巫女姫の甘い囁き

 青灰色の瞳が、イスファルの元から戻ったシグリドの姿を見て喜びに輝いた。

 が、左腕に巻かれた血染めの布に気づいた瞬間、ファランは両手で口を覆って小さく息を呑むと、すぐさま道具箱を掴んで愛しい男のそばに駆け寄った。



***



「では、しばらくの間、イスファル殿の世話になる、という事ですね?」 

 長椅子に腰掛けて、切り裂かれた腕の傷を丁寧に縫い合わせていくファランの手元を見つめたまま事の成り行きを語るシグリドに、パルヴィーズが優しく声を掛けた。

 シグリドは視線を動かそうともせずにうなずくと、少し首を傾けて、床の上に座り込んだまま手当てを続ける娘の顔を覗き込み、顔にかかる赤い巻毛を優しく払いのけた。

「お前はどう思う、ファラン?」


 新しい布でしっかりと傷口を覆うと、ファランは手を止めてシグリドを見上げた。新緑の森を思わせる瞳が戸惑いを隠し切れずに揺らぐのを見て、両膝をついたまま身を起こし、両手を優しくシグリドの首に回してゆっくりと逞しい身体を引き寄せた。

 ふわり、と匂い立つ甘い花の香りに心地よい目眩めまいを覚えて、シグリドは大きく息を呑んで目を閉じると、ファランの小さな肩に顔を埋めるように身を任せた。

「アスラン様の生まれた国をもっと知りたいのでしょう? イスファル様のご厚意に甘えさせてもらえば良いと思うわ」

「お前はそれで良いのか? この国は治癒師にとって住み良い場所ではないのだろう?」

 まるで幼子をあやすように優しく黒髪を撫でていたファランが軽やかに笑い、シグリドが顔を上げて怪訝な面持ちで娘を見つめた。

「私は大丈夫。『癒しの箱』だもの、何処に居ても同じことだわ。それに……」


 自分の命の尊さに気づかないあなたが、何かを求めて生きようとしてくれるだけで私は嬉しいの。


 そう言いかけて、もう一度シグリドの瞳を覗き込むと、ファランは顔を近づけて唇が触れる距離でささやいた。

「あなたが居る場所が、私にとっては一番なのよ」



 パルヴィーズの肩の上で金色の髪に埋もれたまま東の空を睨みつけていた銀色の鴉が、突然、くわっと甲高い声を上げ、逆毛を立てて身体を膨らませた。

 無愛想な火竜の若者と心優しい癒し手の娘に、この平穏な日々がいつまでも続いて欲しい……寄り添う二人を見守りながら、忍び寄る嵐の予感を振り払うように、パルヴィーズは心の中で静かに祈った。



***



 朝の祈りを終えたパルサヴァードが振り向くと、祭壇に続く階段の手前で伏せ目がちにひざまずいていた巫女姫がゆっくりと面を上げた。

 高く結い上げられた髪に飾られた宝玉が松明に照らされて輝きを放ち、清貧であるべき巫女らしからぬ余りのまばゆさに、パルサヴァードは思わず顔をしかめた。少女の姿をした妖しげな生き物が、不気味な微笑みを浮かべながら仄暗い黄昏たそがれを思わせる薄紫色の瞳でこちらを見つめている。

 ぎりり、と胸の奥を鷲掴みにされたような激しい痛みに襲われ、パルサヴァードは思わず胸に手を当てて倒れそうになるのを必死にこらえると、呪縛の瞳から何とか逃れた。



 ああ、この娘……!

 天竜の神殿に、何故、これほど禍々まがまがしい悪意に満ちた魂が紛れ込んでいるのだ?

