第15話 ファイルを指定して検索します

 食べるのは好きだ。お酒を飲むよりも食べる事で幸せを感じるし、ストレスも解消できる。

 最近では女子力なるパラメーターが存在するらしいので、それを上げるのに料理は手っ取り早くて好都合だ。

 別にクリスマスシーズンと言う事を意識しているわけではない。

 ただ、明日は祝日だしちょっと手の込んだ料理を作って、録画したバラエティ番組を観て笑い転げたいと思っただけだ。

(それに……スーパーもクリスマス推しだしね)

 鶏もも肉のトマト煮とサーモンとアボカドのタルタル。ベイクドポテトと更にパスタを茹でようとしたところで果梨は我に返った。

 一人暮らしでどんだけ食う気だよ。

(………………知るか)

 疑問を一蹴し手を止めはしなかった。

 何故か茸とほうれん草の和風パスタを作り、満足して小さなテーブルに向かう。

 藤城のただっ広い部屋とは違う、物が多いこじんまりとしたワンルームの内装は、白い壁とグリーンの大きなドット柄のカーテン、それと同じベッドカバーで一応揃えられている。

 芝生っぽいラグの上に、木目が可愛いという理由で買ったローテーブルと赤いクッションが置いてある。小さなそれに皿を並べ果梨はリモコンを握り締めた。

 バラエティ番組を観ながら、果梨は鶏に箸を付ける。ぼんやりと内容を追いながら果梨は鳴らない電話を気にする自分に気が付いた。

 多分絶対間違いなく、果梨が飲み会に『居ない』と気付いた瞬間に着信が有る筈だ。

 一応サイレントモードにしてはあるが……鳴れば気が付く。そして出る気は毛頭ない。

(まだ来ない……)

 それはつまり、羽田が上手く誤魔化していると言う事なのか。それとも怒り心頭で電話する余裕もないのか……。

 不意に不安で鼓動が跳ね上がり、果梨はぶるぶると首を振った。

 今は……死ぬほど怖いし、逃げ出したいくらい恐怖を感じている。電話が来るのか来ないのかで生きた心地がしないが、長い目で見れば絶対にこれでよかったと言えるはずだ。

 藤城部長は、果穂が話してくれた部長像と百八十度違っていた。

 自分の眼で見て、話をして、感じたのは仕事にストイックで冷徹、部下を甘やかしもしなければ放任もしない。

 男としては、トンデモナク独占欲が強くて面白い物に興味が有り過ぎる。強引で俺様で原始人。

 ……でも果梨を欲しいと全身で訴えて来る。

(だからだ……)

 縛りたいし、縛られたくない。

 そんなもんだろと笑った藤城と、縛ることを良しとしなかった果梨。真逆の価値観にどうしても惹かれて行く。

 そう、惹かれて行く。

 元彼は縛られたくないし、縛りたくもない人だった。女は黙ってついて来いという感じだろうか。

 供給ばかりを要求する人だった気がする。

 だから自然と果梨も、彼に合わせて、彼の望みを優先し続けた。

 その究極がアレだ。

 だが藤城は違う。彼は求めろと言う。

 自分と同じくらい求めろと。望めと。そして同じくらいに望んでいると甘く甘く囁くのだ。

 それが……ぺしゃんこに潰れていた果梨の自尊心に麻薬のように沁みたのだ。

(駄目なのになぁ……)

 ぱくり、とトマトの酸味と旨みが凝縮された鶏肉を口にした瞬間、涙が滲んだ。

「激うま! あたし超天才!」

 本当は違う意味での涙なのに、果梨は強引に気持ちを切り替えようとした。声にすれば、形を持たない胸の中の想いなど蹴散らせると思ったのだ。

 だが蓋をして押さえつけようとする度に、水を入れ過ぎた瓶のように縁から溢れて零れて行く。

 零れて零れて……全部無くなって空っぽになればまた、普通に、彼を知らない頃の果梨に戻れるだろうか?

