治癒師と毒の庭園
『大陸の遥か西の果てにある古びた城塞都市を守る傭兵の中に、金色の髪と紺碧の瞳を持つアスラン・ティシュトリエンの名で呼ばれる男がいる』
神聖文字で書かれたその親書が、大陸の各地に散らばる「王の目」と呼ばれる
弟を探し続けていたイスファルが確証を得ようとした矢先、城塞都市アンパヴァールの陥落と共に、男の消息も途絶えてしまった。
「ようやく戻ったか……」
あの夜。父王の異母姉が起こした謀反の混乱の中で命を落とした妻の亡骸を、浄化の炎が燃え立つ寸前まで抱きしめて離さなかった若者の姿を思い出し、エレミアは懐かしさと共に言いようのない悔しさが込み上げ、思わず目を伏せた。
「あの日からもう三十年近くか。もっと早くに探し出せていれば、或いは……」
苦悶の表情を浮かべて玉座に沈む王を前に、イスファルは静かに首を横に振った。
「アンパヴァールでは領主の城館で守備兵長の役を担っていたそうです。人望厚く、その人柄で誰からも親しまれていた、と。ウォルカシアの家名に頼らず、己の力だけを頼りに、再び生きる意味を最果ての地に見い出したのでしょう。新しい妻を迎える事はなかったようですが……まったく、あいつらしい」
「王の盾」が浮かべた微笑みは、夜明けの仄暗い光を受けて寂然と見える。
探し続けた弟が既に「魂の安息の地」に旅立ってしまった事を、イスファルは戸惑いながらも受け入れたのだ……そう確信して、エレミアは若き日の友の魂へ祈りを捧げた。
「レティシア姫の親書を携えていた御仁だが……パルヴィーズ殿と言ったな。タルトゥス王家に繋がるお方ならば、この城に滞在していただくのが筋であろう? 部屋を用意させよう」
「ああ、その事ですが……」
イスファルは少し困った様な素振りを見せた。
「旅の空の下、野宿も
「なるほど、タルトゥス王家の血筋らしい物言いだな。だが、遊学と称して諸国を旅する間諜の可能性も捨て切れぬ……そう言いたいのであろう、イスファル?」
幼馴染の言動を知り尽くしているエレミアが、王に災いが及ばぬよう常に一歩前に歩み出て自分を守り続ける「王の盾」に
「ところで、アスランの剣を受け継いだ戦士だが……会ってみたいものだな。お前の弟が『息子』と
王の言葉に、さすがのイスファルも苦笑いを隠せなかった。
「それが……なんとも愛想のない男で。弟の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいです。とは言え、心根が真っ直ぐなところが救いでしょうな」
「それもまた興味深い。『火竜』ならば尚の事」
「アルファドに、朝の鍛錬の場に誘い出すよう申し付けておきました。折りあらば、腕試しを兼ねて我が軍の戦士達と手合わせをさせるのも良いかと……後ほどご案内しましょう」
かつて大陸の王侯貴族が最も恐れた「
「イスファルよ、その『火竜』が正式にアスランの養子ともなれば……」
「ティシュトリア軍に引き入れる理由としては充分でしょう、我が王よ。『双頭』ともなれば、
「『王を抱かず、
取るに足らぬ事のように鼻先で笑う王の提案に、イスファルは少し不愉快な表情をすると、考え込むように押し黙った。
アルファドの話では、シグリドには
「既に心に決めた娘が傍らに居ながら、他の女に目を移すような男とも思えませぬが」
「ほお……その娘、我が姫を
「
はあっ、と大きくため息をついて、エレミアは幼馴染を恨めしそうに見つめた。
「イスファルよ、お前は昔から堅物が過ぎる。妻亡き後、一切の女に目もくれず節操を守り通す程だからな……だが、お前の弟が息子と認めた男まで同じとは」
「我が王は酔狂が過ぎる。御子息までが同じ
自らの手で追放した傍若無人な世継ぎの名を出され、エレミアはあからさまに顔を歪めた。
「友よ、その名は二度と出してくれるな……隣国に逃げ込んだと聞くが、その後は?」
「『王の目』曰く、例の巫女姫にご執心だとか」
エレミアは額に刻まれた深い皺に手を置いて顔を垂れると、もう一度、呆れ果てたように大きくため息をついた。
「ザシュアと言うその娘、真に不思議な力を持つ巫女なのであろうか?」
「天竜にお仕えする巫女が戦士の妻になるなど、あり得ぬ事。大方、王を操ろうとする怪しげな術師の
「危うい均衡で何とか保たれてきた大陸の秩序が乱れねば良いがな。我らティシュトリアの上に天竜のご加護があらん事を」
王の祈りの言葉に、イスファルは深々と頭を下げた。
***
嘘でしょう? どうして……?
