春に偲(しの)ぶ

火竜の子

 母さまは、いつも少女のように頬を染めて父上を見つめていた。母さまの膝枕で微睡まどろむ父上の黒髪に指を滑らせながら、子守唄のような優しさで祈りの言葉を口ずさんでいた。


 父上は、かつて大陸で名を馳せた「火竜」の傭兵であることを封印してティシュトリアの地に根を下ろした。左手を失ってまで父上への想いを貫いた母さまを守り、共に生きるために。



 そして、僕が生まれた。






 たった一度だけ、母さまが父上と言い争っているのを耳にしたことがある。僕が初めて戦場に赴く数日前のことだ。

 じゃれつくグラムの相手をしている間に暖炉の前で眠り込んでしまった。風邪を引いてしまうわよ、と少し心配そうに声を掛けて僕を毛布で包み込もうとしていた母さまに、僕がずっと言えずにいた秘密を告げる父上の静かな声が、夢の国を漂いかけていた僕をこちらの世界に引き戻した。


「……何を言っているの、シグリド?」

「こいつが自分でそう決めたんだ。止めるなよ、ファラン」

「そんな……駄目よ……絶対に駄目! この子を戦場に連れて行くだなんて!」

「初めてのいくさだ、前線には決して出さない。何があっても俺が必ず守り抜く」

「そういうことじゃなくて……! 人の痛みを感じ取るこの子に、人の命を奪えというの? それがどれだけむごい事なのか、あなたには分からないの? お願いよ、シグリド、この子の心を傷つけないで。私の小さな息子を……」

「俺たちの、だ。ファレルは俺たち二人の子だ。こいつの中には『火竜』の血も流れている」

 いつになく険しさを増した父上の声に、母さまが、ひゅうっ、と息を呑んだ。

「こいつはただ、お前や、自分が生まれたこの国を守るために、強くなりたいだけなんだ」

「私は、あなたに守られているわ。それで十分なのに……やっぱり駄目よ、シグリド……この子に、人殺しなんかさせないで! お願い、ファレルを止めて!」


 眼を閉じたまま二人の声に耳を傾けながら、母さまの心が悲鳴を上げているのを感じて、僕の心まで泣きそうになった。父上は、僕が母さまに言いだせずにいるのを知っていて、母さまの怒りをわざと自分の方へ向けさせようとしているんだ。


「ファラン」


 語る言葉こそ少ないけれど、父上はいつだって、僕が母さまを困らせたくなくて心の中に仕舞い込んだことを何も言わずにみ取って、それとなく母さまに伝えてくれる。母さまや僕のように心の声が聞こえるはずのない父上が、どうして僕の心を見透かしてしまうのか、とても不思議なんだけれど……


「俺たちの息子を信じてやってくれないか? 『火竜』の母として、涙など見せず、誇らしげに送り出してやってくれ」




 旅立ちの朝。

 王都軍の騎兵達が居並ぶ中、父上の腕の中で別れを惜しむ母さまが、泣き腫らして真っ赤になった瞳を僕に向けた。無理に笑顔を作ろうとして引きつった口元が痛々しい。


 幼い頃から、いつもそうだった。

 父上が「王の盾」の護衛として戦場に向かうたび、母さまは僕の手を痛いほど握りしめたまま、父上の胸に顔を埋めて小さな肩を震わせていた。

 大好きな母さまを泣かせるなんて、たとえ父上でも許さない……そんな思いで父上をにらみつける僕の赤い髪を、大きな手が、くしゃり、と撫でる。「母さまを頼んだぞ」と静かにささやきながら。



 父上と僕がいない間、誰が母さまを守るんだろう? 不安に押しつぶされそうになって、眠れぬ夜を過ごすに違いないのに……そう思うと、心の奥がきりりと痛んだ。でも、グウェレイン様に「母さまを頼みます」とお願いしておいたから、きっと大丈夫だ。

 僕はただ、早く父上のような「火竜」になりたいんだ。父上のように強くなって、母さまを守るから。だから……


「ファレル、お別れの口づけはしてくれないの?」

 長身のティシュトリアの女性に比べて一際ひときわ小柄で幼い顔立ちの、母と呼ぶには愛らしすぎる女性ひとが、僕とそっくりの赤い巻き毛をふわりと揺らして、少女のように恥ずかしそうに笑いかける。 

