしょう!」「離婚すればいいでしょう!」と、のたまうキキョウ。これは『自分自身に対する防御反応』らしい。かなり歪んだ言葉の受け取り方をする。「ご飯でも作ろうか?」と聞くと「わたしがご飯作らないって言うんでしょう!」と言う。…違う違う。するとまたキキョウはワーッ!と叫び出す。ううむ…これは流すしかない。


サイトウ医師は「会話のキャッチボールでわざと変化球にして(言葉を曲げて)受け取ろうとする感じです」と教えてくれた。


なるほど。

とりあえず、おまえは今はこうなんだよ。とキキョウに伝える。また泣くけどしょうがない。背中を撫でる。話を聞く。ワーとなる。もうこれは慣れるしかない。


「寂しがりな傾向が出てくるので良く話を聞いて下さい」と言われる。

はい、わかりました。


「体調はどうだい?キキョウ」


「…


……

………



…………

……………


………………だるい」

(約4分)


「どうダルいんだい?」


「……

…………


……

………………

…………………



…………重ダルいの。



…岩が乗ってる感じ…」

(約3分)


真面目にこんな会話だ。当初はかなりイライラした。簡単な会話が一時間はざらだからだ。鬱に入っている時は仕方ないらしい…仕事が終わって夜22:00頃帰って来てこの話しを聞くのは辛かった。ただじっと我慢して聞く。うんうん、そうかそうか。と相づちを入れる。少しでも面倒くさそうな態度をとるとすぐに「面倒クサイんでしょう!!もういい!!ワー!!」とキレる。


そして『共依存きょういぞん』というものがあることを知った。

依存と言っても頼られるのと少し訳が違う。浸透…と言った方がいいかも知れない。知らないうちに精神病的な考えに毒されていくイメージだ。


人間というのは弱いもので、いつも「あんたがわるいあんたがわるいあんたがわるいあんたがわるい…」と言われ続けると私が悪いんだ。と思ってしまうもののようだ。そして強く意志を保とうと極端な行動を取るようになる。言葉や態度にも強い口調や精神不安による正義の強調、そして相手に対して『この人には自分がいなくてはならない』、『自分が守ってやらなくてはならない』という間違った使命感が生まれる。


病気を治すのは本人だが、相手に自分が頼られることで、それに優越感を覚え、『自分がいなくてはいけない』と間違った認識で相手に過剰に接する。相手はパートナーに依存状態であるが、自分の思い通りにならないと赤ん坊のように癇癪を起こす。


お互いがお互いに依存状態になり、そして共倒れのようになってしまうのだそうだ。だから、そういうことを知り、尚且つ自分を強く意識しないと一緒にいるのは無理だと思う。


キキョウはお金に変な執着があり、毎日つける自分の家計簿が一円でも合わないと何時間でも計算し続けた。掃除も、とにかく整理整頓が気になるらしく、定物定地に定まっていないと、どんな小さなおもちゃでも何時間でも探し続けた。


『物が無くなる=自分が捨てられる』と感じてしまうそうだ。


あまり酷くなると、心因反応(精神的ストレス等によって起こる身体的反応)が起こり過呼吸、痙攣などを引き起こす。その姿を見る度に、キキョウの背中を撫で続けた。


「…もう大丈夫だから安心して」むせび泣くキキョウを撫でながら、たまに涙が溢れる時があった。この子は幼い頃のその小さな心を傷つけ痛め続けてきたんだな…そう思うと胸が切なくなった。


自分として、これだけの覚悟をして、これだけの行動をして、尚且つ、まだまだ足りない自分がいる。


健康でいる事の幸せを病気になった時は誰しもが感じる。しかし健康になると日々の生活に紛れてそれを忘れてしまう。


身近にいる大切な人が健康でいる幸せを感謝しようと思った。そして、それを気付かせてくれたキキョウ…君に感謝をしようと思う。


from ラブイズ


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キキョウが一人暮らしをはじめて、私とアイハは私の母親と暮らす様になった。


平日は保育園が終わってから夕方までアイハはキキョウと一緒にさせた。そして週末の土日だけは家族でいるように決めた。


毎週日曜日はだいたい公休日でアイハと接する事が出来た。キキョウはアイハといると鬱状態になってしまう事が多かったので、だいたいがソファで寝たきりになる。よって、朝からアイハに係りっきりになるのだが、幸い私は子供が好きだったらしく、毎週の休みは楽しみに過ごす事が出来た。なんだかんだと言いながらアイハに朝ごはんを食べさせてキキョウにコーヒーを入れる。


「今日はどこに行きたい?」と聞くといつものように「こうえん!!」と言うアイハ。毎週、毎週、違う公園に連れて行った。午前、午後と。行く時に水筒を持たせ、時にはお弁当を持っていった。


「じゃあ、ままいってくるね!」


「行ってらっしゃい」


私達が出掛けると、おもむろに掃除や洗濯を始めるようだ。休みながらも、家事は一所懸命こなしている様子だった。帰ってきて晩御飯を作る。調子がいいとキキョウが作るが、何週間も私が作る時もあった。