「こんなに料理上手なのに、貰い手が居ないとか世の中の男、全員死んだ方が良いんじゃね?」

 更に強く明るく告げる。

 だが、何故か柔らかく美味しかった鶏肉は、食べれば食べる程塩味が強くなって行った。

「…………塩入れすぎたかな」

 認めたくない気持ちを無視すればするほど、何故か鶏の味が塩っぽくなり果梨は閉口した。頬を乱暴に拭って、彼女は他の料理も一気に掻きこみ始めた。

 旨みと塩味で……辛さと苦さの全部を腹の裡に呑み込んでしまえ。

 そうすればきっと……もっと早く自分は『回復』出来る。

 撃ち砕かれたハートが元に戻る筈……。

 次の瞬間、待ちすぎて気が変になっていたスマホが震動した。雷鳴のような、腹に響く震動を感じて果梨の心音はあり得ない速さへと駆け上がる。

 一瞬で冷たく、なのに汗ばんで震える手をスマホに伸ばす。表示されている名前を確認し、果梨は目を閉じて深呼吸をした。

 そして徐に、電源ボタンを押して拒否をする。

 途端、震えていた電話は沈黙し、乾いた笑い声を上げるバラエティ番組の音声だけが空間を満たした。

 血液という血液が、全身から後退するのを感じながらも果梨はソファの上にそっと電話を置き、くるりと背を向けた。

 後はただひたすら……徐々に冷めて行く料理を口に詰め込む機械と化したのである。







 女にだって友情はある。

 それは「俺達は戦友だ」と荒廃した大地で、今さっき自分と死闘を演じて倒れた敵に手を差し伸べて、にかりと笑う少年誌のような友情だったり、「あの子と付き合うと、レベル高い男回してくれんのよねぇ」と艶やかに笑うレディコミの味のある脇役と結ばれたりするそれだったりする。

 複雑怪奇だが取り敢えず存在しているのだ。




「部長~、松原さん、何とかしてくださいよぅ」

 立場上下座に座る事の叶わない康晃は、どうにかして座敷の出入り口付近をキープしようとしていた。営業部の参加者は三十余人。加えて今回は建設の連中も混じっている為規模が大きくなっていた。

 その人の中に果梨の姿は見えないが、幹事たる香月に問い合わせた所「会費は支払われてますよ」と含みの有りそうな笑顔で言われた。

 だから多分……どこかに居るとは思うのだが参加した瞬間から、部下がかわるがわる押し寄せてちょっと聞いてください、と珍しく仕事のノウハウを問いただしてくるので確認しようがない。

 苛立ちながら時計を確認すれば、十九時を少し過ぎた辺りだった。開始から一時間弱という所か。

 今や羽田までが康晃に絡んできている。

 この間まで本橋狙いだった筈なのに、どういうことだ?

 遠慮なく康晃の腕に自分の腕をからませて、引っ張る。柔らかな胸が押し当てられて康晃は眉間に皺を寄せた。

「おい」

「私、何度も言ってるんですよ、部長! おタバコは身体に悪いし、副流煙は女性の大敵なので吸わないでって。なのにぃ」

「飲み会の席で吸わないなんて! 愛煙家にだって人権はあるんです!」

「やだ! 部長~盾になってくださいッ」

 酔っぱらってる松原が天井に向かって煙を吐く。幼稚な言い争いにうんざりしながら康晃は背中にしがみつく羽田を引き剥がした。

「ここは分煙してないんだから我慢しろ」

 目を見開く羽田に、康晃が更に声を高くした。

「そして松原! いくら無礼講でも嫌がる人間が居る事も配慮しろ。あと、営業ならなんで吸いたいのか、吸う事でどんな利益があるのか羽田に説け」

 無理です部長~、と泣き付く松原を尻目に康晃は段々苛立って行った。

 そもそも果梨が「出席しないとオカシイ」と言うから来たのであって、もともとバックレるつもりだったのだ。なのに当の本人はここに居ない。

「はい、私を助けてくれた部長にぃ、ビールです」

 きゃ、と笑う羽田を振り返り康晃は再び眉間に皺を寄せた。

 相変わらずこの女は身体の一部を康晃に押し付けてきている。ふと目を上げれば、建設の連中に絡まれて動きが取れない香月が射殺さんばかりの視線を羽田に送っていた。

 ここで羽田相手にいちゃついてみようか。

 そんな考えが頭に過るが、触れ合っている太腿に特に感慨がわかない。

 ただ単に、ホッカイロが足に当たっている位の感慨しかわかないのだ。

「部長、あと何食べますぅ?」

 私、お給仕しますよ?

