28 新生活6

「お待たせしました」


 似合うからと去年の誕生日に修一からプレゼントされた、マスタードイエローのショルダーバッグを斜め掛けにする。

 使い勝手がよく、書類ファイルもすっぽりと収まるため夏樹のお気に入りだ。


「いや、大丈夫…………」

「どうかしましたか?」


 何かを言いかけた山路が、口許を押さえて夏樹のことを凝視している。

 どうやら夏樹が斜め掛けにしている鞄が気になるようだ。

 修一や総務課の女の子たち、それに秘書課のお姉さま方はすごく似合うと言ってくれているが、やはり通勤するのに黄色い鞄はちょっと派手だったのだろうか。


「やっぱり、ちょっと派手ですか?」


 眉尻を下げ、しょぼんとした顔で夏樹が鞄を持ち上げた。

 とても気に入ってはいるが、仕事をする上でふさわしくないのなら仕方がない。


「――ん? いや、派手とかじゃないんだ……その……使いやすそうでいいなと、思って……」


 この時、山路は黄色い鞄を斜め掛けにした夏樹の頭に黄色い帽子を被せてみたい衝動にかられていた。

 だがうっかり「黄色い帽子を被ってみたら似合いそうだな」なんて山路が口を滑らせたら、童顔であることを気にしている可愛い後輩が「幼稚園児じゃありません!」などと言って怒り出しそうだ。

 ぷりぷり怒る所が弟の息子である健太の姿と重なって、まあそれも悪くはないが、必要以上に夏樹の機嫌を損ねるのは得策ではない。

 黄色い鞄に黄色い帽子、ついでに空色のスモックを着せた夏樹の姿は、山路の心の中だけに留めておくことにした。


「はい。この鞄、去年の誕生日に友達がくれたんです」

「そうか、よかったな」


 お気に入りの鞄を山路が褒めたことで夏樹の機嫌がよくなる。いいでしょ、と言いながら鞄を自慢する姿が微笑ましい。

 子供扱いはしないでおこうと思ったばかりなのに、ついつい小さな頭をぐりぐりと撫でてしまう。


「山路さん! 子供じゃないんですから、頭を撫でないでください」

「悪い、悪い」


 悪いと言いながら、山路が夏樹の頭をくしゃくしゃと掻き回していると、夏樹の机の電話が鳴った。


「外線ですね」


 机の上で鳴っている外線電話の呼び出し音に、夏樹が電話のディスプレイをひょいと覗き込んだ。


「非通知だ。誰だろう……俺の内線、社外の人にはあんまり教えてないんだけど」

「とりあえず出てみれば?」

「はい」


 山路に促され、夏樹はとりあえず電話に出てみることにした。もしかしたら修一かもしれない。

 そういえば、秘書課のお姉さま方を紹介してくれと修一から言われていたのを思い出した。

 夏樹は新しい環境に慣れることに一生懸命で、修一からの頼みをすっかり忘れてしまっていた。

 家に帰っても疲れていつの間にか寝てしまうことも度々で、携帯に連絡のつかない夏樹に業を煮やした修一が、とうとう秘書課の方へ電話をしてきたのかもしれない。


「修一は仕事以外のことはマメだからなあ」


 夏樹は仕方がないなあとため息をつき、受話器を取った。


「お電話ありがとうございます。KONNO秘書課、松本でございます」


 話しながら夏樹がちらりと山路を見る。

 山路は腕を組んで、笑顔で頷いていた。どうやら電話の応対は、これで大丈夫なようだ。

 実は初めての外線電話だったため、受話器を握る手に知らず力が入ってしまっていた。山路から大丈夫だという反応を受けて、緊張に強張っていた夏樹の肩から力が抜ける。


『…………』

「――もしもし?」


 電話は繋がっているが、相手からの反応がない。


「もしもし、あの……お電話が聞こえないのですが、こちらの声は聞こえておりますでしょうか?」

『…………』


 もしかしたら電話回線に問題があって、こちらの声が相手に聞こえても相手の声がこちらには聞こえていないのかもしれない。

 もしもしと何度も繰り返す夏樹に、山路が身振りでどうかしたのかと訊ねてくる。

 山路を横目で見ながら、電話をこちらから切る訳にもいかず夏樹は途方に暮れた。


「夏樹、どうかしたか」

「もしもし、あの……あ」

「夏樹?」

「切れました」


 結局電話の相手からは何の反応もなく、通話は切れてしまった。


「間違い電話だったのかもしれないな」

「――はい」


 山路は間違い電話だと言うが、夏樹には電話の相手がまるで無言のままこちらの様子を窺っているような気がした。

 スッキリとしない様子の夏樹のことを察してか、山路が再度夏樹の頭をくしゃりと混ぜる。

 さっきは止めてくださいと言った山路からの子供扱いのスキンシップだが、今度は止めてくれとは言わなかった。

 周囲の環境が変わったことで忘れかけていた、知らない誰かからの気配。もしかしたら今この時も、知らない誰かがどこかで夏樹のことを見ているのかもしれない。

 不安な気持ちからか、ふいに悪寒を感じた夏樹は受話器を置いた手をぎゅっと握りしめた。

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