第16話 仮想メモリを構築いたします

「ああ、似合ってるな」

「………………はい」

 フィッティングルームから出て来た高槻果梨は、頭を斜めにかしげて、果梨の頭から爪先までまじまじと眺める藤城康晃の前で硬直していた。

 二十代後半女子、しかも振られて暫く腐っていた果梨に康晃が好んで着せたのは、膝が丸見えで、白地にダークブルーの薔薇の花が裾から腰に掛けてデカくプリントされているワンピースだった。羽織っているのは薔薇と同じ色のフードが付いたパーカー。足元は踵に、これまた薔薇があしらわれたアンクルブーツ。

 兎に角短い裾が寒い。尻が見えそうで怖い。割と空いたデコルテが熱いのは、目の前の気絶しそうな程イイ男の部長がガン見しているからだ。

 絶対そうだ。

「あれ、全部くれ」

 これは何かの映画撮影ですかと青ざめたまま果梨は、満面の笑顔で藤城からカードを受け取る店員をぼんやりと見詰めた。

「よし。じゃ、いくぞ」

 黒っぽい襟がざっくり開いたセーターとジーンズ。白いシャツを着ている男は、セーター同様の黒いオーラを微塵も見せない爽やかスマイルで果梨の手首を掴んだ。

 そして恐怖に固まる彼女を引きずるようにして歩き出した。

 年末も年末、明日はクリスマスイヴという祝日はありとあらゆる商業機関が顧客争奪を繰り広げている。一年でも大晦日に次ぐ掻き入れ時だ。

 そんな浮かれた空気の漂うショッピングモールに、何故か康晃と果梨が居た。

 あの、世界の崩壊を予感させる嵐を生還したらこうなった。

 嫌いになる為だと彼女が振るった世界を崩壊させる剣は、康晃の何かをぶち壊したようだった。







「…………よくよく俺の事が嫌いな女だな」

 ぎゅっと目を閉じて告げた数秒後、溜息交じりの康晃の声がした。顔を上げると呆れたようにこちらを見詰める男が一人。何故か怒りはすっかり成りを潜めているようだ。

「で?」

 腕を組んで促され、果梨は「へ?」と目を丸くした。

「だから……それで?」

「………………で、ですからあの……つ、連れ込まれるのは困るので……」

 俯いて手を握ったり開いたりする果梨を見詰めたまま、康晃は彼女の耳が赤いのに気付いた。

 嘘だな、と頭から決めつける。いや、確認をしてもいいのだろうが、十中八九間違いない。

 なので気付くとふんと鼻で笑っていた。

 バカにしたようなそれに、果梨が敏感に反応して顔を上げた。

 普段の倍くらい嫌味でいて……見惚れるくらい壮絶な笑みを浮かべる男に、果梨の背筋が震えた。

「連れ込まれるのが嫌で逃げ出した……そういう事か?」

 念を押すような言い方に果梨は引っかかった。この男に一度騙された。こういう話をする時は慎重にならねば。

(連れ込まれるのが嫌……そう、嫌だから……)

「はい」

 肯定すると、続いて笑みを崩さずに康晃が「じゃ、俺が生理的に嫌いと言う事か?」と尋ねて来る。

「それは……」

「キスされて吐きそうだったか?」

「まさか!」

 反射的に肯定し、はっと我に返る。だが、嘘を吐いた所でバレるのがおちだ。彼にキスされて縋りついたのは間違いないのだから。

「触られて気持ち悪かった?」

「…………いいえ」

 膨らんだ頬が赤い。睨み付ける果梨を前に、康晃は安堵した。生理的に嫌だと言われたら……もう二度と傍に寄れなくなる……多分。

 だがそうじゃない事が、判っていたとはいえ嬉しい。

「じゃ、なんで最初から『連れ込まれるのが嫌です』って言わなかった? お前は俺が嫌いだから逃げたって言ったな。どうして?」

 それは、これ以上部長に惹かれたら困るから。

(って言えるかッ)

 ぐ、と喉の奥に塊をつかえさせながら、果梨は両手を握り締めた。

「…………俺が、お前を傷つけたからか?」

 数秒程の間の後、酷く掠れた声が響いた。再び果梨は目を見張った。やや緊張した康晃の瞳に自分が映っている。

「どうなんだ?」

 一切視線を逸らす事無く尋ねる康晃。彼の言葉の意味が、果梨は一瞬判らなかった。

 傷つける? 部長が? 私を?