 身体を前のめりにさせて、計算しつくされた視線を下から見せて来る。大きく開いたセーターから白いデコルテが広く見え、ああナルホドこうやって落とすわけだと頭の隅で考えた。

(つか、俺が狙いなのか? 本気で?)

 だとしたら一ミリも興味が無い事を伝えなければ……。

 そうしてふと視線を落とした康晃は、見上げる瞳が意外と冷静なのに気が付いた。

 自分に向けられる女の視線がどういうものか、彼は良く知っている。

 標的を狙うハンターのような目や、愛撫を強請るような蕩けた目、そして尊敬が滲んだモノだったりと大抵は康晃への溢れんばかりの興味と打算が滲んでいた。

 だが、珍しく羽田の眼にあるのは単なる「素」だった。

 何の感慨も滲んでいない……そう、ただ面倒な上司を見上げる部下の眼だった。

 途端、康晃の辟易していた気持ちが百八十度変わった。センサーが働く。

 この女は何か計算があって……それも、自分の利益の為ではない計算があって、仕方なく絡んでいるのだと反射的に悟った。

 それは何だ?

「……羽田」

「はあい」

「…………狙いは何だ?」

 ちらっと落とされた部長の凍れる視線に、麗奈は心の中で舌打ちした。もうちょっと粘れると思ったのだ。

 だって男なんて胸押し付けて、太腿見せて、秘められた箇所をチラ見させれば下半身でしか物を考えられなくなると思って居たからだ。

 柔らかな肢体が絡まって、甘い声で自分の名を呼ばれたらどんな男だって「据え膳ッ!」と飛びつくに決まっていると。

 だが、例外もある。

(ここまでか)

 退勤間近に渡された果穂からの封筒。それにはこの飲み会の会費と、メモが入っていた。

 高槻果穂からの、珍しいお願い事。

 それは「私が参加しているように装って、部長を引き付けてくれ」というモノだった。もちろんこれだけで麗奈が動くはずがない。

 動いたのは「今度白石さんに頼んで、設計関係の人、紹介してもらうから。絶対、必ず、命に掛けて」と記載されていたからだ。

 これには確かに食指は動いたし、実際にこうやって部長を引き留めた。「今なら部長、ご機嫌ですよ~」なんてデマを流してどうしても仕事のアドバイスが欲しかった連中をけしかけた。自らおっぱい押し付け作戦を決行したりもした。

 純粋に興味もあったのだ。

 この氷の営業部長に自分の技術がどこまで通用するのだろうかという、素朴な興味。

 普段ならこの技は恐らく通用するのだろう。そう……藤城部長が高槻果穂にご執心でなければ。じゃなきゃ麗奈のプライドが許さない。

「部長ぅ」

 ひるむことなく、ほんの少しだけ持っていた……そう、共闘する戦友に抱くような友情を思いながら……しかし麗奈は「果穂の為」に果穂を裏切った。

 決して私利私欲からではない。

 そう、違う。断じて違う。

 果穂がこの後被るであろう甚大な被害を思って飲むお酒は非常に格別だろう、なんてこれっぽっちも持っていない。

 ないない。思ってない。思う訳ない。大事なトモダチなのだ、うん。

 麗奈はにっこりと笑って見せた。

「ちょっと耳寄りな情報があるんですがぁ……聞きたいです?」







 ここまで狂ったようなチャイムは聴いた事が無い。

 自宅アパートでパソコンに向かいながら缶ビール片手に師走の夜を楽しんでいた巧は、インターフォンが壊れるのではないかと思いながら、渋面で固定電話の受話器を取り上げた。

