41 知っている人にもついて行ってはいけません3

 コンビニから歩いて十分もかからない場所に山下が住んでいるマンションはあった。まだ真新しい八階建てで、三階でエレベーターを降りて一番奥が山下の部屋だ。


 コンビを出てからは、さすがに山下も夏樹の手首から手を離した。それでもマンションまでの道中、隣を歩く山下の夏樹との距離はとても近くて、夏樹がさりげなく山下と距離を取っても、気づいたらすぐ側に山下がいる。

 ただ隣を歩くだけだ。あからさまに避けるのもかえって山下のことを意識しているようで、夏樹はできるだけ山下の存在を気にしないように努めた。


「散らかってて悪いんだけど」

「おじゃまします……」


 玄関ドアを片手で押さえている山下の前を、夏樹が遠慮がちに通る。夏樹が中に入ると、後に続いた山下がドアを閉め鍵をかけた。

 重いスチール製のドアが閉まる音と、カチャリと鍵の閉まる音に夏樹の体が無意識に強張る。肩をすくめたまま、夏樹はきょろきょろと辺りの様子を窺った。

 玄関を入ると短い廊下があり、廊下の右手にドア、左手がトイレと浴室になっている。


「松本くん、そのまま突き当たりの部屋」

「あ、うん」


 山下に言われるまま夏樹が廊下の突き当たりの部屋に入ると、十畳ほどのリビングと一人暮らしにしては立派なキッチンがあった。

 以前山下が料理はしないと言っていた通りキッチンには調理器具などは見当たらず、コンロの上にケトルがひとつ乗っているだけだ。


「そこに座って。楽にしててよ」

「――ありがとう」


 リビングの中央に据えられた二人がけのソファに夏樹が腰をおろす。

 山下は散らかっていると言っていたが全くそんなことはない。むしろ部屋の中には必要最低限のものしかなく、殺風景なくらいだ。

 リビングにあるのはソファとテーブル、それにテレビのみ。夏樹はソファに座ったままぐるりと部屋の中を見渡してみたが、収納家具なども見当たらない。


「どうかした?」


 ふいに頭上から聞こえた声に夏樹が顔を上げると、いつの間に戻っていたのかソファに座る夏樹の正面に山下が立っており、夏樹のことを上から見下ろしている。


「――いや、散らかってるって言ってたけど、全然片付いてるなって思って」

「ああ……実は結構忙しくて、まだ引っ越し荷物を片付けてないんだ。ほとんどがまだ箱の中に入ったままで、あっちの部屋に置いてある」


 そう言って、山下が玄関右手の部屋を指差す。


「そうなんだ。修一も言ってたけど、山下って最近、すごく頑張ってるんだってね。今月もまた新規の契約が取れたんだろ?」


 夏樹からすごいねと見つめられた山下が、そんなことないよと目を逸らせた。


「俺、山下ってほんとに頑張ってると思うよ。途中入社でわからないこともたくさんあるのに、ちゃんと成績も残してるし。俺も秘書課に移って頑張ってはいるんだけど、まだまだ役に立ててなくて……山下みたいに仕事が出来るのって本当、憧れる」


 営業課から秘書課へ移って、右も左もわからない状態を経験した夏樹には山下の大変さが痛いほどわかる。夏樹は本心から山下へそう伝えた。


「……お茶、入れるよ」


 他人から褒められることに慣れていないのだろうか、夏樹からかけられる言葉から逃れるように山下はキッチンへと引っ込んでしまった。

 リビングのソファから見えた山下の背中が、照れているのだろうか夏樹には少し丸くなっているように感じた。


「ねぇ、修一は何時ごろ来るの?」


 夏樹が山下の背中へ話しかける。


「もうじき来るはずなんだけど……遅いよね。ちょっと電話してみるよ」


 山下は夏樹の前にあるテーブルへペットボトルのお茶を置くと、携帯を手に取り、キッチンへと戻った。


「……今村くん? 山下だけど。今日うちに来るって言ってたけど、遅いから電話してみたんだ……あ、いや……うん……そう、なんだ」


 キッチンで修一に電話をする山下を、夏樹がリビングから眺めている。


「大丈夫だよ。松本くんも来てるんだけど……わかった、うん。それじゃあ、また」

「修一は何て?」

「何か、会社に忘れ物をしたんだって。取りに戻ったら遅くなるから、今日は来れそうにないって」

「そうなんだ。それなら仕方ないか」

「松本くん、ご飯どうする? 今村くんが来てから何か取ろうかと思ってたんだけど」


 携帯を耳から離した山下が、申し訳なさそうに夏樹の方へ顔を向けた。


「久しぶりに修一ともゆっくり話したかったんだけど。それなら今日は俺も帰ろうかな」

「松本くん」

「山下と話せて楽しかったよ。ご飯はまた今度、修一も誘って三人で食べようよ」


 夏樹がソファから立ち上がった。


「松本くん」


 夏樹のことを引き留めるように、山下の手が夏樹の二の腕を掴んだ。いきなり伸びてきた手に、避ける間もなく腕を掴まれた夏樹が身を竦める。


「あの……今日は、ありがとう」

「山下?」


 どこか必死ささえ感じる山下の様子に気圧されるように、一度立ち上がった夏樹が再度ソファへと腰を落とした。


「僕、今まであまり褒められたことがなくて、松本くんに凄いって言われてすごく嬉しかった……」

「あ……そう、なんだ」

「だから、だからまた、松本くんから凄いねって言われるように頑張るから!」

「――うん、頑張って」


 ソファへ座る夏樹にのし掛かる勢いで迫る山下から、必死で体を引く夏樹。

 それでも夏樹が何とか「頑張って」と伝えると、山下は本当に嬉しそうな顔をして、大きく頷いた。

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