 珍しく真摯な眼差しを前に、果梨は思い当たる節が無いので仕方なく眉間に皺を寄せて尋ねた。

「あの……傷つけたって、どういう意味です?」

 恐る恐る尋ねた果梨に、「え?」と不審げに康晃の片眉が動いた。困惑した顔で彼女を見詰める。

「……そのまんまの意味だ」

 傷つける? 部長が? 私を?

 同じ言葉を反芻し、顔面にでかでかとクエスチョンマークを出す果梨に、康晃は呆れた。

「お前、俺に言わなくちゃいけない事、言ってないだろ」

 それには目に見えて果梨の身体が強張った。

 言わなくてはならない事。

 それはたった一つしかない。

 自分の正体について、だ。

(まさか白石さん……私が果穂じゃない事話した!?)

 そんな人じゃないと思いたい。だが部長は策士だ。白石から騙されて呼び出された先に藤城が居る事から、果梨を呼び出す際に彼が部長と話をしたのは間違いない。その時に白石は言わなかったかもしれないが、藤城が勝手に察した事があるかもしれない。

 どんどん血の気が失せて行く果梨を前に、康晃はぐっと唇を噛んだ。

 こいつはそこまで俺に言わせたいのか。

(まあ……しゃあねぇか)

 死んでも彼女は言わないだろう……香月にされたことを。なら『言わない』を選んだ彼女を尊重して何も聞かないのがいいのだろう。

 だが、それでは自分が馬鹿だったという事実をリカバリー出来ない。

 ちゃんと判っているのだと、どうしても果梨に思わせたい。

 そう……これは自分の問題でもある。

 何もわかって貰えない上司……ひいては『何もわかってくれない彼氏』と思われたくない。絶対に嫌だ。

 じっとこちらを見詰める藤城の眼差しに、果梨は口から心臓が飛び出しそうだった。真摯な眼差しは……目の前に居る女を傷つけようとする意図など見て取れない。実際、自分が果梨を傷つけたのか否かを彼は知りたいと望んでいるのだし。

 その答えはイエスであり、ノー。

 藤城に直接傷つけられたことはない。自分が勝手に傷付いているだけだ。だから藤城部長に非は無い。彼を騙しているのは自分なのだから。

(………………言ってしまおうか)

 ずくん、と心臓が拍動する。握り締めた指は冷たいのに、熱いお茶を飲んだように喉が燃えている。お腹の奥がざわざわして、これを吐きだしたら何が起きるのか知りたい衝動が込み上げて来た。

 身体が震える。

(私は果穂じゃないんです)

 藤城の視線を外せず、まるでこうやって瞳を合わせていれば通じ合えると思っているかのように果梨は胸の奥で強く念じた。

(果穂じゃないんですッ)

 飲みこみ損ねた想いが、言葉となって出そうになる。口を開きかけた瞬間、藤城が告げた。

「お前は俺にどうして欲しい?」

 その一言に、果梨の目が微かに見開かれる。勢いを削がれた彼女が、一瞬ぽかんとした。それに構わず康晃は続けた。

「言わなくてもいい。判ってるつもりだから。お前と香月の間で何があったのか……大体の見当はついてるからな。それでもお前は俺に何も言わない。それは俺に期待していないと言う事か? それとも言うほどでもないと言う事か?」