『果穂が居たら殺すからな』

 開口一番に響いた怒声に、巧は瞬時に状況を理解した。

 昼間、康晃と不本意ながら昼食を取った際に(果梨は逃走に成功していた)似たような話をしたばかりだというのに。

 果穂に近寄るな、一緒に出掛けるな、ていうか二人きりになるな、等々……。

「居ないから帰れ」

 にべもなく言えば、ドアが破壊音を立てた。

 俺は本気だぞ、と地声が聞こえて来る。

 多大なる近所迷惑だ。頭に血が上りそうになるのを堪えながら、巧は気が狂ったとした思えない康晃と対面すべくドアを開けた。

「果穂はどこだ!?」

 開口一番そう言って、ずかずかと土足で踏み込みそうな康晃の肩を力一杯掴む。

「だから、居ないって」

 いってるだろ、の部分はすでに部屋に上がり込む康晃の背中に向かって発せられていた。

 リビングと和室、寝室で構成されているこじんまりとしたアパート内を確認した後、くるりと振り返った康晃は……かんかんに怒っていた。

 思わず吹き出す程に。

「テメェ……」

 今にも掴みかかろうとする康晃相手に、巧は慌てて両手を上げた。白旗のつもりだ。

「どこにやった!?」

 更に声を荒げる康晃に「落ち着け」と取り敢えず告げる。それから無言でソファを指し示す。

 冷静そのものな巧の対応に、康晃の沸点を越えていた筈の怒りが信じられない事にまだ上昇する。相手が冷えれば冷える程、こちらは真っ赤に熾って行く。

 自分の中にある、冷たい焔がここまで過剰に燃え上がるとは思っていなかった。

 だが収まらない。

「座れ」

「命令するな」

 低く噛み千切るような言い方をした後、康晃は強張って動かない筋肉を無理やり動かしてソファに腰を下ろした。腕を組んで康晃を見下ろしていた巧が、落ち着ける物……と探した結果、冷蔵庫から冷えたビールを取り出して差し出した。

「飲め」

「それどころじゃないッ」

 奥歯を噛みしめて告げられたセリフに吹き出しそうになりながらも、巧は溜息を吐いてビールをテーブルに置いた。

「で? お前の高槻がどうかしたのか?」

 俺の高槻ではなく。

 そんなセリフを胸の中で呟きながらちらと見れば、康晃は込み上げる苛立ちを必死に押し殺しているのがありありと顔に現れていた。

 膝に置いて組んだ両手が真っ白だ。

「もう一度言うが、俺は関わってないからな」

 念押しすると、康晃が両手で髪を掻き毟り苛立った声を上げた。

「じゃああのバカはどこに行った!? 電話は着拒、家に押しかければ完全に留守ッ! 心当たりと言えばお前だから、渡し忘れた資料があるとか話しでっち上げて事務所から住所聞き出して来てみりゃいねえしッ!」

 どこ行きやがったッ

 氷の営業部長を返上し、ぎりぎりと奥歯を噛みしめて怒りまくる康晃を前に、巧は溜息を吐いた。

(何バカやってんだ……)