「愛しているわ、私の小さなファレル。大丈夫よ、あなたは強い子だから……でも、心が折れそうになったら、母さまのことを想ってちょうだい。母さまも、あなたのことをいつも想っているから」

 

 母さまの嘘つき。母さまの心は、いつだって父上のものだ。それくらい、僕だって知っている。

 「魂の伴侶」として惹かれ合った二人の間には、誰も入り込む隙間なんてない。僕が母さまを傷つけると思って隠し続けてきたことも、父上は躊躇ためらいもせずに打ち明けてしまう。母さまが父上の全てを受け入れてくれると知っているから……素敵だとは思うけど、僕はちょっとだけ父上がうらやましい。


 いつの日か、僕にも、僕だけをひたすら信じて、ずっと想い続けてくれる……そんな女性ひとが現れるのかな。


 そんなことを思いながら、父上の手から離れて僕に駆け寄る愛しい母さまを、しっかりと抱きしめた。



***



 ……あれは確か、初めて戦場に立った十二の春のことだ。

 もう十数年も前のことを、なぜ今頃になって思い出したのだろう。


 

 父のそばで、いつも幸せそうに微笑んでいた母は、あの時から床に臥せることが多くなった。

 そして、あの朝。ティシュトリアの厳しい冬が明けるのを待たずに「果ての世界」に旅立って行った。

 『そこに救うべき命がある限り』と誓いを立てて人々を癒し続けた母にとって、人の命を奪う戦場に夫と息子を送り出す日々は、身を切るほどの悲しみと苦痛に満ちいていたに違いない。その痛みに、あの小さな身体は耐えられなかった。

 もしも、俺が「治癒師」となって母のそばに居てやれたなら……何度、そう悔やんだか知れない。そうすれば、あんなにも早く逝ってしまうこともなかったはずだ。


 生まれながらに戦士として生きることを強いられた父と違い、血にまみれた道を歩まずとも良いのだと、幼い頃から何度も語り聞かせてくれた母の想いを踏みにじったのに。

 俺の非を責めようともせず、変わらぬ愛情を注ぎ続けてくれた母に、たった一度だけ、詰め寄った事がある。

 どうして、あなたの願いに背いた俺を責めないのか、と。


 一瞬、驚きに大きく見開かれた青灰色の瞳が、次第に柔らかな光を宿して、真っ直ぐにこちらに向けられた。

『よく似ているわ……そういうところ、本当にシグリドにそっくり。どうしようもないくらい頑固なところまで似てしまって……』

 何かを思い出したように、くすり、と小さな笑い声がこぼれ落ちる。

『私の小さなファレル。どうか、自分の信念を曲げることなく生きて。あなたの中に流れる「火竜」の血に恥じることのないように』


 ほんのりと頬を染めて微笑んだ母は、初めて恋を知った少女のように愛らしかった。




「ファレル様、騎兵達が待ちくたびれておりますぞ。そろそろご命令を」

 背後に控えていた「王の盾」の護衛が周囲に鋭い視線を走らせながら、ファレルの耳元でささやいた。

「……ああ、分かっている」

 新緑の森を思わせる鮮やかなみどりの瞳が冷たさを増す。その気配を感じ取ったように、ファレルの背中の剣帯で眠っていた闇色の剣が、ぶううん、と唸り声を上げて目を覚ました。

 視線の先の虚空に浮かぶ「戦さ鴉」の妖艶な姿にわずかにこうべを垂れ、胸元に手をやって父から譲り受けた護り石の首飾りを握りしめると、ファレルは母によく似た優しげな顔に不敵な笑みを浮かべて、冷ややかに告げた。

「愚かな新興国の寄せ集めの軍如きに、がティシュトリアの地を踏ませてやるつもりなど毛頭ない……殲滅せんめつせよ!」


 俺が選んだのは、父と同じ「火竜」として生きることだ。

 父がそうしたように、生まれ故郷と、親愛なる友と、ただ一人愛する女性ひとを守るために。



 そして、また春が巡り来る。




〜春に偲(しの)ぶ〜 了

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最果ての、その先に 由海(ゆうみ) @ahirun

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