タイースと薬草

 覚えておいて、タイース。

 薬草はね、種類によって刈り取る部分が違ってくるの……ああ、小さなあなたにはまだ難しいわね。

 その花は首のところから優しく手折るのよ……そう、とっても上手ね。



 さわさわと風が騒いで、小さな手が差し出した淡い色の可憐な花を、ふわりと揺らした。

 タイースが一生懸命に背伸びをして艶やかな栗色の髪にその花を挿すと、母は嬉しそうに微笑んで幼い息子を抱きしめた。大好きな果実入りの焼き菓子のような、ふわりと甘い香りがした。



***



 庭園を吹き抜ける風が、爽やかな若草と匂い立つ甘い花の香りと共に、懐かしい昔の幻も運んで来たらしい。

 タイースは空を仰ぐとまぶしそうに目を閉じた。


 薬草と色鮮やかな花々で手籠てかごを一杯にした癒し手の娘は、満足げに微笑みながら手にしていた短剣の汚れを丁寧に拭き取ると、腰帯に挟んだ鞘にするりと戻した。金銀の見事な装飾が施されたその剣は、「火竜」の傭兵の兄の手によるものだという。

「お手伝い頂いてありがとうございます。タイース様、とても手慣れていらっしゃるわ。薬草の収穫はコツが要るのに……」

 ファランは意外なものを見た、と言うように青灰色の瞳を大きく輝かせた。

「……母に教わった」

 薬草の生い繁る庭園の風を心地よく感じながら、タイースはファランが差し出した布で手の汚れを拭き取ると、好奇心でいっぱいの娘の視線に気づいて、少し困ったように小さくため息をついた。


「年の離れた四人の兄達が父と共に戦場にいる間、母は幼かった私を連れて、この庭園で寂しさを紛らわすように、少しずつ薬草を植えて時を過ごした。皆の無事を祈りながら、傷に効くもの、毒を薄めるもの、疲れを癒すものを植え続け……気づけば、王城の庭園は母の薬草で埋め尽くされていた」

 薬草園の片隅にある風通しの良い場所にファランを手招くと、薬草を干すために作られた棚を指差した。わあっ、と感嘆の声をあげた娘を見て、タイースが思わず微笑む。

「母は気づいていたんだ。この国に必要なのは、勇猛な戦士を支える治癒の技術だと。前国王の庶子であり『王の盾』の妻である以上、術師達と懇意にする事など許されず、密かに治癒院の蔵書を紐解いて知識を得ては、たった一人で失敗を繰り返しながらこの薬草園を作り上げたのだよ」


 久しく使われた形跡のない棚のほこりを丁寧に払い終えると、ファランは薬草を小分けにして結んでは棚に吊るす作業を手際よく繰り返しながら、どこからか運んできた古びた椅子を少し離れた場所に置いて腰掛けたタイースの声に耳を傾けた。