休みの日はそんな風に過ごした。

結婚する前からピクニックは好きで、よくお弁当を作って二人でドライブに出掛けた。アイハが生まれてからも三人でよく出掛けた。

最近でもたまにアイハが言う。


「今日はどこに行きたい?」


「おべんとう作ってピクニックに行きたい!ママが元気だったときみたいに」


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『私がキキョウの病気を治す』『夫である私しかキキョウの病気は治せない』と常に考えていた。愛を、愛情を信じていた。


その頃のキキョウはちょっとでも嫌になるとすぐに「離婚すれば!」だとか「死ねばいいんでしょ!」等の言葉を吐き連ねて、リストカットや大量服薬を繰り返す毎日だった。


辛かった。


…ある日、アイハが窓から外に転落した。

丁度、一階が車庫で二階がキキョウの部屋で高さは2m位はあったであろうか。私がたまたま夕方に用事があってキキョウの部屋に立ち寄ると身体のアチコチに絆創膏を貼ったアイハを発見した。「どうしたんだ?」と聞くと、「窓から落ちた」との事。


ありえないっ!


「病院行ったのか!?」


「…え!?何ともなさそうだったから…アイハも大声で泣いたし大丈夫かと思って…」


「バ カ ヤ ロ ウ ッ ! !頭に何かあったらどうするんだ!!今すぐに病院に連れて行くッ!!」


キキョウはこっちを睨みながら「…どうせ私が悪いって言うんでしょう…!!」と凄い形相になっていた。私は「当たり前だ!!お前が悪い!!馬鹿か!お前は!!」と怒鳴散らした。


すぐにアイハを病院に連れて行った。アイハは4歳だ。訳がわかるはずもない。会社を早退し、近所の脳神経外科へ急いで行った。アイハは見た目キョトンとしていたが、私は心臓の動悸が激しくなり、ぎゅうッと右手で胸を押えつけていた。心配で、心配で、たまらなかった。


病院に着き、MRIに入るアイハ。祈るように見つめた。…そして結果が出るまでの時間がものすごく長く感じた。


…50分後…

「何でも無いですよ。良かったですね」先生がそう言ってくれた時は安心して涙が溢れ落ちた。本当に良かった…!小さいアイハを抱き締めて心底そう思った。


アイハを母親に預けてキキョウのアパートへ向かう。

部屋に入ると案の定キキョウはリストカットをしていた。


滴り落ちる血液。

思わず目を背ける…が自分しかいない。ぐったりとしているキキョウを起こし、消毒液を掛けて包帯を巻く。


鋭く切られた皮膚。白い切口。さりげなく見える腱の様なもの。べとついてひもの様になった血液。


どれも私の正常な神経を狂わせるものだった。血と肉に対する嫌悪感は今も取り除けない、私の一つのトラウマとなった。


…傷が深いと判断した私は救急病院へ車を走らせた。

裏口から入る総合病院。スタッフも慣れているようで、「リストカットです」と告げると「分かりました」とすぐさま処置を施してくれる。今回は4、5針縫ったとの事。家に着いたのは夜の23時を回っていた。


from ラブイズ


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その後、キキョウの体調はまたどんどん悪くなっていった。


朝5時前に目が覚めるらしく、薬が増えてから身体が動かないらしい。体調に比例して言葉遣いも悪くなる。当たってくる事は無いが、携帯電話が泣く。泣く。泣く。仕事にならないので、多少放っておく。


昨日の夜にまた手首を切った。母が救急車を呼んだ為、仕事を切り上げて病院へ向かった。実家に寄ると、アイハが寂しそうな顔で迎えてくれた。

「ママにわたしておいて」とアイハは一羽、折り鶴をくれた。キキョウが元気な時にアイハに教えてくれたものだ。羽には(げんきになってね。)と書いてあった。


病院へ行くと大した傷ではなかった。「ごめんなさい」と隣でキキョウが泣いていた。一羽の折り鶴を手の平に乗せて泣いていた。そういえば私もここ最近まともな晩飯を食べていない。


精神疾患のある人と接した事がある方ならおわかり頂けると思うが、鬱状態の人を相手にすると精神的に疲れる。…なんというのだろうか…生体エネルギーが削られる感じだ。


『病院に御見舞いに行っただけなのにやけに疲れた』という感覚に似ているかも知れない。それか、内臓を素手で軽く握られたような…そんな感じで物凄く疲れる。


from ラブイズ


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遂に母が体調を崩してしまった。

家族で観ていたアイハの発表会。直後、突然「ラブイズ…私…もうご飯を作れない」との告白を受けた。理由を聞くと「最近ベッドから起きれないくらい具合が悪いの…」との事だった。夕方に家族で話し合った。

そして結局、キキョウの実家にお願いすることとした。キキョウに普通の生活は求められないことが気付いたからだ。


説得は難航した。


向こうの義父に、母がもう限界であることを話し、強引とも言う形でキキョウを引き取らせた。


そして一ヶ月程してキキョウは帰ってきた。


これからは向こうの実家とこちらでキキョウの面倒を交互に見ていくことになった。ただ、アイハがとても淋しそうなのが胸を締め付けた。出来れば義父がこちらで一緒に住んでキキョウを支えて欲しい。それは伝え続けていこう。


ある日の夜、アイハは急に暗くなり、何を話かけても反応が薄くなった。

「ママ…ママ…どこ…」と言い出し、目が虚ろになりながらポロポロと涙を流しはじめた。

アイハを抱っこした。

辛くなって泣いた。

アイハが可哀想だと思った。

ほんの一時間前にキキョウに電話したのだが、また電話をした。

しばらくアイハは泣きながらキキョウの声を聞いていた。


ママ…ママ…どこにいるの…?


