67 こんな時こそ冷静になりましょう4
「催淫剤だよ。体に入れたら、ちょっと感覚が鋭くなるくらいだし、軽いやつだから二時間もあれば効き目は切れる」
「さっ、催淫……って、渉ちゃん! もしかしてこの可愛らしい男の子と……っ?」
息子の素行にショックを受けた山下父が真っ青になる。
「君、まだ高校生くらいですよね」
「はい。桜が丘の……三年です」
「ああ……よりによってうちの生徒だなんて! 渉ちゃん! あなたいい歳して何を考えてるの!」
「パパ……ごめんなさ…………ふぐっ」
父親なのか母親なのかわからない状態になっている山下父から力一杯頭を殴られ、山下はうめき声を上げて床に倒れ伏した。
そのまま気を失ったらしく、フローリングの床の上でうつ伏せになったままピクリとも動かない。
「仕方がないです。松本くんは薬の効き目が切れるまで安静にしておくしかないようですね……って、久志さん! 何やってるんですかっ!」
「何をって、いつまでも下着一枚のままだと夏樹が可哀想じゃないか」
「だからって何故それなんですか!」
「夏樹が着れそうなものがこれしかなかったんだ」
久志はそう言うと、茶色い着ぐるみに身を包んだ夏樹のことをぎゅっと抱きしめた。
「ふっ……ん」
「すまない、苦しかったか?」
抱きしめた拍子に夏樹から苦しげな声が漏れる。
あわてて腕の力を緩めた久志が夏樹の顔を覗き込んだ。
「大丈夫……です……」
胸元で顔を上げた夏樹と目が合った久志が息を飲んだ。
薬の効き目が出てきたのだろう、頬がほんのりとバラ色に染まっている。僅かに伏せられた瞳は涙で潤み、薄く開いた唇からは吐息混じりの熱い息が漏れ出ていた。
「な、夏樹」
完全にスイッチの入った久志が夏樹のことをベッドに押し倒した。
「――――んあっ」
「夏樹、私の可愛い子リスさ…………んっ」
「はい、久志さん。そこまでです」
芹澤が久志の後ろ襟を掴んで夏樹から引き剥がす。
「芹澤!」
「久志さん、落ち着いてください。ここをどこだと思ってるんですか。それに、まず松本くんを休ませてあげないと。あ、君、理央くんでしたっけ、ちょっとこの人を運び出すのを手伝ってください」
「芹澤……っ、お前が本当はやたらと強いんだって山路にバラすぞ……っ」
久志の言葉に芹澤が一瞬動きを止めた。
「知ってるんだぞ、芹澤。お前、山路の前では非力なふりをしているだろう!」
「何を言われているんですか? 意味がわからないんですが」
「意味がって、お前山路が……ぐっ」
すっと表情をなくした芹澤が久志の後ろ襟をキュッと締め上げた。
「せっ、せりざ……わ、悪かった……も、やめ」
このままでは落ちてしまうと、久志が芹澤の腕を必死で叩く。
芹澤は、久志が余計なことを言ったと反省しているのを見て取ると、締め上げていた力を緩めた。
「お分かりになればいいです。私は久志さんと違って、仕事に私情を持ち込むような真似はしませんので。山路くんがどうとか、余計なことを言わないでください」
「…………」
「芹澤さん? 俺のこと呼びました!?」
芹澤が久志に説教をしていると、部屋のドアから山路がひょいと顔を出した。
「山路くん、ちょうど良かったです。専務の気分が優れないようなので、部屋の外へお連れしてください」
「分かりました! それと、向こうの部屋でこの男を見つけたんですが、どうしましょうか?」
後ろ手に拘束した青嶋を山路が芹澤の前に差し出す。
「あなたは」
「三郎ちゃん! あなた、どうしてこんな所にいるのっ!?」
「……義兄さん!? なぜ義兄さんが?」
「渉ちゃんがいけないことをしているって教えてもらったから、叱りにきたのよ――――えっ!? もしかして、三郎ちゃん、あなたまさか……」
うつ向く青嶋の様子から、これ以上ない最悪の状況に思い至った山下父が、よろりと後方によろめいた。
「危ない!」
理央が咄嗟に山下父の背中を支える。
「……あ、ありがとう。理央くん、だったかしら。いい子ね」
「いえ、そんな」
山下父に微笑みかけられ、理央が照れたように頬を染めた。
「あの、すみません、義兄さん……私、渉くんに脅されて、つい……」
「そうだったわ! 三郎ちゃん! 悪い遊びはもうしないって千鶴子と結婚する時に約束したじゃないの!」
このおバカ!と、山下に続き青嶋も山下父から思い切り頭を叩かれ、その場に膝をついた。
「すみません、すみません……義兄さん、許してください……」
薄くなった頭頂部を床に擦りつけるようにして、青嶋が山下父へ許しを請う。
「三郎ちゃん……謝る相手が違うんじゃないの?」
山下父が、ため息をつきながら青嶋の肩へ手を乗せた。顔を覗き込むようにして微笑みかけられ、青嶋が何かに気づいたようにはっと目を瞠る。
「まっ、松本くん! 本当にすまない!」
「青嶋さん……」
今度は夏樹の方へ向けて青嶋は頭を下げる。
父親に近い年齢の青嶋が、土下座をして必死に夏樹へ許しを請う姿は、何だか見ていて居たたまれない。
「あの……もう、いいです。もういいですから、頭を上げてください」
「松本くん!」
ベッドに横たわったまま、力なくそう告げる夏樹の方へ、涙と鼻水でグシャグシャになった青嶋が思わずといった風に駆け寄り、上掛けの端から見えている細い指先へ手を伸ばした。
「汚い手で私の夏樹に触らないでくれないか?」
「紺野くん」
青嶋と夏樹の間に久志が割って入る。
「夏樹が許しても、私は別だ。それ以上夏樹に近づくなら、私にも考えがある」
冷たく言い放つ久志を見て、青嶋の顔色が変わる。
久志の祖父、久蔵の豪傑ぶりは財界では有名で、自分の目的を邪魔する存在を排除するためならば、どんな冷淡な仕打ちも平気でやってのけた。
実際に、そのせいで人生をダメにしてしまった人物を青嶋も知っている。その祖父と性格がそっくりだと噂されている久志を敵に回すということは、はっきり言って自殺行為だ。
青嶋は出した手を慌てて引っ込め、夏樹から離れた。
「ほら、三郎ちゃん、私と一緒にいらっしゃい。二度と悪いことなんてしたくないって分からせてあげるわ!」
山下父は、気を失ったままの息子と、項垂れている青嶋を引きずりながら部屋から出ていった。
「……あの」
「理央くん、あなたには聞きたいことがあります。私についてきてください」
山路と理央を連れた芹澤も出ていき、部屋の中には久志と夏樹だけが残った。
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