「タイース様は、この薬草園をお母様の意志と一緒に引き継いだんですね」

「母が亡くなり、この場所を守れる者が私しか居なくなったのでな。戦さに出ている間に荒れ放題になってしまったが……」

 足元の雑草を無造作に引き抜いていたタイースは、小さな足音が近づくのに気づいて顔を上げた。

 陽の光りに透かされて、風になびく炎のように揺らめく赤い巻毛を片手で押さえながら、娘がそっと目の前に差し出した淡い色の可憐な花を、ふわりと風が揺らした。

「……アキレアの花だ」

「ええ。花言葉は『真心を持って』『戦い』『悲嘆を慰める』……ご存知でしたか?」

 にっこりと娘が微笑んだ。

「まるでタイース様のために……いいえ、悲しみを知る戦士のために生まれたような花」


 タイースは戸惑いながらも、ファランに手渡された懐かしい甘さを漂わせる小さな花をゆっくりと鼻先に押し当て、静かに目を閉じた。


 ああ、この香りだ……


 人が寄りつかぬようにと植えた毒草に守られた庭園の最奥で、戦さなど無くなってしまえば良いのにと叫び、先立った息子たちの名を呼び続けながら涙を流していた母。

 その母を両腕で抱きしめる度に、タイースを包み込んだ甘い香り。


「……『癒しの箱』と呼ぶそうだな」

 娘が怪訝な顔をして首を傾げた。

「術を使う力を持たず、治癒の心得しかない『役立たず』を意味する蔑称だ、とアルファドが言っていた」

 返事に困ったように苦笑するファランの手をそっと握ると、タイースは貴族特有の優雅さで娘の前にひざまずき、小さな手の甲に口づけした。

「豊富な知識と才能を持つ治癒師を役立たずなどと呼ぶ者がいれば、私が斬り捨てよう……ファラン、お前のような治癒師の導きこそ、ティシュトリアには必要なのだ」

 シグリドのそれによく似た若草色の澄んだ瞳に見つめられ、ファランは顔が真っ赤に火照るのを感じた。

「お前を蔑称で呼び続けた事を術師達に後悔させてやろう。どうか、この国に留まり、私に力を貸してくれ。必要ならば、お前の夫に掛け合ってやろう。奴が嫌だと言うなら力尽くでも……」

「ええっ? ちょっと……ちょっと待って下さい!」


 一度シグリドに剣を向けたのに、力尽くだなんて……タイース様、今度こそ本当に殺されてしまうわ!


「とにかく……この手を離して下さい! タイース様!」

 先程までの凛とした治癒師の姿からは想像できぬほど、真っ赤な顔をして慌てふためく娘の姿に、タイースは思わず声を上げて笑い出した。


 初めて会った時から、感情を表に出し過ぎる娘だと思っていたが……


 隠し立てもせず、真っ直ぐに向き合おうとするからこそ、あの無愛想な傭兵が手離さぬのだろう。浄化の炎のように全てを包み込む娘が、凍てついた男の心をかたわらで温めているのだ。

「陽も高くなったな……そろそろ鍛錬が終わる頃だろう。あの男が戻る前にお前を部屋に返しておかねば、今度こそ本当に殺されかねん」

 ファランが思わず大きくうなずくのを見て、タイースは苦笑いしながら小さな手を離して立ち上がった。

「では館に戻ろう……ファラン、私が言った事をよく考えてくれ。恐らく、父はシグリドをこの国に引き止めるつもりでいる。お前達にとっても悪い話ではないはずだ。あの男はともかく、大陸をあてもなく旅するなど、お前のような娘の身では辛いだけであろう?」


 タイースの言葉に、ファランはふと考え込んだ。


 確かに初めの頃は大変だったけれど、辛いと思った事は一度もなかったわ。シグリドのそばにいれば安心だし。それに、パルヴィーズ様はお優しくて、聖魔さまも、ああ見えて色々助けて下さるし……


「知らない国を見て、色々な人に出会って……旅も案外、楽しいものですよ」

 にっこり微笑むと、足元に置いていた手籠を持ち上げて館の方へと歩き出したタイースの後を、慌てて追いかけた。

 さわさわと風が吹いて、庭園の草花を優しく揺らしている。

 不意に、ファランが前方の澄んだ空を眺めて立ち止まった。


 娘の足音が急に聞こえなくなった事に気づいてタイースが振り返ると、空を見上げて一点を見つめている娘の姿が目に入った。

「どうした、ファラン?」


 あそこだけ、不自然に空が歪んでいるわ……結界がほころんでいるのね。王城の近くに「ほころび」があるのは、やっぱり良くないわよね……?