わずか三歳の時から母親と離されたアイハ。辛かった。しばらくしてキキョウと電話を代わった。


少し早く帰って来てくれないか?の言葉に、「アンタが帰ってくるなって言ったんでしょう!」と怒鳴られた。そして「裁判で訴えを起こしてやるからな!オマエとオマエの母親のせいで私をこんなことにしやがって!」と叫びだした。


裁判…?

本当に頭のオカシイ人だと思った。


勝手にしろ

もう知らない


キキョウに「早く帰って来るんだ。話しをしよう」と言って電話を切った。電話を切った後、アイハと少し話をした。


キキョウの病気のこと

一緒にいるとこう大変な事があること

理不尽な事があること

アイハも苦労するであろうということ

パパはなるべくみんなが幸せになる方向で進みたいと思っていること

アイハが大切だということ


アイハは真剣に聞いていた。


今までなるべく普通に生活させてやりたいと思ってやっていたが、これからはそうはいかない。アイハは母親の病気を受け入れなければならない。

辛いが仕方なかった。


向こうの親に預けていてもキキョウの病状は良くならないと判断し、呼び戻した。がキキョウと母と三人で話をしたのだが、どうやらキキョウはアチラの実家でアイハを引き取って暮らしたい様子をほのめかす。


ただ『性格の不一致』等で離縁するならそれも一つの手段かも知れない。

しかし現状、育児が出来ない状況がこの五年間ありどのように生活して行くのだろうか?『アイハはそちらへは預けられない』そう伝えた。


君は精神障害者なんだ。

障害者手帳ももらっているだろう。

『ただ離れたくない』という理由だけで、アイハに負担をかけさせたくない。


私の考えは間違っているのだろうか?子供の面倒もろくに見る事が出来ないのにアイハを預けてもいいのだろうか?


アイハに携帯電話を持たせた。何かの際のSOSの為にと、親子のコミュニケーションの一つとして。


携帯電話を持たせる事についてアイハに伝えた事がある。


「アイハ、一つ覚えておいてもらいたいんだ」


「なに?」


「メールって便利なんだ。これからは手紙みたいに待ってなくてもすぐに返事がくる」


「うん!」


「ただ、メールで分かる気持ちは四分の一だけだっていう事」


「よんぶんのいち?」


「ああ、四分の一分からないか、えーっと、半分の半分」


「はんぶんのはんぶん?それならわかる!」


「そう。結局、携帯電話の文字って機械の字だろう?手紙なら自分で書くから字にも気持ちがこもるけど、それが分からない。それと、やっぱり顔を見て話さないと分からない事がたくさんあるんだ。

だから、メールは便利だけど、『半分の半分』なんだっていうのは覚えておいて欲しいんだ」


「わかった!」


そう話をした。


その後…私が妻を受け止めなくなってから、妻の周りの人たちの私への評価は恐らく地に落ちたであろうと感じるこの頃。


キキョウは毎日家事や子育てを頑張っている。それはアイハと一緒に暮らしたいが為にだろうか?私に認められたいからなのだろうか?


私は一つ、妻に気付いてほしい事がある。それは、『感謝する』という感情だ。人間の徳の中でも大切な『感謝』の話を何度かしたが、恐らくは理解出来ていないと思う。


『私に感謝しろ』というおこがましい気持ちではない。そうじゃない、そうではなくて、なんでもいい。たった一つからでいいんだ。


暖かい部屋にいる事が出来るのは暖房を作ってくれた人がいたから。

遠くの人と話しが出来るのは電話を作ってくれた人がいたから。

遠くまで自分を移動させてくれたのは飛行機を作ってくれた人がいたから。

空気があるから呼吸が出来る。

地面があるから真っ直ぐに立てる。

太陽があるから陽の暖かさを実感する。

水があるから喉が潤う。


本当の意味で『感謝する』事に気付いてほしい。


『なんで私ばかり…!』はひとりよがりだと思う。ほんの少しでも『生かされている』事に感謝すれば色々な事に気付くと思う。


それがキキョウの人生に何よりも必要と思う。

でもそれは私のひとりよがりなのだろうか?

そんな事を関係無くして妻を支えなくてはいけないのだろうか?

人に失望して自分の心を傷付け、人を攻撃して傷付ける人生をいつまで続けるつもりなんだろうか?


でも、しかし、これを伝えてもまた罵られる。

どうしてわかってもらったらいいだろう。

今は気付いてもらうのを待つばかり。

しかしきっと、彼女は気付かないだろう。もうどうしたら良いか、わからない。


from ラブイズ


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またキキョウが実家に戻っていた時、私はこれからの不安に限界を感じていた。

いつまでも治らないキキョウに恐怖を感じていた。

そしてメールをした。今の不安定な気持ちを全て吐露した。

日々の恐怖

将来の不安

何をして

何を思い

どう生きていけばいいのかを。

切実に私は訴えた。


彼女からの返信は私の一留の望みを粉々にした。

それは怨々と繰り返される私への罵詈雑言だった。


…私を切り捨てようとした彼女に愛情をどうやって持っていられるのだろうか?