 民よ、どうか、目を覚ましておくれ。目の前にいるのは、もはや人の子とは呼べぬ異形の者だ。神々しさなどとは程遠い娘の皮を被った魔物を「巫女姫」などと呼んで崇めるなど、何と愚かしい事か。

 駄目だ、このままではこの王国は……いや、大陸中が……


 パルサヴァードは、人々の悲鳴を掻き消して燃え上がる業火が、血肉を焼きながら大陸を呑み込んでいく光景を垣間見た気がして、ぶるりと身震いした。


 ……ああ、聖なる天竜ラスエルよ。

 何故、この私に、現実との区別がつかぬほど鮮やかな幻をお見せになるのですか? 

 あなたの声を聴く祝福を私に与えながら、何故、魔に染まった魂と対峙し得る力を与えては下さらなかったのですか? 

 何の術を操る力も持たぬ私に、一体何をお望みなのですか?



「お顔の色が優れぬようですが、大神官様、如何いかがされましたか?」

 ザシュアの声に、はっと我に返ったパルサヴァードが、巫女姫の声に酔いしれる群衆に慈悲に満ちた視線を向けた。心を震わせる甘い響きを持つその声こそが、毒なのだ、どうか、目覚めておくれ、と心の中で祈りながら。

「王よ、巫女姫が天啓を得たようです」

 パルサヴァードのそばに控えていた神官がささやき、儀式の進行を促した。

 この耐え難い痛みは尋常ではない……そう感じながら、パルサヴァードはザシュアに向かって儀礼通りの言葉を掛けた。

「巫女よ、聖なる天竜の声を聴いたか」


 民をあざむいたまま、愚かな茶番をいつまで続ければ良いのだ? 

 ああ、誰か、終わらせてくれ……


「王よ、お喜び下さい。天竜はおっしゃいました」

 パルサヴァードの心の内を見透かすように、ザシュアは美しい顔に冷酷な微笑みを浮かべながらゆっくりと言葉を編み上げた。

「天啓をないがしろにしたティシュトリアに、天罰を、と」

 その言葉と共に、女術師の奥底に眠る憎悪を織り込んだ呪詛が解き放たれ、神殿内は凍てつくような静寂に包まれた。


 突如、ひいっ、と女の悲鳴が祭壇の手前から漏れた。

 次の瞬間、狂喜に満ちた叫び声が至る所で上がり、それは大きなうねりとなって、やいばの如くパルサヴァードの心を貫いた。

「ティシュトリアに天罰を! 我らに天竜の御導きあれ!」




 ……何だ、もう終わったのか?


『呪詛を聴かぬよう、しっかりと耳を閉ざしておいでなさい。私が大神官に相対したその時を、合図と致しましょう』

 回廊の片隅で、ザシュアに言われた通り蜜蝋ミツロウを詰めた両耳をふさいでいた手を離し、耳の中にこびりつく不快な塊を取り出して投げ捨てると、エスキルは熱狂する群衆の姿に眼もくれず、なすすべもなく立ち尽くす大神官と、不気味な使い魔を頭上に従えたザシュアが佇む祭壇に向かって歩き出した。

 回廊の脇から飛び出した若者が目の前を横切り、すかさず剣の柄に手を掛けたエスキルだったが、若者の様子を見て舌打ちすると、眉をひそめて動きを止めた。

「巫女姫様に天竜のご加護を……ティシュトリアに天罰を!」

 目の前の戦士に気づいた様子もなく、若者は焦点の合わぬ眼差しを宙に漂わせたまま叫び声を上げると、そのまま狂乱の渦に引き込まれるように祭壇の方へと駆け抜けて行った。それを皮切りに、次から次へと回廊に人々が雪崩れ込み、追い詰められた獣の群れのように祭壇へと押し寄せて行く。


 ……なるほど。これがあの女術師の「呪詛」のなせる技か。


 薄笑いを浮かべながら舌舐めずりして剣を抜くと、エスキルは先を急いだ。

 


***


 

「……ティシュトリアに天罰を、だと?」


 この娘、何を言っているのだ? 