「タイース様、あそこに……」

 空を指差したファランの目の前で、「ほころび」の歪みが突然、ぐらりと大きく口を開けて、空の青さを吸い込んだかに見えた。

 次の瞬間、「狭間」の瘴気を含んだ霧と共にそこから飛び出した影が、ゆらりと地上に降り立った。

 ファランをかばうようにして小さな身体を背後に引き寄せると、タイースは咄嗟に剣を抜いた。



 陽の光の下でまばゆく輝く白銀の髪の戦士が、抱えていた血塗れのローブに包まれたを注意深く地面に横たえながら、凍えるような薄氷色の瞳でティシュトリアの若者を射抜くように見据えている。

 タイースの背中に隠れて様子を伺っていたファランが、はあっと大きく息を呑んだ。白い戦士は娘を無言で見つめると、声を出すなと言わんばかりに静かに首を横に振った。

「お前、何者だ? 誰の差し金で……?」

 タイースの問い掛けに耳も貸さず、戦士は地面に横たわる男の血塗れのローブを静かに引き剥がした。

 血に染まった上衣の上に流れ落ちる亜麻色の髪。蒼白の面持ちで静かに眠っているように見えるその男に、タイースは見覚えがあった。

「……パルサヴァード様? 一体……どうして?」


 剣を構えたまま動けずにいるタイースの横をすり抜けて、ファランはパルサヴァードのそばに駆け寄ると、短剣を取り出して迷うことなく血染めの上衣を切り裂いた。右肩から胸にかけて、大きく引き裂かれたような傷口が走り、熟れた果実のようにどす黒く腫れ上がっている。

「獣ね……何に噛まれたの?」

 恐れる様子もなく戦士に問いかけるファランを見て、タイースは驚きながらも「天竜の統べる王国ラスエルクラティア」の王にそっと近付いた。

 白い戦士の声が冷たく響く。

毒竜エレンスゲだ」

 ああ、と悲壮な声を出したファランがパルサヴァードの首筋に指を当てた。弱いながらもまだ脈がある事を確かめると、意を決した表情でタイースを振り返った。

「毒を流し出さないと……タイース様、きれいな水が必要です、出来るだけ多く! それから清潔な布も!」

「治癒院へ運ぶべきではないか?」

「駄目です! 今、動かしては、毒が全身に回ってしまいます……タイース様、急いで!」

 治癒師の娘の鋭い声に、タイースは動揺する心を何とか抑え込むと、館の方へと走り出した。



 ティシュトリアの戦士の姿が遠くに消えるのを確かめて、ロスタルはファランの背中にそっと手を置いた。

「助けられそうか?」

 ファランは道具箱の中にあった精油で傷口を洗いながら、眉をひそめた。

「何とも言えないわ……何があったの、ロスタル?」

「ここに降りて正解だったな……『狭間』を抜けながらお前の気配を感じた」

「ロスタル、答えて!」

 低く苛立ちを含んだ声を上げた小さな娘の背中をゆっくりと撫でながら、白い妖魔はパルサヴァードに視線を向けた。

「この男はラスエルクラティアの大神官パルサヴァード。巫女姫ザシュアが仕掛けた罠に掛かった憐れな王よ。エレンスゲが『狭間』に引きずり込む前に気を失ったのが幸いしたな……然程さほど、瘴気を取り込んではいない」

 青灰色の瞳が驚きに見開かれ、一瞬、手を止めてロスタルを見つめた。

「それって……大神殿で謀反が起きたという事?」

「今頃、ラスエルクラティアでは、ティシュトリアの愚かな若者が国王気取りで玉座に腰掛けているだろう」 

 吐き捨てるように言って、ロスタルはファランの肩を掴んで強引に引き寄せた。

 驚いた娘の手から精油の小瓶が滑り落ちる。


 非難めいた視線で睨みつけるファランを愛しそうに見つめたまま、ロスタルはゆっくりと顔を近づけると、娘の柔らかく甘い唇にそっと口づけた。抵抗しようともがく細い両腕を後ろ手に掴んで、そのまま娘の腰に腕を回して強く抱きしめ、耳元にささやき掛ける。

いくさが始まる。ティシュトリアに居ては、お前も『二つ頭』も巻き込まれるだろう」

 赤い巻毛がぴくりと震えるのを感じて、ロスタルは腕の中の小さな娘を一層強く抱きしめた。


「もう二度と失わない。誰にも渡さない……ファラン、俺と共に来い」

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