私が間違っているのだろうか?

結婚したから?

病気だから?

私が傷つく以上にそれだけ重いものだろうか?


最近、キキョウは落ち着いている。家事も良くこなし、良い母親であり、なるべくイライラしないように自分で努力している。

しかし、正直私は信じられない。私の悪口を言い続けた彼女をどこかで信じきれないのだ。


(またきっとどこかで悪口を言っているんだろう)


そう思ってしまう。それも全て受け入れればいいのに、そんなことも出来ない。


本当はまた裏切られるのが怖い。

…心から信じていた人に。

…いつかこの想いが報われると、この人と一緒にいて良かったと、そう思える日を信じて過ごしていた。だけど、それは、自分がちっぽけな人間なのかも知れないが、ズタズタに引き裂かれた気がして…

…それから、真意はいつも閉ざしている。月並みかも知れないが、今はアイハの為に家族でいるのだ。だからといってキキョウと一緒にいるのが嫌な訳ではない。

彼女も苦しんでいる。人並み以上に苦しんでいるのだ。


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最近の私はキキョウとのこの歪な生活にかなりの精神的疲労を感じていた。心の中は混沌とし、気の休まる余裕がなかった。


1月31日(土)

ふと目が覚めるとちょうど夜中の0:00だった。

ふいに不安が襲った。

自分が今、精神的に不安定だったのは感じていた。そしてこれまで幾度なく受け入れてくれなかったにしても、やはりキキョウに安らぎを求めずにはいられなかった。

しかし、キキョウは私を受け入れることは無かった。


急に孤独になったように思い、自らの心の重圧に押し潰されそうに感じた。頭がおかしくなりそうだった。キキョウの寝室へ行き、最後にもう一度聞いてみた。

「もう愛情は無いか…?」

キキョウは頭から布団を被ったまま無言だった。

「…わかった…」

そう言って戸を閉めた。

途端、なんだか体がフラフラして自分の心の中が空虚で埋め尽くされていった。

自分が世界中でたった一人になってしまったような…自分の部屋のベッドに戻り、まるで赤ん坊のように頭から布団を被って丸まった。

頭は二日酔いのようにくらくらして、心の中の恐怖と不安を必死に押し込めた。


とにかく私はキキョウに支えてもらいたかったのだ。


from ラブイズ


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2月2日(月)

精神的疲労を感じながらの出勤。


22:00頃帰宅するとキキョウは居間にいて何事もなかったように「おかえり」と言った。


言葉が出なかった。私が居なくなろうが居ようが彼女には何も関係は無い。そもそも彼女にとって私は何なのだろうか。今までしてきたことは何だったのだろうか。


毒だ。

こいつは毒だ。


私の母を病気にし、私の心を粉々にする。


真っ暗い、粘土のような黒いものが心に渦巻き、取り付いたような感じがした。


無言のまま風呂に入り、上がるとキキョウの姿はもうなかった。


私なんて居なくても必要無い。


本当に一人になったという感じがした。


from ラブイズ


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2月3日(火)

段々、自分が真っ暗な影で覆われていくイメージだ。


暗い黒さが身にまとわりつく。


心が徐々に黒い汚水に浸水されていく。


夜帰宅するとキキョウはもう床についていた。キキョウとの会話は全くなく、ストレスがピークに達していた。


キキョウのタバコに水をかけて捨てた。

以前からアイハが喘息なのにキキョウがタバコを吸うことに嫌悪感を持っていた。


水をかけたタバコから茶色い水が染みだしている。


それを飲めば死ねるのだろうか。


死ぬならもっと確実な方法がいい。


そんなことをぼんやりと考えていた。


from ラブイズ


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2月4日(水)

心が沸騰していた。


夜はなかなか寝付けない。


無理矢理、沸騰した心を黒い何かで覆い包む。


朝からストレスはピークに達していた。起きてきたキキョウを見てその怒りが爆発した。


「もう目障りだ!!!お前みたいな女はいらない!!!」

キキョウに言い放ち出勤した。


仕事中も黒い心が肉体を支配した。


もう限界だった。


誰かに抱き締めてもらいたかった。


夜に帰宅するとキキョウは歯磨きをしていた。


キキョウの元へ近寄ると「いい加減にしろ!!!」と怒鳴った。

そして「もうお前みたいな女はもういらない!!!」とまた叫んだ。


「もう出ていっていい!私は浮気をしたくないから他に好きな人を探すから!おまえも他に自分を受け入れてくれる人を探したらいい!!!」


そう言うとキキョウは「嫌だ」と言った。


心はざわめき立ちぐらぐら煮立っている。


頭が上手く回らない。


しばらくしてなぜ私がこんなに怒っているかをキキョウに問い質した。


キキョウは「セックスしなかったから」と言い放った。


「違う!!違う!!私は…私は心が満たされたかったんだ…!!!」


「……ごめんなさい……もう出て行きます…」


「馬鹿!!そういうことじゃない!」


キキョウはうつむいていた。


「そばに…心の傍に居て欲しい」


「…心の…傍に…?…私でもいいの…?」


「うん…」


「そうか…あなたも辛かったね…」


キキョウは泣きながら抱き締めてくれた。


私は「酷いこと言ってごめん」と謝った。


キキョウがわかってくれたと思い、心がじわじわと満たされていった。

一番愛されたい人からの無関心は弱い心をたちまち黒く支配することを私は知った。



from ラブイズ


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2月5日(木)