 脳裏に浮かぶのは、康晃との対面を拒み脱兎の如く逃げ出した果梨の姿。

 気持ちはわからなくはない。正体がバレると困る上に、自分が果穂を演じている以上、康晃に深入りしたくないのが本音だろう。

 だが。

「男は逃げれば追いかけたくなるしょーもない生き物だからな」

 ぼそりと告げられた巧の声には、実感がこもっていた。実際、自分も逃げた女を追っている最中だし。

「逃げきれると考えてるならおめでたい」

 巧に答えたつもりはないであろう、低く呻くようなその声に彼が顔を上げる。

 昇る青い焔が見えそうだ。

 そんな不吉なオーラを背負った康晃が、巧は珍しくて仕方ない。女に不自由した事のない男が、たった一人を見付けられずに右往左往しているのだ。

「実際逃げられてるじゃないか」

 思わず指摘すると、射殺さんばかりの視線を向けられた。

「俺が諦めない限り、アイツは逃げられない」

 この男がここまで独占欲の塊だったとは意外だ。

 声に滲んでいる決意の強さが、果梨の逃げ切れる可能性の低さを訴えている。

「そこまでして捕まえて……どうするつもりだ?」

 気付けば彼は、そんな質問を康晃にしていた。不可解な顔でこちらを見上げる康晃に、ゆっくりと告げる。

「お前の望みだよ。お前と婚約したわけじゃない、付き合っても無いと豪語する女を捕まえて……で? どうするんだ? 言っておくが、一発やって終わりとかふざけた事抜かすなら、こっちにも考えがあるからな」

 冷やかに見下ろされて、康晃のヒートアップしていた感情がほんの少し冷えた。

 果穂を捕まえて……それから?

「どうなんだ?」

 じっと鋭い眼差しで見詰められ、康晃は返答に窮した。

 はてさて。自分は一体果穂と……どうなりたいのだ?

 考え込むように視線を彷徨わせると、先程巧が置いた缶ビールに目が留まる。徐に手を伸ばし、康晃は口を開けてごくりと一口飲みこむ。

 冷たさが喉を駆け下り、ほろ苦さが胸いっぱいに広がった。

 高槻果穂は今までの女と違う。

 ころころと態度が変わり、知らない一面が飛び出してくる変わった女だ。それなのに、芯がある。だがその芯も、逆境で折れることのないしなやかさを持ち、康晃の叱責を正面から受け止めた。

 泣いて嫌がらせをされたのだと訴えれば良かったものを……一言も言わなかった。

 なのに自分は、的外れな叱責と、見当違いの褒め言葉を浴びせ……結果、こうしてかなり情けない姿で彼女を追っている。

 想定外も外だ。

 その彼女を何故追いたいと思うのか。

「……確かに、抱いてないから征服欲が刺激されてるのかもしれない」

 元も子もない発言に、巧は一瞬かっとなる。だが、康晃が真剣な顔で床を見詰め掠れた声で告げるのを聴き、口をつぐんだ。

「だが……」

 それだけじゃない。

 何とも言い難い……彼女を見ると感じる不可解な思いがあるのも事実だ。

 妙に一生懸命で、直ぐに赤くなる。世慣れた雰囲気を持っていた筈なのにどこか不器用で。

「――――アイツ、俺の部屋をチェックして歩いてたんだ」

「…………はい?」

 ぼそりと零れた康晃の台詞に、巧が眼を瞬く。

 チェックして歩いていた、とは?

「女の影が無いかどうか」

「それはまた……」

「普段なら煩い行為で迷惑だと思うが……自分以外の誰かが居るかもしれないと探してる果穂が可愛くて……あと妙に……」

 諦めているように見えた。

「…………何だ?」

 黙り込む康晃に巧が尋ねる。だが彼はじっと手にしたビール缶を見詰めた。

 諦めている。……何を? 誰……を?

(イラつく)

 不意に彼女を悩ませる存在が自分以外に居るのかと思うと腹が立った。

 あの時の彼女は明らかに、康晃の部屋を通して「何か」を見て居た。それは決して女の影だけではなかったはずだ。それが可愛く見えたのと同時に、妙に慰めたい気になった原因ともいえる。

 だがそれも結局は一瞬で、彼女はまた頭から湯気を出し、頬を真っ赤にして貞操とはと訴え始めたのだ。

「アイツ、誰かに裏切られた事でもあるのかな」

 だとしたら、彼女が自分から逃げて行く理由の一部がそれの気もする。

 逃げている。

 そう、彼女は逃げているのだ。

 何から? 誰から?

