第百十話 好意と棘

 誰もが、好意と棘を併せ持っている。


 好意は、本心から無意識に示されることもあれば、特定の目的を達成するためのツールとして使用されることもある。しかし、好意の背景は必ずしも見通せない上に、それを勘ぐることは浅ましいと評される。それゆえ、好意の多くは無警戒に受理される。好意は、実態以上に高く位置付けられやすいのだ。


 棘はただ備わっているだけのこともあれば、悪意に基づいて振りかざされることもある。しかし、棘の背景が考慮されることはまずないと言っていい。棘で傷つけられた痛みと、棘を向けられたことへの怒りや悲しさが、己自身を棘にしてしまうからだ。棘は、それ自身が悪意の凝集物と見なされやすい。


◇ ◇ ◇


 当然のことだが。好意は他者を引き寄せ、棘は他者を遠ざける。そのどちらかしか備えていない場合は、帰結は明らかだ。しかし、誰もが好意と棘の両方を備えている。


 好意が明示されている場合、不用意に近付いて棘で傷つくと「そんな人だとは思わなかった」と非難される。

 逆に棘が明示されていれば、不用意に近付く者はいない。好意は遠ざけられやすいが、過大評価されることもない。


◇ ◇ ◇


 厄介なのは。好意と棘の比率や外観が、内部および外部の要因によって如何様にでも変化するということだ。


 自発的に調整できるのならばまだいい。だが、それらは他者との関係によって、自他共に速やかかつ大幅に変化する。

 多くの場合、好意を当然と考える傲慢さと自他の棘に対する危機意識の薄さが不可逆的な変化を生み出し、それを増大させる。明るければ好意しか、暗ければ棘しか目に入らなくなるのだ。


 同様に。誰かの棘で傷を負うと自らの痛みにしか意識が向かなくなり、己の棘で他者に与えた傷を一切考えなくなる。


◇ ◇ ◇


 好意と棘は必ずセットになっている。どちらかしか持たぬ者はいない。


 隠さなくても棘はあるし、示さなくても好意はある。眩しくて棘を見落としたり、暗くて好意がよく見えなくても、それらは『ある』。


 事実として『ある』のだ。



【 了 】

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