いつも通りの朝

いつも通りの仕事

いつも通りの帰宅


ただいつもより妙に優しかったキキョウ

いつもより妙に馴れ馴れしかったキキョウ


「明日はアイハの遠足だから早起きしなきゃ。」と言ってキキョウは床についた。


黒い私は成りを潜めている。


やけにべったりとまとわりついてきたキキョウ。


昨日あんなことがあったからだろうか。


まぁいい。

またいつも通りの毎日がはじまるだけだ。


そんなことをぼんやり考えながら私も眠りについた。



from ラブイズ


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2月6日(金)

朝、早起きをしてアイハのお弁当を作っていたキキョウは私にキスをして送り出してくれた。


いつも通り仕事をし、帰宅した。


家に入るといつもは起きているキキョウがいなかった。具合でも悪いのかな?と二階のキキョウの寝室を覗く。


いない。


一階の奥の部屋で休んでいるのかな?と階段を駆け下りる。


「キキョウ?」


いない。


アイハに確認するか…とまた二階にあがる。


「アイハ…ッ!?」


いない!?


アイハもいない!?


「アイハァ!」


返事はない。


また一気に下へ駆け下りる。


「…浴室か!?」


ガラッ!!


「いないッ!!!」


少し待て。少し落ち着こう。なぜいない?実家か!?電話だ!


トゥルルルトゥルルル…ガチャ


「母さん!アイハとキキョウ来ていないか!?」


「はぁ?いないよ?どうしたの?」


「いないんだよ!!」


「はい?」


「家に帰ったらみんないないんだよ!!」


「はああ?」


「いないんだな!?わかった!切るぞ!」


「あんた!ちょっと色々電話しなさいっ!」


「分かってる!!」


乱暴に電話を切った。キキョウの実家か!?


トゥルルルトゥルルルトゥルルル…

トゥルルルトゥルルルトゥルルル…

出ない!

…待て、買い物帰りとかに事件や事故に巻き込まれたのではないか!!?

警察だ!!!


トゥルルガチャ

「…はい警察です。事件ですか事故ですか?」


「あ、いや、家に帰ったら妻と子供がいなくて、それで、何か事件にでも巻き込まれたのかと、何かわからないかと、連絡したのですが…!!」


「分かりました。警察官を向かわせますので、そちらで詳しい事情をお話下さい」


「分かりました!!」


受話器を置いてすぐ後に警察署から携帯電話に連絡が入った。警察署で事情聴取するとの事。すぐに警察署へ向かう。


夜21:30警察署へ到着。奥の事情聴取の部屋へ連れて行かれた。


「…ご主人さん。奥さんとお子さんの安全は確保されています。ご安心下さい。」


「…うン?…なに?」


「奥さんとお子さんは然るべき施設に入っており、身の安全は確保されていますのでご安心下さい。」


「…施設って…?」


「女性の方の為の『シェルター』ってご存知ですか?いわゆるDVなんかで駆け込む『駆け込み寺』みたいな…そこにいるんですよ」


「…とりあえず大丈夫なんですか?」


「ええ無事です。ご安心下さい」


「良かったァーーー!!!」

本当にそう思った。生きていることが何より安心した。


土日は家にいることを伝え、施設ではなく元となる連絡先を教えてほしいと言ったが、聞いてみないと分からない、後で連絡するとの事で一時帰宅した。

明日には連絡が来るかな…などと考えながら床についた。


from ラブイズ


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2月8日(土)