 やや身を乗り出して告げられた内容に、果梨の脳は付いて行かなかった。部長が外国語で話しているかのように内容が一瞬たりとも入って来ない。

 なんとか思考を再起動させながら、果梨は「えっと……」と困惑顔で康晃を見た。

「部長が仰ってるのは……つまり……香月さんが私に何かしたんじゃないか、と言う事ですか?」

「何かあったのは知ってる」

 断言する部長に、果梨は曖昧な顔で頷いた。

 ああ……なんだ……という謎の落胆が果梨の身体を覆っていく。

(そうか……まだその件なんだ……)

 香月の嫌がらせは、白石に浄化され、藤城の怒りを前に霧散し、ハートバラバラ事件で遠い彼方へと押しやられていた。

 だがそうか……藤城部長にしてみれば、有能な部下が起こした不祥事になりかねない出来事は口止めしておきたいと言う事なのかもしれない。

 部長が香月さんを買っているのは、あの夜の告白と日々の仕事で確認済みだ。

(なんだ……正体がばれかかってるっていう話じゃないのか……)

 ずん、と身体の中心が重くなる。それが「がっかり」したからなのだと果梨は認めたくなかった。

(って、がっかりする意味が分からん)

 首を振り、果梨は馬鹿な考えを封印した。

 藤城に正体をばらそうとするなんて……どうかしていた。

「果穂?」

 はっと顔を上げると藤城が相変わらず果梨を見詰めている。何かあったのか……それを聞き出そうとしているのだろう。だから果梨は必要以上に笑顔で告げた。

「香月さんとの衝突は、私自身の問題ですから部長は何もしないでください」

 予想外の台詞に、藤城がぎょっとする。

「だが……」

「お気持ちだけで十分です」

「…………お前が言うなら、処分も」

 それに果梨は慌てた。そんなこと一ミクロンも望んじゃいない。

「馬鹿言わないでください。私と香月さんの間に有ったのは単なる連絡ミスと私の勘違いです」

「違うだろ」

「違いません」

 きっぱり告げる果梨に、康晃は苛立った。こんこん、と長い指でテーブルを叩く。

「だがそれでは俺の気が済まない」

「どうしてです?」

「馬鹿みたいだろ!? お前がどういう状況で資料作成をしなくちゃならなかったのか、俺は全く知らなかった。なのにお前がやったことを無駄だと断じたんだ」

 微かにトーンの上がる部長に、果梨は苦く笑った。

「じゃああれは、有益なんですか?」

「……………………」

 嘘は吐けない。その為に、康晃は絶句した。意味の有る無しで言えば、会議で役に立たないから無しだ。

「ほらね。だからそれはもういいんです」

 康晃が何か返すより先に、カップの中身を飲み干した果梨が席を立とうとする。

「なので、もうこれ以上部長と話すこともありませ」

「それで俺を出し抜けると思うなよ」

 悔しそうな康晃の声がする。身を強張らせる果梨に部長は身振りで座れと示唆した。

「お前が香月の件で俺を見限ったのじゃないとして……なら何が嫌いなんだ?」

 クソッ! 上手く逃げられると思ったのにッ!

 ぐっと両手を握り締め、果梨は再度窮地に立たされた。再三に渡り嫌いを繰り返してきた。

 ただどれも口から出まかせだった。

 本当は……。

(ああもう、面倒だ)

 嫌いと言ったのは、そう言えば大抵の人間はその相手を避けるだろう。嬉々として寄って来る者など居ない筈だった。一番手っ取り早い距離の取り方だと思ったのに。

「果穂?」

「…………嫌いと言ったのは、私が藤城部長の事を何も知らないからです」

「?」

 意味が取れず眉間に皺を寄せる康晃に、果梨はほうっと大きな溜息を吐いた。

「部長の事、全く知らないのにプロポーズを受け入れるだの、付き合うだの言われても気持ち悪いだけです」

「……俺の勘違いじゃなければ、お前が先に、俺にプロポーズしてきたはずだが?」

「私の勘違いでなければ、それは撤回させていただいた筈です」

「酔ってたから?」

「酔ってたから」

 しばし無言で睨み合った後、今度は康晃が深い溜息を吐いた。

「俺が嫌いだからプロポーズしたんだろ? なのに嫌いだから受け入れないは矛盾してる」

 確かに。

「…………兎に角、部長と居ると胸の辺りがモヤモヤして気持ち悪いんですッ」

「…………もやもや?」

「だから嫌いなんです」

 全く意味の分からない理論と明らかな矛盾に康晃は呆れ返る。それを指摘してやってもいいが、ぐっと飲みこんだ。

 彼女の言い分の意味が通らない理由は一つだ。「嫌い」という単語が矛盾しているのだ。

 この単語が反対語になればどうなる?