「ま、確実にお前には失望しただろうな」

 ひんやりと冷たい刃物を首筋に突きつけられたように、ぎょっとして康晃が顔を上げる。

 缶ビールを飲んでいる白石の台詞に、彼は思いっ切り眉間に皺を寄せた。

「どういう意味だ?」

「そのままの意味だ」

「俺がアイツを裏切ったっていうのか!?」

 途端冷却していた感情が、再び過熱する。歯を剥いて唸る狼の如く、威嚇するように睨み付ける康晃に巧はひょいっと肩を竦めた。

「高槻の仕事内容、確認してなかっただろ」

 繰り出された一撃に、珍しく康晃が怯んだ。と同時に「コイツに言われたくない」という感情が膨らんでくる。

「彼女がやった仕事が的外れだったのがなんでなのか……確認せずに怒ったらしいな」

「……お前は果穂の上司じゃないだろ」

 言外に黙ってろを込めて言う。

「痛い所を突かれたな」

 それに対し巧が笑う。

 彼が二重の意味を込めて言ったのに気付いて、康晃は喚きたくなった。

 痛い所を突かれた……康晃も巧も、と言う事だ。

「ていうか、なんでお前がそんな事知ってるんだ」

「昨日、話し合ったからな」

 さらりと告げられた爆弾発言に、完全に理性が失われていく。今直ぐ持っているビール缶を放り投げて、白石巧に殴りかかろうとしたその時、無造作に彼が携帯を取り出した。

「だが俺と彼女が話した所為で、彼女が悪く言われるのは忍びない」

 今にも喉元に噛みつきそうな狼、藤城をいなすように片手を前に出し、白石は電話帳から今日登録したばかりの番号を呼び出した。

「だから、彼女の為に……彼女に連絡する」

 なんでお前が連絡先を知ってるんだ、コノヤロウ!

 そんな胸の内の感情がありありと出ている。その藤城を呆れたように見詰め「どこが氷の営業部長だ」とぼそりと漏らした。

「今はオンじゃねぇからな」

「お前、今までだってオフでそんなに感情丸出しにしたことないだろ」

「ほっとけ」

 うーうー唸っている黒い毛並みの狼を横目に、巧はコール音を数えた。しつこく待っていると、不意にぶつん、と雑音が入って唐突に通話がスタートした。

「高槻か?」

 白石の低い声に、康晃の心臓が痛む。歯を剥いて掴みかかりそうな康晃の額に手を置いて押しとどめながら、巧は考え考え話を切り出した。

「ちょっと話し合いたい事が有るんだが……今から出て来れるか?」







 ばらばらになったハートを踏みつけにされて痛むのが嫌だからと、部長との関係を無かったことにしようとしているのに、何故それがこんなに涙が溢れて更に更に胸が痛いのだろうか。

 こんなに痛いのなら、藤城を避けることに何の意味も無いのではないか?

(いやいや……きっと自分が果穂じゃないとばれた時の蔑む視線を向けられた時の方がもっと痛い筈)

 今以上に彼に惹かれたら破滅しか待っていない。

 必要以上にしょっぱい夕飯を終えた後、不意に鳴り響いたコール音。無視しようかと逡巡し、結局着信が白石だったことから仕事の事か、果穂の事かと彼女は電話に出た。

 なんだかひどく不明瞭で曖昧な言い方で「果梨の家の傍で会おう」と言ってきた。

 何か話し合いが有るらしい。

 ただそれが酷く遠回しな言い方で、最終的に果梨が「つまりは私のアパートの付近で良いってことなんでしょうか?」と聞き返す始末だ。

 時刻は二十一時を過ぎている。パーカーにデニムのスカートという出で立ちに、泣きはらした目を隠すよう、デカめの眼鏡を掛けて出掛ける。近くに午前零時までやっている喫茶店が有るのだ。