朝、警察署より連絡が入った。


昨日の話は伝えたとの事だった。

そして母が家に来た。


「おまえ、DVの施設なんてキキョウちゃん最終手段に出たよ。それ解っているの…?」


「…あァ…そうだな…さすがにもうダメだよな……離婚しかないか…」


「バカ!そうじゃなくてアンタ訴えられたら家も財産も全部持ってかれるんだよッ!!」


「…なんだそれは?」


どうやら母の話によると、現存のDV法は圧倒的女性優位で証言がそのまま証拠になり得るという恐ろしい話だった。


「アンタ離婚の意思は本当に固まっているのかい?」


実は一年前、なにかの時はもう別れるからアイハのことを頼むと母には約束していた。


「もうこうなったらおそらく無理だな…前も言ったとおり何かの時は頼むとお願いしたよな?今がその時だと思う」


「そうね…でも本当に…いいの?」


「…そうだな…じゃあ、とりあえず離婚の方向でいくことにするよ…」


「あんた本当にしっかりしなさいよ!とりあえず月曜日にアイハが登校しているか確かめに学校に連絡しないと」


「学校!?…んん…そうだな…私も少しネットでDVとか調べてみるよ」


「わかった。あんた自暴自棄になって間違いだけ起こさないようにしなさいよ!」


「…わかっているッ!もう今日は帰ってくれ!」


「…わかった…じゃあ今日は帰るから」


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その後インターネットでDVについて調べてみる。

「なんだこれは…!?」

それはすごい法律だった。


DV法とはただ殴る蹴るなどの暴力行為だと思っていた私はなにか胃にくるものを感じた。


『被害者の証言がそのまま証拠になる』

との記述だった。母の言っていたとおりだ。それはつまりあることないこと全て被害者と呼ばれる方の優位に働くというものだった。


そして、中にはもう1年以上も子供に会えないという例も見付けた。


暴力と呼べる具体例というのには、


《身体的暴力》

・殴る・蹴る・物を投げつける・刃物を突きつける・首を絞める・髪の毛を引っ張り、引きずり回す

《精神的暴力》

・何でも従うように強要する・外出を禁止する・無視をする・人前で暴言を吐く・侮辱する・大事にしていたものを捨てる、壊す・罵詈雑言を浴びせる

《性的暴力》

・性行為を強要する・見たくも無いポルノビデオ、雑誌を見せられる・暴力的な性行為を強要する・避妊に協力してくれない・中絶を強要する

《その他》

・生活費を渡さない・子供の前で暴力を振るう・故意に子供を危険な目に遭わせる

とあった。


…ほとんど逆にくらってる。

しかし、なんにせよ自分がそういうものに訴えられているらしいという事実が、苦しく心を締め付けた。鈍く…鈍く…心が圧迫される感じだ。不安と恐怖が入り混じったような…

…そんな感じがする。


どんな理由であれ、大きな声で怒鳴ったことはあったし、投げ飛ばしたこともあった。セックスの要求をしたこともあったし、生活費は自分が管理していた。羽交い絞めにしたこともあったし、何日も無視したこともあった。


(…きっとすぐに帰ってくる。)


そう自分に言い聞かせてベッドに倒れ込んだ。


余程頭が疲れたのだろう。

いつの間にか寝てしまった。


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2月9日(日)

警察は「施設は土日が休みだから、おそらく連絡は来ませんよ」と言っていたが、一日中家で待っていた。


…もちろん連絡はなかった。


途中、母親から連絡があった。

母が知人に相談したところ、児童相談所に話を持っていけばなんとかなるかもしれないとのことだった。


児童相談所か…

最悪アイハを保護する上では有効かも知れない。


…段々と気持ちが追い込まれてきた。


from ラブイズ


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2月10日(月)

8:00

アイハの学校へ向かう。

最初にアイハの担任が現れ、先週の金曜日にキキョウから連絡がありしばらく休むとの連絡があったと聞く。その後、教頭との面談により経緯を伝える。学校側としては子供の安全が第一と言っていた。


9:00

学校から児童相談所に連絡、シェルターに入っている間は介入が出来ず、施設を探すことは出来ないと言われる。

学校を後にする。


9:50

キキョウの病院に到着。主治医のサイトウ医師は風邪の為に休みだった。


10:00

病院の待合室にいると警察署から携帯電話に連絡が入った。

「…奥さんはDVを訴えているようです…事務を担当しているところもどこか教えられないとの事です。あとこのような場合、警察はあくまで捜索願いを受理するかしないかの機関で仲介ではありませんのでこれ以上は連絡はとれません」と冷たい声で言われた。

(DVオカスクソヤロウ)と裏の声が聞こえるほどの、手のひら返しだ。

「…じゃあ連絡はどうしたらよろしいのですか?」と聞くと「とりあえず向こうから来るのを待って下さい」とのこと。


その日は電話が来るかと家で待っていたが来ることはなかった。


from ラブイズ


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2月10日(火)

8:00

キキョウの主治医のサイトウ医師と面談をした。

施設に入ったとなると、医療の手から離れて司法の手に委ねられるとの事で、然るべき弁護士の要請があって診断書なりを提出することが出来るとの説明を受けた。


9:00

昨日、会社の先輩から教えてもらっていた弁護士に電話をした。


トゥルルルトゥルルル…

「はいルドルフ法律事務所です」


「…親権のことで相談がありまして…」


「はい先生に代わります。少々お待ち下さい…

…はいお電話代わりました、ルドルフですが、用件はなにか?」


「はい…実は妻がDVシェルターに駆け込みまして…それで親権が欲しいのですが、どうすればよいのかと思いまして…」


「あぁそれは無理じゃない?」


「!!

いや、しかし妻は精神障害の2級で育児放棄や何度も自傷行為を行っているんです…!」


「ふむぅ…じゃ、一回相談に乗りましょう。明日は無理なので明後日の朝8時になります。料金は一時間50ドルですが、よろしいですか?」


「は…はい、宜しくお願い致します」


「ではお待ちしています」

…ガチャ・プープー…


その日は仕事に出て、夜に弁護士の先生に提出する為にこれまでの経過と、日記をプリントにしてまとめた。



from ラブイズ


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2月12日(木)


朝一番で母と一緒にルドルフ法律事務所へ赴く。

<ピンポン>

「すみません、先日お電話致しました…」

<ガチャ>

「どうぞ。やあやあよくぞおいでなさいました!そちらへどうぞ。」

小柄な商人のような、それでいて言葉が力強い初老の弁護士だった。


「はい、今日は宜しくお願いします…」


「…でどんな相談ですか?」


「はい、こちらをお願いします…」


昨日まとめた資料を提出する。


食い入るように真剣な眼差しで飛ばすことなく、A4用紙20枚にはなろうかという資料に目を通すルドルフ弁護士。

過去から現在までの、そして最近のけんかの内容まで隠すことなく綴った内容だ。自分にとって嫌なことも、妻を羽交い絞めにしたことや、声を荒げたこと、渡せなかった生活費のこと、全てを書いた。