 好きだからプロポーズした。好きだから逃げ出した。好きだから胸の辺りがモヤモヤする。

 好きだから……受け入れられない。

(…………悪くない)

 どころかトンデモナク良い感じだ、しっくりくる。

 不機嫌と苛立ちでギリギリまで低下していた康晃のパラメーター全てが、急に浮上する。

 途端、明らかに感じの変わった藤城に果梨はおののいた。

 この男は本当に読めない。さっきまで超絶怒っていたというのに、今はにやにや笑っている。

 どうしてそうなるのか……果梨にはさっぱりわからなかった。

「あの……?」

「いや、ま、お前の気持ちはわかった」

 いや絶対勘違いしてるでしょ!?

 慌てて「何が判ったんですか」問い詰める果梨を無視し、康晃は彼女の言葉から自身に有利な単語を拾い上げて組み合わせていく。

「つまり、お前は俺の事を良く知らないから、連れ込まれるのを警戒して逃げ出したというわけだな」

 ―――――ん? なんか……ちがくないか?

 その疑問をぶつけるより先に、康晃がトンデモナク爽やかで……黒い笑顔を見せた。

「じゃあ、もっと理解し合えば問題ないと言う事だ」







(どうしてこうなった)

 ありがとうございました~、と独特のイントネーションで頭を下げる店員の声をBGMに果梨は人で溢れる通路を藤城の腕に捕まって歩く。

 彼女が着ていた服の入った紙袋は、抜かりなく藤城が持っている。

「あの……」

 ちらとショップを確認し、決して安くは無いブランドだと痛む胃で考えた。

 幾らなのか――――怖くて聞けない。

 複雑な顔で見上げる果梨に、康晃はふっと口の端を上げて笑う。自信家のイケメン以外がやると鼻で笑われる類の笑みだ。

「気にするな」

(気になるわッ)

 心の裡で悲鳴を上げる。

 この上司は昨夜、「知らないのなら知ればいい」と口をぱくぱくさせる果梨をガン無視して今日のスケジュールを立てやがった。

 普通のデートをしよう、と。

 帰り際に、「本当ならこのまま家に連れ帰ってあれやこれやして、明後日一緒に出勤する方が良いんだがそっちの方が良いか?」と有無を言わさぬ笑顔で問いかけられ、果梨は今日のデートを選択したのである。

「…………部長は」

「お前、この場で役職で呼ばれると、何やかんやで懲戒されそうだからやめろ」

「…………藤城さんは『普通のデート』で彼女に洋服一式買うんですか?」

 やや青ざめた果梨の顔を見下ろし、康晃はふむ、と考える。

「普通のデートなんぞ高校以来やってないからなぁ」

 爛れてる!

 思わず足を止め身を引く果梨を、康晃は強引に引き寄せる。

「高校の頃は可愛かったぞ? 彼女の為に必死にプラン立てて、好きそうなもの買って」

「へ……へえ……」

「そうだな……そういう事実を考え合わせると、大人になっても同じことしたくなるってのは当たりかもな」

 甘い視線が果梨を捉え、彼女は自分のハートが粉々になっているにもかかわらずそれが満たされる錯覚を覚えた。

 ああ、またほら……そうしたらひび割れから痛みを伴って溢れるから……。

「そうやって外堀埋めて、ヤらせて貰えるようにするなんて可愛いもんだ」

 やっぱり爛れてるッ!