 駅から十分ほどのそこは、クリーム色と木目が明るいウッド調の内装で、吹き抜けの先にある天井にはガラス窓が嵌っていた。

 落ち着いたオレンジのランプが赤いテーブルクロスの上でほっこりと輝いている。

 細長い建物で、入り口の奥に陣取った果梨は、カモミールティーを注文しぼんやりと暗い窓から向こうを見詰めていた。

 遅い時間にも関わらず、帰宅途中のサラリーマンやOLが一息吐いている。

 すぐに家に帰るのもためらわれた人々が、一瞬の休息を求めているのだろう。ぼさぼさの髪と、化粧の剥がれた顔に眼鏡をしていても気にならない、優しい空気が満ちている。

 あの戦闘以来、閉店まで粘った日々が結構あった。家に居ても落ち込むばかりで、せめて美味しいお茶でも飲みたいと居心地のいい空間に癒しを求めたのだ。

 あの時と同じカモミールティーを持って来てくれた、丸い顔に柔らかなボブヘアの女性が、何も言わずただ笑顔を見せてくれた。マスターの奥さんである彼女はいつも、何も言わない。だがその笑顔が涙が出る程優しいのだ。

 彼女の背中を見送った後、ほうっと溜息を吐いて果梨は温かなお茶を飲んだ。

 なんで涙が出るのか。

 じっと自分の心の裡を覗いてみる。

 そうすると、最終的に彼女の前に姿を現したのは「藤城を諦める事」だった。

 まさかそんな、と動揺するが、自分の中にある涙の原因はそれしか思い当たらなかった。

 彼とこれ以上深く付き合ってはいけない。

 そう言い聞かせれば言い聞かせる程、心臓の辺りが熱くなって震えるのだ。

(ああもう……なんでこうなったんだろ……)

 でも今なら引き返せる。

 藤城の事を諦めて、果穂の代わりを全うする。今なら出来る。そう……イマナラ……。

 再びじわりと目尻に涙が滲んで、果穂は腹が立った。

 なんだってこんなに、涙腺が緩いのか。どうでもいいではないか。藤城が気に掛けているのは果穂なのだ。そう、果穂。

 自分が演じている、果穂の事だ。そしてそれがばれるわけには行かないから……だから……。

 ふと、こちらに近づく足音がして、果梨は我に返った。

 慌てて手にしていた小さなバッグからハンカチを取り出して目尻を拭く。

 それからしゃんと背筋を伸ばし、真正面をじっと見た。

 やって来た人間が、どっかりと向かいに座った。

 その瞬間、果梨の世界は崩壊した。

「よう、四時間ぶりだな」

 口から悲鳴が漏れるのを辛うじて堪え、果梨は一瞬で血の気が失せ、身体が高熱を出したようにぶるぶる震え出すのを感じた。

 全体内の、全臓器が震えている。

 体中をめぐる赤血球も震えている気がする。

 白血球が外敵に備えよと、全身の免疫機能を刺激してる気もする。

「顔色悪いな」

 淡々とした口調が恐怖だ。

 テーブルに肘を付き、両手を組んでその上に顎を乗せた康晃が、最凶の捕食者のような眼差しでこちらを見て居た。そのまま口を開けば牙が見えるかもしれない。

 果梨をずたずたにする牙が。

「どうした? ああ、白石か? 悪いが奴は来ない。会いたかったのだとしたら申し訳ない」

 にっこり。

 彼が微笑むと、崩壊した世界に雷雨が到来した。気温、気圧、機嫌が目に見えて低下していく。その中心が果梨だ。ゲリラ豪雨だ。突然の土砂降りだ。

 膝が震えて立ち上がれない。馬鹿みたいに康晃を見詰め続ける高槻に、彼は緩く首を振った。

「全く……お前は約束も守れないのか? 社会人としてどうかと思うぞ」

 あくまで冷静なその台詞が怖すぎる。

「で? 俺との約束をすっぽかした言い訳は?」

 微塵も崩れぬ笑顔のまま尋ねられ、果梨は血の気が失せた脳をフル回転させた。

 この人から逃げなければ。逃げるのだ。さあ、早く!

「部長が……嫌いだから逃げましたッ」

 何も思い付かない脳がはじき出したその台詞は、世界を乖離させる破壊力を持っていた。


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