 数え切れぬ程のむくろいしずえとして築き上げられた平穏な世界を……危うい均衡を保ちながらも百年続いた大陸の秩序を、狂わせよと言うのか?


「巫女よ、天竜が加護を与えし彼の王国に攻め入れと? そなたは……この大陸に再び災いを呼ぶつもりか!」

 パルサヴァードは痛みに打ち震えながらザシュアを睨みつけ、力の限りを振り絞り、神殿の長たる「天竜の統べる王国ラスエルクラティア」の王の威厳に満ちた声で一喝した。

「……災い、ですと?」

 幾千もの夜を見つめ続けて来た黄昏たそがれ色の瞳が異様な冷たさを増し、ザシュアの顔から幼さがすっかりと消え去った。

たっとき聖魔の王たる天竜に祈りを捧げる身でありながら、『魔の系譜』を狩れと人の子らをあおり、ティシュトリアに我が故国スェヴェリス討伐の機会を与えた愚かなこの国こそが、全ての災いの火種であると、まだお分かりになりませんか、大神官殿?」

 妖しい微笑みを浮かべたまま、女術師は頭上高く手を差し伸べ、空を切るように振り下ろした。


 突如、ザラシュトラを取り囲んでいた巫女達が大きな悲鳴を上げた。

 逃げる間もなく、揺らいだ空間から飛び出した醜悪な竜エレンスゲに毒牙を突き立てられた憐れな女達が、あっという間に「狭間」に引きずり込まれていく。

 「天竜の御使」と信じていた生き物が妖獣であった事に動揺を隠しきれぬ神官達と、恐怖に震える手で咄嗟に剣を引き抜いた護衛の戦士達を、上空から滑り降りたエレンスゲ達が次々と追い立て、「狭間」に引きずり込んでは姿を消す……生臭い獣の息使いと血の匂いだけを残して。


 パルサヴァードは周囲に漂う死の匂いに息を詰まらせながら、なすすべもなく立ち尽くした。

「ご安心下さい、大神官殿。けがれを知らぬ魂ならば、たとえ妖獣に喰われようと取り込まれる事はありませぬ。彼らが求めるのは柔らかく甘い人の子の血肉のみ……ああ、ですが、生きながら喰われる恐怖を味わった魂が、魔に堕ちずに『魂の安息の地』へ辿り着けるかどうかまでは、さすがの『巫女姫』と言えども確約出来ませんわ……」

 くくっ、と耳障りな嗤い声を上げて、巫女の皮を被った女術師がパルサヴァードを見つめている。

「神聖なる神殿を血で汚さぬよう、これでも細心の注意を払っているのですよ、パルサヴァード様。さあ、己のその耳でお聴きなさい。天竜の信徒達が真に求める心からの叫びを……!」

 

『ティシュトリアに天罰を! 我らに天竜の御導きあれ!』

『聖なる巫女姫よ、我らを導き給え!』

『ザシュア様こそ我らが王に相応しい!』

『役立たずの大神官など、祭壇から引きずり下ろしてしまえ!』


 熱気を帯びた叫び声が神殿内を駆け巡り、呪詛の甘い毒に我を忘れた群衆は、祭殿の前で起こっている凄惨な生贄の儀式さえ理解出来ていないようだ。

 身体中を引き裂かれるような痛みに耐えきれず、パルサヴァードは冷たい床の上に膝をついて崩れ落ちた。


 天竜よ、お許し下さい。私ではこの邪悪なる魂を止める事は出来ません。

 ああ、誰か、この狂気を終わらせてくれ……



 

 行く手をさえぎる者達を容赦なく切り捨てながら、なんとか祭壇の前に辿り着いたエスキルの前に、いつの間にか地上に降り立った毒竜エレンスゲが醜悪な姿をさらしながら威嚇するように翼を広げて立ち塞がった。その下顎したあごから赤黒い液体がねっとりと滴り落ちている。