「引くな引くな、男子高校生なんてそんなもんだ」

「今はどうなんですか」

 まるで帰るのを拒否する飼い犬の如く、康晃から反発する果梨の手を引いて彼はにやりと笑った。

「どうって。大人になったからにはそれなりに自制と技術を学んだ次第ですよ」

「私が聞きたいのはそういう意味じゃないですッ」

「大人なんだから誰からも文句は出ないだろ。てか、何だお前、この期に及んで俺に抱かれるのは嫌なのか?」

「真昼間に話す事じゃないって言ってんですッ」

 周囲を見渡して康晃は鼻で嗤った。

「お前な。ここに居る浮かれた男女がイヴに何するって言うんだ? 夜通しチェスか?」

 ぐ、と返答に詰まり耳まで赤くする果梨に康晃はにたりと笑う。というかさっきから笑いが止まらない。

 普通デートがこれ程楽しいとは思わなかったのだ。

 気に入ってる女に自分の趣味の服着せて、見せびらかすように歩く。しかも相手は康晃の言葉に媚びることなく一喜一憂を繰り返すのだ。

 甘い声で「ありがとう」と言わないし、「こんな安物要らないわよ」と蔑んだ目で告げもしない。

 ただ単にマンネリ化してないバカップルだと言われれば終わりだが、自分がそのバカップルの一人であるという事実が楽しすぎる。

 もっと果穂を赤くさせたい。楽しそうにさせたい。もっと……。

「藤城さんはイヴを女性と過ごしたことが有るんですか?」

 ずるずると引きずられるように歩く果梨から質問され、康晃は足を止めると強引に彼女の腕を自分の肘に掛けた。

「ねぇよ」

「嘘」

「イヴに女と一緒に居たら、そいつに勘違いされるだろ」

「………………ホンット、爛れてますねッ」

 声に出さなかった感想が口から飛び出る。

「そ。爛れてたんだ」

「認めないでください」

「なんで? 別にいいだろ、付き合ってたわけじゃねぇし」

 判っていたが呪われろと思ってしまう。

「だからお前は特別」

 さらりと言われたセリフに、心臓が悲鳴を上げた。

 ああもう、そんな風に言われたら拒否できなくなる。

 ひび割れたハートに少しずつ満ちて来る、甘い甘い水。絶対零れると分かって居るのに入って来るのを止められない。

 これ以上一緒に居たら……大変な事になる気がする。

(やっぱり逃げなきゃ……)

 ちらと周囲を見渡し、果梨はなんとかして一人で帰る手段はないモノかと考えた。ちらと視線を落とせば絡んだ腕の先で、果梨の手はがっちりと康晃に捕まれていた。

 温かくて乾いた手錠のような物だ。

「さて……何か見たいものあるか?」

 中央のフロアまで来る。人でごった返すぐるりを見渡して、果梨は必死に考えた。

 康晃から離れる方法。

「言っておくが俺から離れたらどうなるか判らないからな」

 ひい、と果梨が戦く。動揺する彼女の目を覗き込み彼は黒い笑みを見せた。

「俺は昨日の飲み会をすっぽかした件を許すつもりはないからな」

「心が狭すぎです、部長」

「狭量結構」

 言いながら周囲に目をやり、互いに買ったものを見せ合うカップルを見付けて思案する。

 そうだな。

「明日はクリスマス・イヴだし……お前、俺に何かプレゼント的な物買え」

 なんだその命令は!