シグリドを朝の鍛錬に誘うため部屋を訪れたアルファドに、新しい薬草を調達出来る場所がないかファランが恐る恐る尋ねると、「では、誰か人を寄越して薬草園にご案内しましょう」と優しく微笑んでくれた。
それなのに……
「どうした? アルファドからお前を薬草園に連れて行くように言われたのだが」
部屋の扉を開けて佇んだまま動こうとしない小さな娘を見下ろして、タイースは不機嫌そうな声を出した。びくり、と弾かれたように体を震わせてこちら見上げる娘の顔が困惑で引き
「……ファランと言ったな? 薬草なしでは治癒師の役目も務まるまい。ついて来い」
これ以上、娘を怖気付けさせぬよう素早く背を向けると、タイースは父の館と王城に挟まれた中庭にある薬草園へと足を向けた。ぱたぱた、と小さな足音が後に続くのを確かめて、小柄な娘の歩調に合わせるように、いつもよりゆっくりと歩みを進める。
ティシュトリア城内の庭園は色とりどりの花々が咲き乱れ、この城が大陸随一の軍事大国である事を
……この辺りの植物、一見すると美しいけれど、毒のあるものばかりだわ。
「あの……タイース様、ここって……?」
ファランの方を振り返るタイースの口元に、不気味な微笑みが浮かんでいる。
「ええと……どうして王城の庭園に有毒の植物が植えられているんですか?」
「さて、何の事かな?」
……ああ、私、試されているわ。
この人、本当に術師や治癒師を嫌っているのね。
ぐっ、と両手を握って唇を噛み締めると、ファランは長身の戦士の瞳を覗き込むように真っ直ぐに見つめた。
美しさと毒を併せ持つ緑の瞳……まるでこの庭園のようね。
ファランは少し微笑むと、手近にある可憐な花を指さした。
「例えば、この黄色の花。触れた者の肌を焼くラヌクロウスです。知らずに摂取すれば神経の毒に侵され、やがて呼吸困難を起こして死に至ります」
薬箱の中に常備している革製の手袋を素早く身につけて、ファランは花弁を千切って自分の腕に押し付けて見せた。
タイースが思わず、はっと小さく息を呑む。
「大丈夫。私は幼い頃から毒を摂取しているので、ある程度、耐性があるんです」
今更ながらに、祖父の治癒院で、生まれた時から薬草に囲まれて育てられた事を誇りに思った。
「一方で、根を乾燥させたものは、止血剤や炎症を抑えるお茶として使われます」
先程まで獣に狙われた小動物のように震えていた娘が見せた治癒師の誇りに圧倒されたまま、タイースは眉をひそめた。
「なるほど……だが、薬草の知識など、書物を紐解けば身につけられよう」
……ああ、もう! アルファド様ったら、どうしてこの人に私を案内させようと思ったのかしら?