…約15分、ルドルフ弁護士が資料を読み終わるとゆっくり顔をあげた。


「…ご主人のはDVじゃありませんよ。」


…泣いた。ずっと怖かった。


何が怖かったというのは、自分が信じて家族を守ってきたものが、全て否定される事が怖かったのだ。


「…しかし…親権を取るのは4割から5割の確立でしょうな。

子供が小学校低学年の場合、子供の意見が最優先されるのです。どんな母親でも母親であることは間違いないので、たいがいは母親と一緒に居た方がいいと判断が下される。

まずは調停を申し立てたほうがいいかな…

相手がどこか遠くに行く可能性がある場合、調停を申し立てた相手の所在地の家庭裁判所の管轄になります。だから仮に相手の実家が遠ければ、ここからそこまでまで行かなければならなくなるのです。これは大変ですから。

向こうの流れとしましては、まず女性の権利委員会というものがあるのですが、そこで弁護士会といわゆるタイアップという形をとっており、弁護士が紹介されます。そこで一週間ほどで保護命令が出るのですが、緊急措置ということで離婚調停を申し立てるということになります。

どちらにしても、調停で話し合いがつかなければ不成立となり離婚訴訟へ発展します。しかし、訴訟になって裁判になったとしても、その中でまた和解することも可能です。そして、調停にも訴訟にも相手が出て来ない可能性もあります。その時は『証拠調べ』の裁判所の方で行い、特に問題がなければこちらの言い分を100%みなし、勝訴となります。

妻側に親権を取られると今度は面接交渉権を得ることになりますが、実際問題相手が嫌がると会えないケースが多いようです。こちらは養育費なり支払わないと財産差押えなど法的に行使されるのに割りに合わないのですが、今はそういう時代になってしまっているのです…残念ながら…

…まずは離婚してもよいという考えなら、私は調停を申し込んだ方がいいと思います。相手が遠くに行けば行くほど、現実的に話し合いは困難になります。もし相手が実際に遠くに行っていた場合はこちらから取り下げることも出来ますので…離婚調停は裁判所で受け付けております。戸籍謄本と住民票、印紙代、そして郵便切手代がかかります。

もしそれで調停が不成立におわり、裁判になって向こうの弁護士が訳のわからない専門用語を振りかざすようだったら、私でよろしければ弁護致しますのでいつでもおいで下さい」


…あっという間に一時間半が過ぎようとしていた。


心の中は道が示されたというひとつの安堵と、これから先どうなるかという不安、そして混沌の中、漠然とした恐怖が漂っていた。


とりあえず言われた通りのものを用意し裁判所へ向かう。


裁判所の方はとても事務的で機械のように仕事をこなしていた。私はひどく場違いな気がして虚ろに作業を進めていた。


混乱と不安と恐怖の中、生まれて初めて『自分を見失う』ということを知った。


自分にとって理不尽とも思える問題が起きる。

そしてその問題や当事者や環境に対して怒りを持つ。


怒りの根底には恐れがあり、

恐れの裏側には不安がある。


そしてその不安を一つ一つ『覚悟』に変えていく。


あらゆる問題は一つの事柄だけではなく、いくつもの事柄が複雑に絡みあって起きている。


その不安な事柄の一つ一つを紐解き、覚悟に変えていく。


時には絡み合った不安を理路整然とほどきながら見極め、その一つ一つを覚悟に変えていく。


だから時間がかかる。


『気持ちの切り替えを上手にすること』と『覚悟すること』は違う。


覚悟とは『最悪の事態に対する決意』の事。


一つ一つの事柄を


受け止める。

受け入れる。

受け流す。


だけど、全てを受け止めたり受け入れたり受け流したり出来るはずもない。


出来ないことは出来ないこととして受け入れる。

そして

そういうことを

感じて

考えて

思って

想いながら

普段の生活をこなす。


だから余計時間がかかる。


中にはそれが

出来ない人や

感じない人や

考えない人や

思えない人や

想えない人もいると思う。


だけど、それも全て正しいことだと思う。人間は全て違う人間なのだから正しい答えなんて無い。だから相手の価値観をお互いに認めて受け入れて生きて行く必要があると思う。


本当は今も心が押し潰されてしまいそうに感じる。

愛情は無くしていたとはいえ、突然妻が子供を連れていなくなりしばらく経つ。


その後、

3月5日に初調停があった。


私が申立てた調停だったので最初に申立ての理由を聞かれた。

私はこのような状況になった全てのけじめをつける気持ちでいた。向こうは弁護士がいたが、DVでは訴えていなかった。彼女は去年から言っていた離婚をしたいと。そして、とにかく子供と離さないで欲しいという懇願を訴えてきた。