 そのままぐいぐいと果梨の手を引いて先へ進む。

「そうだな……寝室用品がいいな。感謝しろよ、あそこに入れた女はお前が初めてなんだからな」

「いえ……何をどう感謝しろと……」

「初H記念になりそうなものを買うか。枕とか」

「馬鹿ですか!」

 真っ赤になる果梨を他所に、康晃はさっさとインテリアや寝具を扱うショップへと歩いていく。

「なんだよ? お前が使うモノだぞ?」

 もう何を言ってもダメだと、果梨は天井を見上げた。この上司は人の話を聞かない。

 普段は抜かりないくせに……いや、これも康晃の戦法か。

 相手に四の五の言わせないその口調は、相手が言いそうなことの先を回って潰していく。

 今回も、果梨が「部長にプレゼントなんか買いません」と言うより先にダメ押ししてきた。

「それともどっかホテルでも行くか?」

「謹んでプレゼントを買わせていただきます」

 良い笑顔に反論できず、果梨は大きく溜息を吐いた。






 このまま逃走しようかと店内を見渡す果梨は、さりげなく移動をしても常に視界に入る位置に連れが居る事実に歯噛みした。

 どうしてこう、スマートに『囲い込む』ことが出来るのか。

 苛立ちと困惑……そして認めたくない、ほんのりとした甘さを噛みしめながら果梨は溜息を吐いた。兎に角、さっさと藤城部長の為に何かインテリアを買って帰ろう。

 シンプルなモノクロで統一されたショップ内を見て回りながら、いっそアロマディフューザーでも買おうかと自棄になって考える。と、不意に果梨の目の端に何かが止まった。

(あ)

 そこにあったのは、康晃の寝室に置かれていたクリスタルのチェスの駒だった。

 照明の下できらきらと輝く、キングとクイーンを取り巻く他の駒たち。

 ルーク、ナイト、ビショップ。そして八個のポーン。

 気付けば果梨はポーンを一つ、取り上げていた。

 のっぺりとした丸い頭と、円盤のような縁。細い胴体に円錐形のスカート……。

 それが八個並んで、黒いクリスタルのそれと相対している。

 唯一の王と女王を守るように。

 藤城の寝室に、これを一個加えてもいいのではないだろうか。

 ナイトの隣に一個。

(次の日にもう一個……三日後にもう一個……)

 八日後には八個のポーンが彼の寝室を席巻している……。

 そんな妄想をして一人小さく笑う。増えたことに彼は気付くだろうか?

(そりゃ普通は気付くわな……)

 日常に溶け込むようで溶け込まない、誰かの痕跡。気にするのもしないのも……きっと自分次第。

 ふっと溜息を吐いて果梨はポーンを一個、棚に戻した。自分の痕跡を藤城の部屋に残す。少しずつ少しずつ……そんな想像して、自分に出来る筈もないと首を振った。

 プレゼントを……と言っているがきっと何か実用一辺倒なものか、使えば消えてしまうモノの方が良いだろう。そう、後に残らないか……捨てられないほど便利か。もしくは気兼ねなく捨てたり誰かにあげたりできるくだらない物。

(もういっそ入浴剤にしようか……)

 近くにある棚の、カラフルな袋や箱、綺麗な瓶を見詰めて考える。

 途端、自分と藤城が入っている所を想像し頬が真っ赤になった。駄目だ。確かに使えば消えるが被害がデカイ。

(じゃあクダラナイもの……捨てても大丈夫なもの……)

 プレゼントを選ぶにはネガティブ過ぎる発想で周囲を見渡していると。

「……果梨?」

 この場であり得ない名称を呼ばれ、果梨の背筋が凍り付いた。

「果梨……だよな?」

 爪先から脳天まで震えが走る。ばっと後ろを振り返ると、黒っぽいコートを着た男が何とも形容しがたい顔でこちらを見て居た。

「やっぱり」

(………………をいをいをいをいをいッ!)

 ざあっと顔面から血の気が引いて行くのが判った。今ここで、目の前に立っているのは。

「……元気そうだな」

 はは、と乾いた笑い声を上げて苦しそうに視線をそらすのは。

「ずっと心配してたんだぞ」

 自分の発言のトンチンカンさ加減に露程も気付いていないこの男は。

「果梨?」

 言いしれない感情が渦を巻き、わなわなと彼女の手を震わせる。

 怒り。罵倒。文句。叫び。痛み。嘆き。

 それから嫌悪。

 そう、増大する一方の嫌悪が膨れ上がった。

 無神経で信じられない位自分勝手な元彼を前にして。

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