「……ザシュアよ、悪い冗談だな。この俺に、妖獣相手に剣を振るえとでも?」

 誇り高きティシュトリアの戦士はあからさまに不機嫌な声を上げると、妖獣に剣を向けた。

 後ろを振り返りもせずに美しい眉をひそめた巫女姫が、エスキルの動きを制止するように右手を上げ、使い魔に何事かつぶやいた。途端に、エレンスゲは甲高い咆哮を上げると、大きく羽ばたきながら天井近くに舞い戻って行った。



 お付きの巫女や護衛達が次々に姿を消すのを遠目に見ていたエスキルは、大神官パルサヴァードが蒼白の面持ちで床に膝をついたまま、怒りに満ちた眼差しを巫女姫に向けるのを目にして、愉快そうに口元を釣り上げた。

「ほお、祈りを捧げている時は虫も殺さぬ顔をしていた男が……その様な顔も出来るのだな」

「エスキル様、結界の中で剣は無用です」

 鮮血滴る長剣を忌々しそうに見つめながら、ザラシュトラは結界の一部を解いてエスキルを中へといざなった。

「ザシュアよ。お前がこの騒ぎをどう収めるか、見ものだな」

 歪んだ笑顔を浮かべたまま、エスキルは血に汚れた手で巫女姫の腰を引き寄せると、むさぼるように唇を奪った。しかし、表情一つ変えずねやでの妖艶さを微塵も感じさせない女に気づき、怪訝な顔を向けた。

 深い闇を宿す薄紫色の瞳は凍りつき、愛らしかったはずの顔は憎しみに歪んでいる。

「……なるほど。これが本来のお前という訳か」

 腰に回していた腕に一層力を込めた屈強な若者が不敵なわらい声を上げるのを耳にして、ザラシュトラは不本意にも心が乱されるのを感じた。

「何が可笑しいのです?」

 くくっ、と笑いをこらえるような音を漏らすと、エスキルはもう一度、女術師に口づけた。

「言ったはずだ。お前のような女は嫌いではない、とな……ザシュア、本当の名は何という?」


 故国を滅ぼしたティシュトリアの世継ぎの腕に抱かれて胸の奥が熱くうずくのを感じて、スェヴェリスの巫女は驚愕に大きく目を見開いたままゆっくりと首を横に振った

「……ザラシュトラとお呼び下さい。では、エスキル様、パルサヴァード様の命をあなたに捧げると致しましょう」

「さすがに『天竜の統べる王国ラスエルクラティア』の王の命を奪うのは不味いのではないか? 大陸中の王国を敵に回す事になるぞ」

 その言葉に、女術師は妖艶な微笑みを浮かべた。

「天啓に背いた王を廃し、新しい王を立てれば良い事です」


 この女、やはり良いな……


 エスキルは舌舐めずりしながら、抑えきれぬ欲望にぎらぎらと輝きを増した瞳をザラシュトラに向けた。



 女術師は白く細い指先でエスキルの頬をゆっくりとなぞりながら、パルサヴァードに視線を向けて甘くささやいた。その言葉の奥底に、使い魔だけが理解する呪詛を絡めて。

「ティシュトリアの正統な世継ぎにして天竜の巫女の伴侶たるエスキル様こそ、ラスエルクラティアの次代の王に相応しい」


 パルサヴァードの頭上で、神殿の奥底にまで響き渡る咆哮が上がり、ばさり、ばさりと醜い翼の獣が地上に降り立った。


 ……やはりこの女は狂っている。

 底知れぬ憎しみをティシュトリアに抱き、ラスエルクラティアに牙を剥き、大陸全土を暗闇で覆い尽くそうとしている。

 胸を締め付ける痛みは既に限界を超えている。もうこれ以上、正気を保っていられそうにない。


 ああ、誰か終わらせてくれ……



 目の前が霧に包まれるように次第に薄暗くなり、肩に喰い込む毒牙の痛みを感じながら、パルサヴァードは意識を手放した。

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