…私は親権を彼女に譲り、彼女の言い分の全てを受け入れた。


私はいつも彼女に「相手の価値観を受け入れないといつまでたっても自分の価値観を受け入れてもらえないよ。」と言い続けてきた。


ここで私が彼女の考え方を否定し、親権を奪ってもそれは今まで私がとってきた行動に筋が通らなくなる。


そして私もこの一ヶ月間子供と離れ、

子供がいない辛さを

子供がいない心配を

いやというほど感じた。


3歳から5年間離された母子。

母親のそれはおそらく私が感じるほど以上に強く、これ以上彼女と子供を離すことは出来ないという、私にとって苦渋の決断をした


例え親権を取ったとしたら、彼女は自殺や子供を誘拐、無理心中をするかも知れない。


母親の子供に対する育児放棄などの懸念が拭えないまま、子供が確実に苦労の道を歩むのを解っていながら、そのような決断をした。


何一つ最良の考えが浮かばない中の決断だった。



from ラブイズ


――――――――――――――――――――――――――――――――――


この間、ふとアイハと過ごした公園に立ち寄った。


ベンチに座り、矯声をあげる子供をぼんやり見ていると、散歩の途中という年配の女性が話し掛けてきた。


「子供って見ていると飽きないですよねぇ」


深く刻まれた皺をにっこり持ち上げながら、柔和な笑顔を見せてくれた女性に、私はぽつりぽつりともうしばらく会えることのないアイハの話をした。


小さい頃、母がアイハに「りんご食べるかい?」と聞いたらアイハが言った。

「りんごはたべない。かきがたべたい。」


そんな話で泣いてしまうおばあちゃんを見て、涙を堪えた。


母との会話の最中にふと、アイハの話が出る。

山を見て「きれいだね。」と言ったアイハを思い出して、母が泣いた。

そんな母を見て、涙を堪える。


アイハを思い出すたびに心が揺さぶられる。


ある人が言ってくれた。貴方の気持ちもわかるけど、子供のことを考えると、貴方が会いたい会いたいだけで、いたずらに子供の心を揺れ動かすのは良くないよと。


そういう考えもあるな、と思った。


でもアイハに会えなくなって11ヶ月が過ぎる。


大きくなったら会いに来るよとみんな言ってくれるけれども、会いたいなら弁護士雇ってとか言ってくれるけれど、中々難しい。


アイハに会いたい。


from ラブイズ


――――――――――――――――――――――――――――――――――


そして毎日


『自分は何の為に生きているんだろう』

『何の為に生きてきたんだろう』


そればかりを考える日々が続いた。


訳もないのに涙が溢れてくる日々が続いた。

胸が痛くて苦しくて息が詰まり、痣が出来るほど自分の胸を叩き続けた。


家族に捨てられた。


その現実からは逃げることが出来ず、自己否定や猜疑心、寂しさや苦しさが渦巻いた毎日だった。


ある時、また手に取った本に『人間は幸せになる為に産まれてきた』とあった。


腹が立った。


その本は壁に投げつけられた。

そして思った。


『わかった。今ここからどれくらい幸せになれるかやってやる』


絶望から

自暴自棄になり

怒りに転じ

そして結果的にはそれが前に進む力になった…のかも知れない。


けれど、『前向きになる』というのはいつも前を向けるわけじゃない。ほんの少し向けるようになっただけで、すぐに後ろを向く癖が付く。というか人が怖くて信用できない。


人は裏切る

命を懸けて愛してもいなくなる

嘘をつく

自分に必要無くなったら簡単に捨てる

まるでごみのように捨てる

価値が無いから

存在価値が無いから

そうして自殺もたくさん考えたが、アイハにこれ以上のトラウマを背負わせるわけにはいかないと

その一念で我慢し続けた。


悲しみと虚無感は拭えない。


だから、映画やドラマで簡単に何かを乗り越える物語は嘘だと思ってしまう。本当は、気持ちは前向きと後ろ向きが行ったり来たりだと思う。


そうやって少しづつ前に向いたり、後ろに向きっぱなしだったりを繰り返して時は過ぎるのだと思う。


『愛』について考える。


『愛』なんて存在しないのではないか。

事実、元妻に対する愛情は失ったように感じる。そして憎しみもない。

もう関わりたくない。というのが本音だ。

自分がこれ以上傷つけられたくない。

自己愛が過ぎると周りを傷つけるのだと思う。


『自己愛』

これが全てかも知れない。

全ての事象は自分の目の前に映し出される。

自分の脳が考えることだ。

自分の都合の良いように脳は解釈をする。

自分の心を守る為に。


でも、毎日アイハのことは想う。

心の底から湧き出るものを感じる。

温かい何かが込み上げる。

それは紛れも無い『愛情』なんだと感じる。

それは否定出来なかった。


よくテレビ等で見る『失った子供のことを毎日考えている』なんて嘘だと思っていたが、本当だった。

離れてから今日まで、毎日あの子のことを考えている。


そうやって

ただ息をして、

自己否定をして、

無感情になって、

母親が持って来るご飯を食べて、

シャワーを浴びて、

トイレに行って、

息をして、

泣いて、

胸が苦しくなって、

仕事して、

歩いて、

走って、

夕日を見て、

息をして、

泣いて、

胸が苦しくなって、

夜に震えて、

泣いて、

自己否定して、

泣いて、

何時間も身体が動かなくなったりして、

テレビ見て、

本を読んで、

泣いて、

悲しくなったりして、

とかいう毎日を過ごしている。


毎日生き続けているから、ドラマのようには行かず


…案外こんなものなのかも知れない。


from ラブイズ

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