「タイース様が術師だけでなく、治癒師さえも嫌っていらっしゃるのはよく分かりました。薬草園の場所を教えて頂くだけで結構です。それ以上、ご迷惑はお掛けしませんから」
「その薬草園は私の所有なのだよ。アルファドに聞かなかったのか?」
驚いた顔をした娘を面白そうに見つめると、タイースは薬草が生い繁る一画に足を踏み入れた。
「正しくは、母が所有していたものを私が相続した、と言うべきか。とにかく、私の案内なしで、危険な毒草に守られた庭園の奥深くに足を踏み入れさせるわけにはいかない」
「でも、王都軍の術師達が育てる薬草園があるはずでは……?」
「あるにはあるが、お前が必要とするものが手に入るかどうか。他国に比べて我が国の治癒技術は遅れている。妖術師の王国スェヴェリスを滅亡させた国であるが故の
軍事大国として大陸に君臨するティシュトリアの闇という訳ね……アルスレッド様の言った通りだわ。
「戦場に多くの戦士を送り出すような国こそ、豊かな治癒の知識と確かな技術が必要なのに……負傷兵の手当てをするのは術師や治癒師の大切な役目ではありませんか?」
長身の戦士の瞳が悲し気に曇った気がして、ファランは少しだけタイースのそばに近付いた。
「ティシュトリアの戦士は死など恐れぬ……それが全ての間違いだと、私は何度も提言した。従軍する術師の数が圧倒的に少なすぎる事もな。たとえ、剣を握る腕や敵陣を駆け抜ける脚を失い、二度と戦場に立つ事が叶わなくとも、治療を施せば救える命は沢山あると言うのに……愚かな『戦士の誇り』のためだけに、傷を負い動けなくなった者は戦場に置き去りにされ、自刃して果てる運命を背負わされている。捨て駒である戦士など、幾らでも替えが利くからな」
タイースの皮肉を込めた口調が、ファランには悲壮な叫びとして心に響いていた。
「ティシュトリアの守護の剣は、己の命を奪うための剣でもあるのだよ。そうして……」
悔しそうに顔を歪めた戦士の瞳から一筋の涙が、すうっとこぼれ落ちた。
「私の兄達も命を奪われた」
……ああ、だからなのね。
あの時、この人の心が悲鳴を上げるのを聞いたのは。
「辛かったでしょうね……でも、あなたが望む未来はやって来るわ。いつか、必ず」
庭園を抜ける風が、赤い巻毛を揺らしながら癒し手の言葉を運び、甘い花の香りと共にタイースを優しく包み込んだ。
娘の小さな手が長身の戦士の両頬に触れ、流れ落ちる涙を受け止め、そっと拭う。
「あなたが望めば、今とは違う未来が必ずやって来るわ。シグリドがここに滞在している間、私の技術や知識で良ければ、ティシュトリアの治癒師に教えて差し上げあげます。薬草の知識や使い方は、術師や治癒師でなくても女達が覚えれば必ず役立つはず……そうすれば、今より多くの命を救う事が出来るでしょう?」
喉の奥から
「大丈夫、誰にも聞こえないわ。毒草があるから誰も入って来れないのでしょう?」
ファランは背伸びをして長身の戦士の顔にかかる髪を払ってやった。
その瞬間、ふわりと甘い香りがタイースを包み込んだ。
……ああ、アキレアの花の香りだ。
痛みを取り除くと言われる可憐な花。
目の前にいる小さな癒し手がまとうその香りは、心に優しく染み込んで、悲しみや苦しみを押し流していく。
ふと、タイースは己の頰に流れる涙に気づいて、心の奥底に隠し続けていた想いを抑えることなど、この娘の前では出来ぬのだと悟った。
「どんな姿になっても、生きてさえいてくれれば……それだけで良かったのに。戦場から亡骸として戻った兄上達に、私は何もしてやれなかった。多くの書物を紐解き、刀傷や毒に効くと言われる植物を掻き集め、どれほど多くの知識を頭に詰め込んだところで、私には兄上達を救う事さえ叶わなかった……」
タイースはファランの小さな肩に顔を埋めたまま、声を上げて泣き続けた。
救えなかった兄達の魂に届けとばかりに。
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